[2-14] 聖王軍の最前線にて

「いよいよ、か」とミハエルは前方に広がる大軍勢を眺めた。


 広大なイジヴァル平原。その西端の聖王領にさしかかったあたりで聖王軍と帝国軍は互いに陣をしいて対峙していた。

 ミハエルは馬を進め、最前列の歩兵を抜けて姿を晒した。陽光を背負い、鎧に散りばめられた金の装飾が眩しく輝き、魔術師のローブがはためいている。兜は小脇に抱え持ったままで豪奢な金髪を風に流したままだった。


 前方には帝国の大軍勢が見える。

 帝国軍は六万。総兵力は十万のはずだが、四万の奴隷兵は前線に出していない。対して、ミハエルが率いる聖王国軍は二万しかない。

 しかも、歩兵の質でも帝国が圧倒していた。

 聖王国の歩兵は平民を臨時徴用した素人だ。対して、帝国の重装歩兵は職業軍人である。兵役をまっとうすれば市民になれると約束された市民候補兵で、三十年におよぶ兵役期間を各地で転戦し続ける熟練兵たちだ。


「市民による皇帝選挙、奴隷経済、まったく帝国の政治は複雑なものだな」とミハエルは独り言をこぼした。


 帝国を統治するのは皇帝だが、その皇帝は市民が選挙で決める。

 逆に言えば、この選挙権を持つものが市民階級となる。市民となるためには、兵役に志願し退役まで勤め上げる必要がある。たとえ奴隷であっても、市民候補兵に志願することができた。

 この市民候補兵はもっとも過酷な最前線の歩兵隊に配属される。ゆえに戦死者、途中脱退者も少なくない。だが、市民権を約束された兵の士気と練度は高く、帝国の重装歩兵は世界にその名を轟かせていた。


「あれが噂の重装歩兵か、すごいものだね」


 と、固唾を飲んだのはウリエルだ。彼は優雅に前線を眺めていたミハエルの横に馬を寄せた。


「ウリエル。胸を張れ」と声をひそめる。「後ろの平民兵が俺たちを見ている。指令官が不安を見せると、やつらはすぐに逃亡するぞ」

「あ、うん」


 ミハエルは幼い頃からヴァンから指南を受けていた。ゆえに平民兵士の心理をよく理解している。

 今、目の前に広がるのは大軍勢で、こちらよりも圧倒的に数も装備も良い。それを前にして恐怖を感じない人間はいないだろう。ましてや、平民歩兵からすれば無理矢理に徴用されて前線に放り出されたのだ。

 少しでも不安を抱けば、逃亡者が続出し戦う前から戦線が崩壊する。

 ゆえに危険であろうとも、最高指揮官が前線で余裕を見せなければならない。そのためにミハエルはあえて前線に馬を進め、兜すら脱いだのだ。


「実際、正面から戦えば負ける戦だ」と、その余裕然とした姿とは裏腹に声をひそめる。

「そうなの?」

「聖王国の魔術師団とはいえ、あの数の重装歩兵は止められん。しかも……」


 ミハエルは手を額にかざして、空を見た。そこには数百もの飛竜たちが、弧を描いて空を舞っていた。


「飛竜傭兵どもが上を抑えている。魔術師団を前に出すわけにはいかん」

「弓矢で飛竜を……いや、届かないね。だけど、風や雷の魔術なら」

「良くても相打ちだな。こちらが一方的にやられる可能性のほうが高い。あちらは空を自由に動けるが、術式を展開している魔術士は動けない。有利なのはあちらだ。それに、」

「それに?」

「飛竜傭兵一人に魔術師一人では、少々割に合わん。飛竜のほうが数も多いし、魔術士は貴族だ。死なれると面倒なことになる」


 魔術師は貴族の中でも選ばれた人間にしかなれない。しかも、その多くが貴族家の当主や第一後継者でもある。それを戦死させたとなれば、内政問題に発展しかねない。現聖王が後宮に引きこもっているのも、後継者を戦死させられた老貴族の非難から逃げるためだった。


「そういった点でも、やはり聖騎士たちをどう使うか、だな」

「どうするの?」

「本当は昨年のフェン領への飛竜襲撃でその対処法を拝見するつもりだったが、レヴィア嬢が大魔術で飛竜を一掃してしまったらしい。だから、ぶっつけ本番になるが。まぁ、何とかするしかあるまい」

