[2-12] 糸をつぐ者
フェンの家宰クヴァル・スヴェロ伯は天幕を出て、野営の準備を忙しくしている騎士たちを観察していた。
屈強な男たちが天幕を杭で固定したり、馬をまとめて大麦を食わせたり、と手慣れた様子でおのおのの仕事をこなしている。
フェンの民は多くの北方民がそうであるように大柄だ。しかも職業軍人である騎士はさらに逞しい体躯の持ち主ばかりがそろい、彼らの騎馬もがっしりとした大型のものばかりだ。
それがフェン騎士団をして世界で最精鋭とされてきた一因で、この屈強な軍馬と騎士による突撃は世界を震え上がらせている。
その騎士の中には魔術師ローブを羽織っている者も混じっている。聖騎士たちだ。彼らの多くは庶子とはいえ貴族であるが、クヴァルは軍務に身分差を持ち込むことを厳しく禁じていた。フェンでは聖騎士たちも騎士と同じ釜の飯を食い、同じ毛皮に包まって眠るのだ。
「クヴァル様」と背後から声がかかる。
「ソーヤか? 戻っていたのか」
クヴァルが振り返ると、そこにはこの数週間で目つきが険しくなった宗谷が立っていた。レヴィアが誘拐されて以降、あちこちを飛び回っていた彼は顔の血色が悪く、目の下には黒い淀みが溜まっていた。
「先ほど鏡渡りで戻ったばかりです。こちらの準備は順調なようですね」
宗谷も周囲の様子を確かめる。
「少し休んだらどうだ」
「いえ、そろそろ大詰めです。ここで手を抜くわけには」
「だったらなおさら休め。この作戦の鍵はお前だ。その前に倒れてはどうしようもないだろう。少なくとも、ちゃんと寝ておけ」
「……申し訳ございません」
頭を下げた宗谷を見て、クヴァルは肩をすくめた。
「見ての通り、計画は順調だ。ここまでスムーズに進められたのはお前のおかげでもある。そう自分を追い込むな。誰もお前を責めてはいない。だから、休んでおけ」
「ありがとうございます。でも、レヴィのことが頭をよぎって、どうしても眠れないのです」
そう言って目を伏せた宗谷を見て、クヴァルは頭を振る。
「あんまり大きな声では言えんがな。あのお嬢にどうしてお前は、」
「ずっとうめいて、ざわつくんです」と宗谷は自分の胸を掴んだ「この心臓が締め付けられるみたいに」
「……ウォルの呪い、か」
クヴァルはため息まじりに唸り、顎で天幕を指し示した。
「とりあえず入って風を避けろ。眠れないならせめて楽にしろ。作戦の確認もしたかった。ちょうど、ヘイティのやつも来ている」
「はい」
「伝令!」
とクヴァルが声を上げる。
すると、周囲に黄色の外套を羽織った兵士が駆けつけてくる。その外套には狐の紋章が刺繍されていた。フェン軍の伝令部隊になった狐の目の紋章だ。
「千騎長と上級魔術師に通達。直ちに本営に集結するように伝えろ」
「了解」と声を揃えた狐の目たちは、鏡を取り出して連絡を飛ばし始める。そして、数秒も待たないうちに「三番隊の千騎長、了解とのこと」「カーラ小公閣下もご了承しました」などと結果を報告してきた。
フェン騎士団の士官は十騎長、十聖騎長、百騎長、千騎長に分けられ、ピラミッド型の指示系統を構成していた。また聖騎士は十騎ごとに編成され百騎長の直轄に組み込まれる。
この騎士団編成とは独立した部隊として魔術師団もある。
こちらの階級は下級、中級、上級、導師と分けられているが、導師は引退後の名誉階級である。上級魔術師がより下位を指揮するものだが、個々の力量によるところの大きい魔術師では単独行動も場合も多い。
例えば、一人で一軍に匹敵する、と言われているレヴィアは自分の判断で戦闘行動を行う。
