[2-15] 会戦の前半
この会戦を戦略史上の最高傑作と称する歴史家は多い。
その理由として挙げられるのが、かの有名なハル・ミハエルの戦中和平だ。この会戦では勝敗を決した瞬間に和平が成立したのである。これにより、この会戦では異様に戦死者が少なかった。
そもそも、戦闘で最も人が死ぬのは追撃戦である。
戦友たちと盾を揃えて敵と激突している間はなかなか死なないものだ。しかし、一度、士気が崩壊して隊列が崩れて逃げ出せば、背中を守る槍と矢から身を守るものはなくなる。兵の多くは歩兵であり、騎兵の追撃から逃れられない。仮に逃げのびたとしても、故郷から遠い戦地で生き延びるために賊に成り下がる者も多く、彼ら村を襲いはじめる。戦争は地獄であるが、本当の地獄はその終わり際から始まるのだ。
ゆえに戦争は終わらせ方が最も重要なのである。
そして両軍の総司令であったミハエルとハルはまさにその天才だった。この二人は勝敗を見極めた瞬間、まるで息を合わせたかのように和平を結ぶ。
負けるから無能なのではない。負けを認めず固執するから害悪なのだ。形勢が決まった後も、ずるずると戦いをやめずに国を破滅に追いやる指導者は多い。有能とは勝利への情熱と敗北を受け入れる冷静さの均衡にこそ見出されるものだ。
ゆえに、この傑作は両軍を率いた二人の天才による競作なのである。
……と、ここまでが歴史家先生たちのもっぱらである。
どうも学者という人種は、偉業がなされた理由をトップ個人の能力や器だけに求めがちであるようだ。
だが、俗世の仕事をもっぱらにしている我々は、仕事の成否にトップは関係ない、ということを知っている。むしろ、余計な口を出されると失敗するまである。
とはいえ、学者先生たちに日頃のうっぷんをブチまけるのはよろしくない。成果にせよ責任にせよ、それをトップに代表させるのは説明をシンプルにするための工夫に過ぎないのだから。
だから読者諸君は落ち着いてほしい。例え、成功の成果をトップが独り占めにして、失敗の責任ばかりを諸君たちが取らされているとしてもだ。
さて、ソーヤだ。この物語は彼を中心として描いてきた。
ここまで読んだ方はもう気がついているかもしれないが、私はひとつの仮説を胸に抱いて書き進めてきた。
名君と呼ばれた聖王ミハエル・ヴァハルは、もしかしたら読者諸君の愚かな上司のようなものだったのかも知れない、という不敬な妄想だ。いかに名君とはいえ一人で統治は出来ない。諸君のような有能な部下がいただろう。おそらく、その成果の大部分は部下が成し遂げたものだろう。しかし、そのような穿った見方では歴史学者は書かないのである。
私はこのひねくれた視線で、ソーヤという人物を見てきた。すると、普通なら見過ごすような事実に目がとまるようになる。
例えば、歴史上の最高傑作、などと呼ばれるこの和平は当時の資料に以下のように記述されている。
ソーヤは名君ミハエルの指示に従い、フェン軍を率いて帝国軍後背の奇襲をおこなった。これを契機にして形勢は逆転し、それを機とみた聖王国側は交渉のテーブルを用意した。名君ミハエルと軍司令ハルは共に
私が疑問に思ったのは「共に雪木花衣を楽しみ」のくだりである。聖王国では他国との交渉でも喫茶テーブルを用意することが多かった。そこで執り行われた茶事が雪木花衣であったらしい。
これはフェンの大茶事である。
だとすれば、天才二人の競作と名高いこの和平はフェン家が用意したテーブルの上でなされたのである。で、あればこの和平を実現したのはフェン家なのでは?