「兄さんならきっと大丈夫さ」

「一応、算段はつけた。……なぁ、ウリエル」


 手綱を引き、馬を返してウリエルの方に向く。


「ちゃんと言っておくことがある。ここからは、俺についてくる必要はないんだぞ」

「えっ」

「もし、糸で縛られているのが理由なら綾取りを解こう。ここからは俺の野望だ。お前は俺に利用されていたに過ぎん。だが、それもここまでだ」


 そう言うと、ミハエルは小指に結んだ指輪を見せた。


「この戦に勝てたとしても、今度は聖王を敵に回すことになる。俺はあれを親とは思っていないが、お前は違うだろう。あのヴァンですら指を切った。ましてや、正妃の子であるお前が巻き込まれることではない」


 そう言ったミハエルの右手が、小指の綾取りをつまみ出そうとした時、


「兄さん!」とウリエルは咄嗟に叫び「……待ってよ」と下を向く。

「……どうした」

「僕は邪魔なのかな」

「どうしてそうなる。むしろ、俺はお前を恐れていたよ。すでに人望を失った聖王などもはや敵ではないが、お前だったら手こずっただろう」

「僕は、」


 と、ウリエルは唇を噛んだ。


「僕は、兄さんが聖王になるべきだと思ってるよ。少なくとも、僕よりかは絶対に向いている。……陛下に問題があることも理解しているんだ。リリス様や兄さんの母上だけじゃない、他に色んな悪い噂はたくさん聞いてる」


 凡人が聖王になった末路があれなのだ、とウリエルは自分の父親である聖王の姿を思い浮かべた。

 統治を放棄して後宮に引きこもり、何かに取り憑かれたように夜な夜な子作りに励むだけの獣。それが率直な父親のイメージだった。

 だから、あの父親が若い頃にフェン公爵に対抗心を燃やして努力していたと聞いてむしろ驚いた。そして、心によぎったのは不安と絶望だった。しょせん、凡人が憧れだけで王位についても、あんなのに成り下がるだけなのだ。


「ねぇ、兄さん」

「何だ」

「僕はどうしたらいい? 兄さんの言うことなら何だってする」

「ウリエル。本当にいいのか?」

「……うん」


 ミハエルは緩やかに笑いを浮かべ、ウリエルの肩に手をおいた。


「まぁ、そう気負うな。まずはこの戦に勝ってからだ」

「うん」

「俺が聖王になったらまつりごとを正さなければならない。後宮に取り上げられた女たちは元に戻し、保守派の貴族を一掃して宮廷を再編する。他にも、軍制に法典、税に街道整備に医療にも改革が必要だ。もう何十年も放置されていた問題が山積みだ」


 ミハエルは、ウリエルの背中まで腕を回して抱き寄せた。


「ウリエル。お前が側で手伝ってくれると助かる。俺に万が一があれば、お前がそれを引き継いでくれ」

「……自信はないよ」

「何を言ってる。胸を張れ。お前はよくやってくれている」


 背中を叩かれたウリエルは姿勢をただした。そのまま、まっすぐミハエルを見つめる。


「兄さん、その指輪は外さないで」

「ああ、分かった。預かっておこう。とはいえ、いずれは相指に結び直すつもりだ。どの指がいい。お前ならどの指でもつとまるだろうが、」

「兄さん」とウリエルは兄を遮った。「お願いしてもいいかな」

「どうした。なんでも言ってみろ」

「人差し指にして欲しい」


 ウリエルの脳裏にはソーヤの姿がよぎった。無礼にも、兄の人差し指を断った平民だ。


「ん?」

「僕を、兄さんの人差し指にしてほしい」

「ほう、軍指ぐんしか。意外だな、お前はどちらかと言えば内政向きだと思っていたぞ、親指かあるいは中指を考えていたのだが」

「ううん。僕は兄さんの人差し指がいい」

「……そうか。人差し指はお前のために空けておこう」

「ありがとう」

「さぁ、持ち場に戻れ。お前に預けた魔術師団もこの戦争の要だ。期待してるぞ」

「うん」


 馬を返してウリエルは奥に戻っていく。

 その姿を見送った後に、ミハエルは前を向き直って腕を組み、すぅと目を細めた。

 これで俺の王位はさらに確実になった。

 実際、今の聖王など敵ではない。もともと薄かったその人望もこの戦争の時期を見誤ったことで地に墜ちた。となれば、俺の最大の敵はウリエルだ。王位継承は綾取りの糸によって決まる。前までは俺が上位だったが、今はヴァンの指切りによって分からなくなっていた。