「まったく、もう狐の目のいない指揮など考えられんな」とクヴァルは口元を緩める。
「ヘイティたちはうまくやっているようですね」
「ああ、お嬢が開発したスマホの術とやらは確かに凄まじいが、それをおいても狐の目には有能なのが多い。あの馬泥棒は人選にも鼻がきくらしいな」
「ええ」
などとやり取りをしていると、騎士たちが馬を駆って近づいてくる。その肩当てには三本の牙を模した銀飾りが施されていた。牙飾りは隊長の証で三本であれば千騎長だ。
「もう集まってきたな。入るぞ」
「はい」
クヴァルに連れられて、宗谷は天幕をくぐる。
中には大きなテーブルの上に地図が広げられ、ヘイティがその上に木駒を並べていた。彼は宗谷の姿を認めると、よっ、と片手を上げてよこした。
「どうだ、どうした、勝てそうか」と軽い調子で聞いてくる。
「ああ、勝つさ」
「あったり前だ。俺がこんだけやってやったんだ。一体、いくら金をつぎ込んだと思ってる」
「分かっている。これは貸しだ」
「ほぉ〜、言ったな。こいつはとんでもなくデカいからな。大体、お前はいつも無茶苦茶を言いやがる。全部で五千の騎兵にあの大雪原を横断させろってんだからな。いくら金を積まれたって、普通の商人なら絶対に請けねえ。イチモツが凍って、ぽろり、と取れちまうからな」
季節はすでに真冬に入り、フェン領は雪に覆われた。
こうなると街道も雪に埋まり、フェン領の物と人の流れも止まってしまう。足を踏み入れれば、膝上まで埋まるほどの積雪が見渡す限り続くのだからしょうがない。
「だが、お前はこの軍勢をここまで運んできた」
この周囲はすでに雪がまばらになっている。温暖なイジヴァル平原に入ったのだ。
「テメェはよぉ。とりあえず、おだてときゃ何とかなると思ってんだろ。今にして思えば、お前のアイデアは悪くなかったかも知れねぇ。しかしよ、それを実現するのに俺たちがどれだけ苦労したのか」
「分かっている。後で欲しい物を言ってくれ。僕がやれることなら何でもやってやる」
宗谷は気怠げに手で振り払いながら椅子に腰掛け、卓上の地図を睨みつけた。
地図上に並べられた青色の駒はフェン軍を示している。大雪原の踏破に成功し、帝国の赤駒の背後へと迂回した。思い描いた中で最高の状況が地図に並べられている。
北から大雪原を迂回し帝国軍の背後をつく。子どもでも考え付く作戦だが、軍人なら絶対にやらない暴挙だった。
そもそも、進軍すら不可能なのだ。膝上まで埋まるほどの積雪に加え、極寒では生存に必要なカロリーが増大する。つまり必要な補給物資がさらに重くなる。水を飲むのにもわざわざ火を起こす必要があり、頻発する凍傷者を見殺しにすれば士気にもかかわる。
それを無視して強行すれば、逃亡者が続出し、軍は崩壊するだろう。
「……何人死んだ?」
と気になっていたことを訪ねる。
「百十五名だ。多くは凍死だ」と、答えたのはクヴァル様だった。「ヘイティの言った通り、想定よりもかなり少ない。戦力をほぼ温存した状態で敵の後方に出られたことで戦術的に優位に立てた」
「そう、ですか」と、宗谷は目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。
何年もこの世界にいれば、倫理観が日本とは違うことに気がつく。
日本みたいに、一人の女の子を助けるために百十五人が犠牲になった、平等であるはずの命の矛盾。……そういう考え方を、この世界ではあまりしない。
ここでは、わずか数パーセントの兵員損失で敵の後背をつくことを成し遂げた、と考える。これで何万もの敵を効率的に殺すことができる。