……いずれにせよ、私の妄想だ。しかし、この物語を再開する前に会戦の戦況について述べておこう。
聖王国1004年、イジヴァル平原にて両軍は衝突した。
開始直後に、聖王国軍は戦車を最前線に並べた。
この戦車は四頭の馬にひかせたもので、聖王国の魔術師が好んで使う戦術の一つだ。荷台に高い
この戦車は聖王国の定石とも言える戦術だった。
まずは戦車から魔術を放つ。敵が迎撃するために前進すれば歩兵を前に出して受け止め、戦車から炎や雷を放ち続けて支援する。
敵もそれは分かっているので、まずは騎兵を先行させて戦車の破壊を狙う。足の速い騎兵であれば魔術で狙い撃ちされることはない。この騎兵に対して、聖王国側も護衛の騎士団で迎撃することになる。
このように、会戦では騎兵戦から始まり、この勝敗によって魔術士の安全が決まる。魔術師を貴族とする聖王国が、平民の騎士階級を認めている理由はここにある。
だが、この時の帝国軍には大族長リュウが率いる五百もの飛竜傭兵が加わっていた。
帝国軍司令ハルはこの飛竜傭兵を先行させて戦車を襲わせる。
飛竜たちは騎士たちの頭上を飛び越え、次々と槍を投げつけて戦車を針山のようにした。高速の飛竜からすれ違いざまに投げつける槍は、鋼鉄すら穴を開けるほどの威力がある。木製の戦車などひとたまりもなく、崩れ落ちる戦車が続出した。
あの聖王国の魔術士団が壊滅したか、と遠目で見物していた帝国兵たちは歓声をあげたそうだ。しかし、戦車の上にははためいていた魔術師のローブはカカシに着せたもので、実際は誰も乗っていなかったのである。
飛竜傭兵たちがそれに気がついたのは槍を投げつくした後だった。その時、飛竜たちを魔術による暴風が横殴りにする。ミハエルがあらかじめ歩兵隊の中に隠しておいた魔術師によるもので、これに飛竜たちは飛行が困難になり中には落下する者まで出た。
落下したものは騎兵に刺し殺され、そうでない者も散り散りになったところで聖騎士たちが追撃した。
こうして、初戦では飛竜傭兵たちは撃退された。
しかし、大族長リュウによる素早い撤退判断もあり、飛竜の損害は死者三十騎、負傷は二百騎程度であったとされる。残りの約三百騎は後方で槍を補充すれば復帰は可能なままである。それを引き換えに聖王国は戦車を全て失ってしまった。
この時点では、帝国側の圧倒的な優位は揺らいでいない。
むしろ、飛竜傭兵の撃退と引き換えに戦車が全滅したことによって、聖王国側の形勢はより不利になったと考えることもできる。戦車を失った魔術師は密集する歩兵の中に埋もれて十分な火力を発揮できないからだ。
ハルはここで帝国の虎の子の重装歩兵に前進を命じた。
帝国では兵役を全うすれば奴隷ですら市民になれる。その高い士気と練度を誇る市民候補だけで構成される重装歩兵の六万だ。それに対する聖王国の歩兵戦力は二万弱でしかない。
ソーヤがこの会戦に登場するのは、この圧倒的に不利な状況だった。
◇
翌朝、私はリビングから漏れてきた宗谷の声で目を覚ました。
枕元のスマホで時間を確認すると早朝の六時だ。とうとう、この日が来てしまった。
「分かりました。ミハエル様は間に合ったようですね」と息子は向こうの世界と話している。「ええ、すぐにそちらに行きます」
慌てて寝室から飛び出す。宗谷はすでに支度を終え、剣を腰に差しながら姿見の鏡に向かって話している最中だった。
「宗谷」
「……母さん」と宗谷はこちらに向き直る。
昨夜のやつれた顔はもうない。
ぐっすりと眠れたのか、墨を塗ったような目の下のクマも綺麗になくなっていた。
「よく眠れたよ」
「うん」
「もうそろそろ行かなきゃ。それじゃ」
宗谷が姿見に手をかけると、鏡がまるで水面のように揺れて光があふれ出す。
「待ちなさい」