 だが、ウリエル本人が俺の別指に甘んじている限りその心配はない。後はなるべく早く聖王に即位するだけだ。一度即位した後なら、ウリエルは相指に直しても問題はない。


「とはいえ、人差し指を望まれたのは意外だったな」


 本当は妥当なところで親指を、あるいは保守派に配慮して中指を考えていた。だが、あいつは軍権を望んだ。どういう料簡りょうけんなのだろうか。

 あれに軍才はない。

 だが、育ちの良さからくる人望はあるようだ。これまで機会があれば指揮官をやらせてその才を計っていたが。采配は平凡だったが、部下からの評判だけは良かった。聖王家なのに偉ぶることもなく、よく部下の意見を聞き入れていたようだ。

 ひょっとすると、優秀な副官を選んでやればやってのけるかも知れん。


「……しかし、やはり心許こころもとないな」


 ミハエルは頭をふって、愚痴をこぼした。

 広い平原を流れる風が彼の金髪を吹き流す。目の前には、帝国の精鋭達が視界の隅々まで隊列を伸ばしていた。それを迎え撃つこちら側の陣容にぽっかり空いた穴のような不足を感じていた。

 不安の原因は兵の質や数ではない。それを率いる将官の質にあった。

 ミハエルはそっと目を閉じて空想を風にのせる。

 もしも、俺の隣にヴァンがいたら。

 全歩兵をあいつに指揮させれば万全になったはずだ。いかに兵の質で劣ってはいても、ヴァンがいれば重装歩兵の突撃でさえ持ちこたえさせただろう。

 そして、ソーヤだ。ソーヤが俺の幕僚に加わっていれば何をさせる?

 騎兵隊を任せるだろう。ヴァンが受け止めた歩兵を、ソーヤが騎兵で側面から切り崩していく。あの二人なら息をそろえて兵どもを操ったに違いない。ヴァンもソーヤのことはずいぶんと目にかけていた。

 そして、戦況を一変させるほどの力をもつレヴィアだ。

 あれがいれば、魔術師団も聖騎士も不要だっただろう。ヴァンとソーヤが敵軍を切り分け誘導し、要所にレヴィアが魔術を叩き込んでいく。それだけでどのような大軍でも打ち破る事ができたはずだ。


「しかし、実際はどうだ」


 と自軍を振り返る。

 軍兵に不満があるわけではない。歩兵はともかく、聖王国の魔術師は質も量も他国を圧倒している。騎士たちは職業軍人であり練度も十分だ。それに手塩にかけてきた聖騎士だっている。

 問題はやはり指揮官クラスの人材だった。

 自分の陣営には指を折れるような者は数名しかいない。聖騎士団長のスズリ伯、聖騎士長のウィス、それと魔術師団を任せたウリエルくらいだろうか。スズリ伯以外は年齢も経験もまだまだ浅い。


「ソーヤ、お前がうらやましいよ」


 あいつは今、フェン騎士団を率いて帝国軍の背後に潜伏しているはずだ。

 その傍らを軍略家と名高いクヴァル伯が支え、百選練磨のフェン騎士団の千騎長や百騎長がずらりとその後に従っているのだ。

 魔術師も粒ぞろいだ。騎士を重視してきたフェンでは伝統的に魔術師は劣ると言われるが、近年はレヴィアやカーラ小公などフェンの直系が強い。

 しかも、どうやら後方支援も有能をそろえているらしい。

 あいつは不可能と思われていた雪原を踏破に成功した。並みの補給や調達では実現しなかったはずだ。つまり、それを可能にする体制をフェンは抱えており、それを信じたからこそソーヤはこんな無謀を立案したのだ。


「……これがお前との差か」


 あるいは聖王家とフェン家の差と言えるかもしれない。だが、ソーヤはフェンにゆかりのあった者ではなかった。何の背景ももたなかった異邦人が大貴族団であるフェン家を動かしているのだ。

 薄々は気がついていた。

 俺は、恨みをため込み、相手をあざむいてはあざけり続けてきた。

 容姿では俺はソーヤよりも優れているだろう。だが、それを頼って女どもを欺こうとも、例えばレヴィア嬢のような鋭い女にはすぐに見破られてしまう。彼女が俺に向けるあの嫌悪の目には、真の男がなんたるかについて確信が宿っていた。