「……偽善だな」
と、思わずつぶやいてしまっていた。それを命じたのは僕自身だ。
「ん」
「なんでもありません」と顔を上げる。「そろそろ、ですかね」
「ああ、どうやら千騎長たちは全員来たようだな」
天幕の入り口にはすでに五人の千騎長が並んでいた。彼らのほとんどが前当主の頃から軍を担っていた熟練たちだ。
「中で座っていろ。上級魔術師たちはまだだ」
とクヴァルが言うと、五人はそこら辺の椅子を引き寄せて、やれやれ、と腰を下ろす。
「いやはや」と千騎長の一人が顎をなでた。「まさか本当にあの雪原を抜けるとはな。言われた通りにソリに乗って、七日七晩をず〜と寝てたが。目覚めたら、帝国軍の野郎のケツが鼻の先だ」
ははっ、と笑いが広がる。
実力主義が徹底されているフェン軍の千騎長たちは平民ばかりだ。貴族である上級魔術師がまだ到着していないことを知り、打ち解けた雰囲気が広がる。
もう一人の千騎長が肩を鳴らした。
「むしろ、じっとしているのが辛かった。なにせ、七日もソリの中だ。副官とカードばかりしていたら銀貨をすっちまった。何としても、戦功を上げて褒賞を稼がねぇと尻の毛までむしり取られちまう」
「お前たち、」とクヴァルが一同に声をかける。「立案したソーヤに感謝しろ。あのソリがなければイチモツが凍って取れていたところだそうだ」
「おおっ。ソーヤの坊主、やりやがったな」
フェン家直臣である千騎長は屋敷で常駐することも多い。この世界に来たばかりの宗谷は彼らから馬術や剣術を教えてもらったものだ。
「僕よりも後ろのヘイティを。ソリの手配、補給ルートや中継拠点の構築、替え馬と物資の先行配置。何から何まで彼ですよ」
「おっ、そうだったな。やるじゃねぇか馬泥棒の坊主」
過去にヘイティは屋敷から馬のスノーを盗み出そうとしたことがある。
「おうおう」とヘイティが威勢よく応じる。「感謝しろよ、おっさんども。誰のおかげでそのイチモツがまだ股にはえていると思ってやがる。このヘイティ様よ」
「相変わらず、口がへらねぇ奴だ」
そんなやり取りも笑い混じりで屈託はない。ヘイティは随分とフェン軍に溶け込んでいたようだ。互いに平民同士であることも要因だろうが、そもそもヘイティの人懐っこい性格による部分もあるだろう。
「まぁ、今度ばかりは狐の坊主に感謝しねぇとな」
「へへ、まぁ、控えめに言っても十の内の八は俺さ。まったく、俺の人差し指の奴は『馬にソリを引かせて雪原を抜ける』ってだけ言って、あとは全部俺に投げやがった。しかも、五千人を馬つきで運べってな。言うのは簡単だぜ。しかし、いきなりソリを集めろってのは無茶だ」
注目を浴びてテンションがあがったヘイティは、歌うように自分の功績を主張し始めた。それを横で聞き流しながら、宗谷は再び地図の上に視線を注ぐ。
レヴィが誘拐されてもう14日だ。地図上では帝国軍が優勢に展開し、聖王国はイジヴァル領をほぼ失っている。まさか、イジヴァルの領都がこれほど早く陥落するとは予想できなかった。
ミハエル様は間に合うだろうか。
「そこで、俺はこの頭をひねった。ねじ切れるくらいにひねった。てめーらのイチモツの代わりに、俺の頭がちぎれそうになったんだ。そしたら天啓が舞い降りてきた。天才の俺しか思いつかない妙案さ」
「もったいぶるんじゃねぇよ。舟をソリに改造したんだろ。それにず〜と乗せられてたんだ」
「話の腰をへし折るんじゃねぇよ。テメェがすった銀貨の肩代わり、今ここで利子つけて返しやがれ」
「ひでぇ」