私の頭によぎったのは、それだけ? という苛立ちだった。
「ねぇ、いつ帰ってくるの?」
「……」
「ちゃんと、ここに帰ってくるの? あっちに行って、無事に帰ってこられるの? あなたが行こうとしているのは、」と息をのんで吐く。「戦争なんでしょ?」
宗谷の顔がゆがんだのを見て、私のほうが泣きそうになった。
まるで自分が聞き分けのないことを言って、息子を困らせているかのような。そんな違和感がした。
「僕が行かないとレヴィが」
「レヴィアちゃんは関係ないでしょ」
「母さん」
「別に宗谷じゃなくてもいいでしょ」
口に出してしまえば、違和感は次々と言葉に変わっていく。
「宗谷は騙されているのよ。クヴァルさんとかカーラさんとかに、おだてられたり、良いように言われて勘違いしちゃって。だって、別に宗谷の必要なんてどこにもないじゃない。宗谷はウチの子なのよ。それを寄ってたかって、こんな事に巻き込んで。戦争だなんて。おかしいじゃない。だって、だって、」
息子の困ったような表情を浮かべているのを見て、思わず口から本音が出た。
「だって、レヴィアちゃんはウチの子じゃないわ!」
それでも、宗谷の表情は変わらない。
驚きも悲しみもそこにはない。ただ、困っているだけだった。なぜか自分が無性に情けなくて、ただただ悲しくなる。
「母さん」
宗谷は姿見から手を放して、こちらに歩み寄った。
「僕にもようやく見つかったんだ」
宗谷の手が私の肩に触れた。
この子の身長が私を追い越したのはいつだったのだろう? それは、彼があっちの世界に言ってしまった後で、本当に知らない間に大きくなったのだ。
「自分がやりたいこと、とはちょっと違うかもしれない。だけど、自分がやらなきゃ、と信じられること」
「……」
「母さんが今言ったとおり、僕は勘違いしているだけなのかもしれない。僕のことを利用しようとする人もいた。僕はまだまだで、みんなの期待には応えられないかもしれない」
「違うの。そう言うつもりじゃ」
宗谷はゆっくりと頭を振る。
「前に女の子を見殺しにした話をしたよね? 覚えている」
「ええ、」
「あれ以来ね。僕は自分のことが大っ嫌いだったんだ」
「……」
「自分では何もできず、肝心な時には真っ先に逃げて、よく知りもしないくせに自分が正しいと思っていた。口だけだったのさ」
息子の表情が真剣なもの変わっていく。
「だけど、もうそれも終わりだ。レヴィを見捨てて、逃げ回った先になんて本当に何もない」
私に聞かせると言うよりも、自分に言い聞かせるような小さなつぶやきにかわる。
「ここで戦わなきゃ、もう自分の全部が信じられなくなる」
言い終えると、宗谷は私を抱きしめた。
逞しくなった腕は力強く、母親ではどうしようもできない意志を感じて、私はその中で崩れ落ちそうになった。
「行ってくるよ」
「宗谷」
「ごめんなさい」
そう言って、息子は鏡の中へと消えて行ってしまった。
◇
「お帰りなさいませ」
宗谷が自宅のリビングから聖都の聖壇にある大鏡へ渡ったところで、待ち受けていた少女が頭を下げた。
鏡を中継して空間跳躍する鏡渡りの術だが、異界である日本と往来できる鏡は二つしかない。その一つがこの聖壇の大鏡であり、もう一つがフェンの屋敷にある箱鏡である。
「ガリュ男爵令嬢」と宗谷も会釈を返す。「申し訳ありません。中継役などさせて」
「いえ、これもお姉さまのためです」
ガリュ家は聖王家の門下貴族だ。なので、彼女は避難令が出た後も聖都にとどまり続けていた。
「これが最後の鏡渡りです。禁域の聖壇に忍び込ませて申し訳ありませんでした。あなた様の安全はフェン家が保証いたします。フェン領までお逃げください」
「あら、戦には勝つつもりでは?」
「はい。しかし、万が一に備えない理由にはなりません」