 しかたなかろう。

 俺は母を知らぬのだ。ゆえに、女の愛し方など知るすべなどない。

 ……。

 …………まぁ、手持ちでやるしかない。


「狐の目よ」


 ソーヤから預かった伝令部隊を呼びつける。


「聖都の状況はどうだ」

「はっ」と、狐の目が近くに馬を寄せた。「帝国による聖王領侵入を受け、混乱状態にあります。一部の貴族や住人は聖都から避難を開始したようです」

「そうか。聖王は」

「かわらず後宮に滞在しているご様子。評定や会議にも姿を見せないとのこと」

「そうか」


 もし、聖王が聖都を見捨てて逃げ出すようなことがあれば、ずいぶんと後が楽になっただろう。だが、あの愚物はすでに後宮の女たちに逃避していたのだったな。


「学院は?」

「ヴァン騎士団長により避難令が出されました。多くは故郷に避難したようです。イジヴァル領からの子女はフェン公爵家が受け入れました。すでに移動は開始されたとのことです」

「そうか」


 この非難令はヴァンの俺に対するはなむけだろう。

 聖王に反旗を翻して王位につくためには、四公爵からの支持が必要になる。しかし、その門下の子息たちは聖都の学院に通っている。現実的には、これは聖王家への人質であり、彼らの協力を得るには学院生徒たちの解放が必要不可欠だった。

 このために、イジヴァル領を犠牲にしてわざと帝国軍を聖王国領まで引き込んだのだ。

 人質が返ってきたことによって、他の公爵家もようやく俺の言葉に耳を傾けるようになる。すでに、公爵家には俺の聖王就任を支持するよう使者を送った。今頃、彼らは葡萄酒を片手にじっと戦況を窺っていることだろう。

 もし、この戦に勝てるのなら、ミハエル・ヴァハルは聖王の器に十分であると。


「これより戦を始める、とソーヤに伝えろ」

「はっ」


 狐の目たちが馬を返して姿を消していくのを見送って、ミハエルは側仕えの魔術師に命じた。


「号令を発するぞ、山彦やまびこの術を」

「御意」


 魔術師は式を展開した。山彦の術は声を増幅し遠くまで届ける魔術だ。

 同時にミハエルは馬を返して後ろに並ぶ歩兵たちの方に向き直る。精鋭ぞろいの敵の進軍を直接受け止めるのはこの歩兵たちだ。彼らを鼓舞する必要がある。


「諸君、我は第一王子ミハエル・ヴァハルである!」


 増幅されたミハエルの声が戦場に響きわたった。目の前に広がる絶望的状況から、うつむきがちだった歩兵たちが一斉に顔を上げる。


「帝国は我らの土地を無法に侵略し、すでにイジヴァル領は破壊しつくした。美しく広がっていた小麦畑は荒らされ、女は慰み者に、男は奴隷に、労働力にならぬ子どもはその場で殺されたという」


 ミハエルは嘘をついた。

 帝国軍は侵略した土地で略奪をすることはあまりない。占領した住人を奴隷にすることはあるが、それは降伏勧告に従わずに抵抗した街に限る。その場合でさえ、子供を殺すことはなく、奴隷になった親と一緒に売り払うように配慮する。

 今回の侵攻でも、直接的な被害を受けたのは抗戦したイジヴァル領都のみだ。他の領民には糧食の徴発はあったが、ちゃんとした支払いはされていた。

 奴隷経済によって拡大した帝国は、決してムチだけで奴隷を従わせているわけではない。帝国には奴隷を保護するための法律すら整備されているのだ。

 ミハエルは世界中から情報が入ってくる立場にいた。もちろん、帝国が無法者ではないことも知っていた。しかし、これから平民たちに殺し合いをさせるのである。そのためならミハエルは嘘くらいなら平気でついた。


「我々の背中にはそれぞれの家族がいる。奴らはその家族を襲い、首輪をはめて奴隷にするためにここまできた。奴らは使う外道の首輪は、魔術で脳を支配する隷属の魔導だ。死ぬまで働かされ、体がきかなくなれば殺される」


 ミハエルは剣を天に掲げ「諸君!」と叫んだ。

 幾人かが、その嘘に釣られて盾やら槍やらを掲げる。それを見た周りが慌てて、同じように真似て、槍が林のようにそそり立った。


「女を守れ」


 雄叫び、が返ってきた。


「子どもを守れ」


 怒声になって、士気がうねり上がる。


「このミハエルが勝利を約束しよう!」


 打ち叩く盾と槍の音がざわつき、踏み荒らされた大地が揺れる。

 会戦の火ぶたは切って落とされた。


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