「堅いお人ね。お姉さまの前でもそんな感じなのかしら?」
「……」
ガリュ家の令嬢は、ふふ、と笑いながら大鏡に手を伸ばして小さく術式を唱えた。再び鏡が波打ち、淡く光り始める。
「さて、フェンの本陣とつなげました。あちらでは小公閣下をはじめ皆様がすでにお待ちとのことです」
「ありがとうございます」
「ご武運がありますよう。お姉さまの騎士様」
再び会釈をするガリュ家令嬢を横目に、宗谷は再び大鏡の中へと身を投じた。
◇
「ソーヤ、来たか」
「クヴァル様。お待たせいたしました」
本陣天幕に据え置いた鏡から、姿を現した宗谷にクヴァルは駆け寄った。
「ああ、ついに
「戦況は」
「予定通りだ。ミハエル殿下からは開戦の連絡はすでに来た。後はどれだけ敵を引きつけてくれるか、だな」
「こちらも急ぎましょう」
「ああ。だが、ちょっと待て、これを着ていけ」
クヴァルは側に控えていた兵士を招き寄せて鎧を持ってこさせた。
「それは?」
「お前の鎧だ。作戦の邪魔にならぬよう、軽く動きやすいようにしつらえ直した」
兵士からうやうやしく差し出された鎧を見て、宗谷は眉を寄せた。
北国独特の革の上に鋼鉄板を貼り付けた鎧だ。革は黒く染色され、大きな狼の意匠が銀細工で施されていた。相当に手の込んだものだ。
これは単なる皮鎧などではない。戦場であっても自分の存在を誇示する必要のある、そんな立場の人間が身につけるものだ。
「これはウォルが使っていた鎧だ」
クヴァル様は先代ウォルファ・フェン公爵のことを愛称で呼ぶ。
「……かしこまりました」
両手を広げると、兵士たちがその鎧を着せてくれる。そう、僕は賽を投げたのだ。少しでも勝率を上げるために、かつての英雄を演じる必要がある。
最後の兜はクヴァル様がつけてくれた。まずは黒布をターバンのように頭に巻き、最後に狼の頭を模した銀冠を頭にかぶせる。
「ウォルは自ら陣頭に立ち、何度も我々を勝利に導いた。フェンの騎士団であれば誰もが知っている。今でも語り継がれる伝説だ」
「はい」
「見ろ、あいつにそっくりじゃないか」
周りの兵士達も大きくうなずいた。中には、昔を偲んだのか涙ぐむ老兵の姿さえある。
「さぁ、行くぞ。この天幕を出ればお前は将軍だ」
「わかりました」
「よし」
クヴァルに先導されて、宗谷は天幕をくぐる。
外の光が差し、五千の騎士たちが槍で光りを乱反射させて並びたっていた。かつて自分たちを率いた主君と同じ鎧姿を見たのか、騎士たちがどよめく。
「総員、よく聞け!」
そのすぐ横で控えていたカーラ様が一歩前にでて、両手で持っていた毛皮のマントを僕にかける。カーラ様は巻いたマントの端を、銀細工の留め具でまとめていく。
「これを皆に見せつけなさい」
その留め具の細工意匠は、四つの牙が羽をくわえていた。銀牙の数は騎士団の司令階級を表し、四つなら一万騎の指揮権を表す。つまり騎士団の全権を表している。そして羽は魔術士の紋章だ。
「この羽をくわえる四つの牙はフェンの総司令にしか許されていません。このマントもお兄様のものでした」
「はい」
「よろしい」
カーラ様は騎士達のほうに振り返ると山彦の術を展開する。
「フェンと糸をつなぐ者たちよ。この者は我が兄ウォルファ・フェン公爵閣下の再来である。その指を捧げよ!」
はじめに千騎長たちがひざまずき手の平を胸に当てて頭を垂れた。その後に他の士官たちが次々とそれに
あっという間に、五千人が自分にひざまずいていた。
しかし、こんなのは茶番だ。でも、自分はこの茶番をやり抜くと決めた。
「戦友たちよ」
自分の声がカーラ様の山彦の術で拡散していく。
みんなを戦友と呼びかけるのがウォルファ・フェン公爵の癖だったと、クヴァル様が教えてくれた。
「帝国軍は我々を恐れるあまりレヴィをさらって人質にした。我らを欠いた聖王国は蹂躙され、すでにイジヴァル平原は敵の手に落ちている。そして、今、聖王家の軍が敵と戦っている最中である」
ゆっくりと五千の顔を見渡して観察する。
好奇心に満ちた様子でこっちをうかがう者もいれば、ウォルファの名を叫びながら涙ぐんでいる者もいる。用心深そうに目を細めている者もいた。
もし本物の英雄ウォルファならば、ここの全員を掌握するはずだ。僕はそれを演じきらなければならない。
「これより我々は帝国の背後を強襲しレヴィを奪還する。奴らに思い出させてやれ。帝国が誰に負け続けたのかを」
腰の剣を引き抜く。このスヴェロの剣だけは英雄にふさわしい名剣だ。
「狼は健在なり」
剣を天に掲げると、五千の雄叫びが応じた。
◇
帝国軍司令のハルは頭を捻りながら小高い丘から戦況を眺めていた。
向こうに見える前線では、帝国軍の軍勢がまるで翼を広げるようにして聖王国軍をとり囲もうとしている最中だ。
「う〜ん。このまま普通に勝ってしまいそうだけどなぁ……」
「どうした」
「あ、リュウ」
その背後から姿をあらわしたのは、魔術士の戦車の破壊を終えたリュウだった。
「ごめんね。飛竜傭兵に被害が出てしまったようだ」
「いや」とリュウは側仕えから差し出された水を飲む。「あれは俺が至らなかったゆえだ。よく見極めれば、戦車が空であることなど分かったはずだ」
「残りの飛竜は?」
「三百だ。竜を休めるためにもう少し時間はかかるがな」
「助かるね。でも、……その必要もなさそうなんだよなぁ」
ハルは腕を組んで頭をひねる。
「なんだ」
「いやね。勝ちそうなんだよ」
「そうか」
「前線に出ていた者として意見を聞きたい」と眼下の戦況を指し示す。「重装歩兵を前に出して、聖王国軍を半包囲にした。頼みの魔術師団も戦車を失って力を発揮できていない」
「うむ」とリュウも目を細めて戦況を観察する。「……その割には、持ちこたえているようだな」
「それは壊れた戦車のおかげだよ。ほら、最前線をみてごらん」
ハルは飛竜傭兵の槍でハリネズミにされて崩壊した戦車列を指し示した。
「あの瓦礫をそのまま障害物にして守っているんだ。だから、いくら帝国歩兵でも簡単には突破できない」
「なるほどな」
「で、左右から回り込んで包囲することになるんだけど、聖騎士たちがちょっかいを出すせいでスムーズにはいかない。それで中途半端な反包囲戦で膠着した」
「……みたいだな」
「まぁ、でも時間の問題なんだよな。このまま押し切れるだろうね」
そういって、ハルはまたう〜んとうなり始める。
「どうした」
「やっぱり、相手の戦術は時間稼ぎにしか思えない。これでフェン軍が救援に来るならアリなんだけどなぁ。例えば、この中途半端な反包囲陣にあの騎士団に突撃されればかなり厄介だ。多分、そういう作戦なんだと思っていたのだけど……」
「来たらどうする?」
「対策は伝えてあるよ。そのために前線には予備の軍団も配備している」
「罠師だな」水を飲み干して口をぬぐう。「せっかく仕掛けた罠が惜しいか?」
「理解できなくて落ち着かないだけだよ。ねぇ、君の大好きな少年ソーヤは何をしているんだろう?」
「さてな」
「初戦の空の戦車を囮にした策は面白かったけど、このままじゃあ無意味になってしまう。ミハエル王子は噂ほどではなかった、と言うことかな?」
「……」
その時、空から「大族長!」と声が降りてきた。
「どうした!」とリュウは天をふり仰ぐ。
そこには、本陣の上空をぐるぐると旋回していた物見役の飛竜傭兵がいた。
「後ろです。馬乗りたちがたくさん」
その報告を聞いたリュウは「お前の読みが当たったな」とハルの背中を叩く。
「痛い」とハルは眉をしかめ「だけど、本当にフェンなのかい。しかも背後に?」と頭をかく。「あ〜、ダメだ。これに非常にマズい。でも、どうやって」
「どうした」
「背後を守る軍団が少ないんだよ。リュウ、申し訳ないけど、飛竜で前線に伝令を送ってくれ。第五軍団と第六軍団は至急後退して本陣と合流、させたい」
「ああ、分かった」
リュウが頭上の飛竜を呼び寄せて、命令を伝える。その間に、ハルは走って後方の様子を眺められる位置まで移動した。
「……本当にフェンがいる」と息をのんだ。「しかも数が多い。ざっと六千くらいか」
ハルが見たのは、砂塵を巻き上げてこちらに迫ってくる大軍の影だ。すでに蹄の音が鼓膜を震わせるほどに迫っている。
フェンの参戦を警戒していたハルは各地に斥候を放っていた。この大軍はその監視網をくぐり抜けたことになる。
「不味いな。背後の守りは第二軍団だけ。このままじゃあ、本陣になだれ込まれる」
帝国軍は第一から六までの軍団で組織され、それぞれが一万の兵で構成されていた。本陣は第一軍団で、後方は第二軍団が担当していた。残りは前線に出している最中だ。
ハルは側仕えの将官を呼び寄せ、次々と対策を指示していく。
「本陣はここで防御体制に入る。こちらからは手を出さないで。第二軍団には後退の許可を、すでに前線の五番と六番に救援を伝えてある。ああ、それとレヴィアをここに連れて来てくれ。ユリアに頼んだら大丈夫だから」
ハルの命令を聞くなり、将官たちは馬を駆って方々に散らばっていく。
「あの少女を呼んで、どうするつもりだ」
伝令への指示を終えたリュウが後ろから追いついて声をかけた。
「……あんまり、考えたくないことだよ」
「殺すのか」
「いや、まぁ、フェン軍次第だ。殺してしまったら、逆にフェンは止まらなくなる。この本陣を抜かれでもしたらこのまま負ける可能性もある」
「ならどうする」
「レヴィアを殺すと脅しに使うしかない。それでもフェン軍が止まらないなら、あとは殺し合いだ。一気に分が悪くなってきた」
ハルがため息をついて、じっと前をにらんでいると、気を効かせた側仕えが望遠鏡を差し出した。それに気がついて「ありがとう。助かるよ」と受け取って目に当てる。
拡大された視界の中で、砂塵を巻き上げながら馬をかるフェンの騎士たちの姿が見て取れる。
それを迎え撃つ第二軍団はなんとか隊列を揃えて盾を前に押し始めたところだ。後退の許可が遅かったのか、それとももう間に合わないと軍団長が判断したか、どちらだろう。
名高いフェン騎士団の実力はいかほどか。
ハルは再びフェンの騎士団へと望遠鏡を向ける。戦闘には黒い毛皮のマントをはためかせた騎士がいる。黒革の鎧に狼の銀意匠。足運びが滑らかな白馬にまたがっている。
妙に目をひく騎士だ、とハルは思った。雰囲気がある。あれが指揮官だろうか。
「馬鹿な」と叫んだのは、隣で同じく望遠鏡を覗いていた初老の男だった。
彼はユリウス家の元奴隷で、軍役を務め上げて市民となった後も軍にとどまった。軍務経験も豊富な上に、実直で寡黙で度胸もある。
そんな彼が絶句したことを不思議に思い、ハルはそちらに目線を移す。
「どうしたの?」
「いえ。しかし、そんな事はあり得ません」
「言ってみてくれ。君が驚くことなんて、何があったんだい?」
「……あの狼の騎士です」
「あの?」
老秘書官は先頭を駆ける騎士を指差した。
「あの男はもう死んだと聞いていたのに。……やはり、奴と同じ狼の兜飾りだ」
ハルは再び望遠鏡を覗き込んで先頭の騎士を見る。よく見ると、そのかぶり物も狼を模したものだった。
「あのウォルファ・フェンと、同じ姿なのです」
◇
愛馬のスノーはまるで飛ぶように駆けた。
宗谷は背後の騎士たちを確認して、手綱を絞って駆け足を落とした。スノーは名馬で、しかも操りの首紐を巻いていない。注意していないと、術を用いてる他の騎馬を置いてけぼりにしてしまう。
足並みがそろったことを確認すると、鐙で踏ん張って立ち上がって前方の重装歩兵隊を観察する。
盾を並べて隙間から長槍を突き出した防御陣。重装ゆえに衝撃にも強い。このまま突っ込めば、その槍ぶすまで馬を失うことになるだろう。
宗谷は片手を上げて、指を広げた。すると、その合図に応じて聖騎士たちがローブをはためかせて前に出る。
ヒュルル、と風が唸りはじめた。
その音は聖騎士がかかげた羽鞭から聞こえてくる。聖騎士がよく使う魔道具で、それを振り払うことで烈風を放つことができる。
宗谷は腕を振り降ろす。
それを合図に聖騎士たちが前に出る。あげた速度に応じて、掲げた羽鞭はより風をまといはじめる。
そのまま一気に速度を上げて聖騎士は敵歩兵列に迫る。そして、槍ぶすまの鼻先で急に馬を返すと同時に、羽鞭を打ち放った。
その風圧が轟音を上げ、最前線の歩兵は盾ごと吹き飛ばされた。
宗谷はその崩れた隊列に突撃した。
そのまま長剣を振り抜いて敵兵を切りとばし、愛馬も意を組んで巧みに足を踏み、歩兵の陣中をさらに崩し広げた。
その背後を怒声が押す。
自分に続いて次々と突撃する騎士たち。その槍が盾を貫く撃鉄の音。興奮した馬の鼻息。倒れた歩兵の骨を踏みつぶす蹄。雑多な破壊と殺しの轟音。
自分が先頭をかき分けて進むほどに、後ろから怒声と悲鳴が入り交じって広がっていく。一度でも隊列を崩された歩兵隊は弱い。列をそろえて突撃するフェンの重騎馬に切れ目を引き裂かれた布のようにズタボロにされる。
宗谷は自分の役割をわきまえていた。
ウォルファ・フェンの再来だと偽っただけで、みんながついて来るわけがない。彼らが上げた歓声はクヴァル様たちが仕掛けた演出に煽られただけで、本当に命を賭けてくれるとは限らない。
だから、自分自身が命をかける必要があった。
騎馬突撃でもっとも危険な先鋒。先代の娘を助けるという大義名分を掲げ、先代と同じ姿で道を切り開いてみせれば、かつての英雄の姿と重なって見えることもあるだろう。そういう演出を抜きにしても、人は頑張っている人を応援したくなるものだと、母さんが言っていた。
だから、ただひたすら前へと進む。
繰り出される槍は剣で払い、作った隙間に馬体を割り込ませて敵を突き飛ばす。
ただ、ひたすら前へ、やるべきことをちゃんとやる。
進むべきはこの先だ。進む度に糸が心臓を強く締め付ける。この先に、間違いなくレヴィがいる。
ふと気がつけば、視界がひらけていた。
敵の隊列を完全に突破したのだ。スノーをしばらくそのまま駆けさせてから、手綱を引いて後ろ向く。
自分に続いて、敵兵を波のようにかき分けて突破してくる騎士たちが次々と現れる。もはや、敵兵は抵抗する気もなく武器を捨てて散り散りに逃走していた。
フェンの騎士たちは血ぬれの槍を天に掲げて、僕に向かって吠えた。
「ウォルファ!」
敵兵を蜘蛛の子のように蹴散らして、次々と姿を現わす騎士たちもそれに倣う。
「ウォルファ!」「ウォルファ!」
それに応えて剣を掲げてそれに応える。
僕はウォルファだ。
真の英雄でなければレヴィを助けることはできない。残すはあの丘に布陣していることが敵本隊だけだ。レヴィはそこにいる。
「戦友たちよ」と声を張る。「槍の血をふけ。羽鞭の先を整えろ。馬の首を叩いて労ってやれ。次がある。備えろ!」
馬を返して、敵本陣の方へと振り向く。
「全軍。並足、前進!」
そう号令を発すると、みんなは一糸すら乱さずに馬足をそろえ進みだす。そのゆっくりとした並足は、馬に息を入れなおさせ、次の突撃に備えるためだ。
手綱を引いて前を向く。
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