フェン領には湖と海があるが、この時期には水面が凍り舟は使えなくなる。凍土湾岸は複雑な地形のため吃水(船底の深さ)が浅い舟が多く、改造してソリに変えるのは不可能ではない。商人であるヘイティは漁業や海路にも精通しておりそこに目をつけた。
そもそも大規模調達にかけてはヘイティ商会の実力は確かだ。彼らは漁業組合から大量に舟を調達すると、冬場に入り休業していた製材所を再稼働させて、この短期間でソリへと改造してしまった。
それだけでない。ヘイティが設計した雪原踏破ルートも緻密な計算に基づいていた。彼は宿場街をつなぐようにルートを構築する。冬場は雪に閉ざされて閉鎖しているが、そこには厩舎などの施設があるのだ。
彼はフェン家の命令であることを免罪符にして、兵站の中継施設として宿場街の施設を徴用したようだ。
「いいか。ごろごろとカードばかりしてた奴らには分からねぇだろうが。お前たちをお姫様のようにソリにお迎えするよりもずっと前から、俺たちは汗水流してんだ。始めに、ソリに飼料だけを積み込んで何度も何度も馬を往復させる。そうやって、あらかじめ雪をかき分けてルートを作ってやる。ついでに、空っぽだった宿場に飼料や替え馬やらをたっぷりと貯めこんでおいて、舟ソリが出来上がったところでお前たちをエスコート。そういう寸法よ」
「おお、偉いぞ。狐の坊主」
「おいおい、本当に分かって言ってんのか」
普通であれば、極寒での行軍には多くの死者が出る。
しかし、それはあくまでも自分の足で踏破する場合だ。火炉で十分に暖められたソリの中で、寝転びながら運ばれるのであればその危険性はかなり抑えられる。
出てしまった凍死者のほとんどは斥候で外に出ていた者たちのはずだ。
「カーラが来たか」とクヴァルが声を上げ、ヘイティたちの談笑はぴたりと止んだ。
入り口には、白い毛皮コートを羽織ったカーラが姿を現していた。
その背後に配下の上級魔術師たちを従えている。貴族たちの姿を認めた途端に、千騎長たちは椅子から立ち上がり表情を引き締めた。宗谷もそれに習って席を立つ。
「お待たせ致しました。あら、ソーヤも来ていましたか」
「はい」
「首尾はどうですか」
「お陰様で滞りなく」
「そのようですね」
カーラがクヴァルの隣の椅子に腰掛けると、それに続いて上級魔術師たちも千騎長たちが空けた椅子に腰を下ろす。軍制として上級魔術師と千騎長の階級は同位とされる。
それでも貴族と平民の身分差はこういう所に顔を出す。
「では、作戦の説明に入るぞ」
クヴァルの一言で、さらに雰囲気が一気に引き締めしまった。
「はじめに言っておくが、ここまでお膳立てをされたのだ。負けるなどあり得んぞ」
フェン軍の士官たちの顔が、同時にうなずいた。
「地図を見ろ。現状を並べてある」とクヴァルは言い。「ソーヤ、説明しろ」
「かしこまりました」
クヴァルが自身の後継者に宗谷と考えていることを、そこにいる全員が承知していた。
それは宗谷がフェン家の伝令部隊の隊長に任命されていたからだ。古今東西のどの軍制でも伝令役は指揮官候補が担当することが多い。指揮官自らがその人選を行い、伝令はその指揮を間近で学ぶこともできるからだ。
しかも、宗谷の左手にはクヴァルの親指とカーラの小指が結ばれている。もはやフェン家の指導者たちによる公式な見解であることは示されていた。
「本作戦の目標は、さらわれたフェン公爵次期当主レヴィア・フェン閣下の奪還です」
と、宗谷は普段の愛称ではなく、レヴィアのことを正式な尊称で読んだ。
「帝国は閣下と引き換えにフェンの不干渉を求めていますが、所詮は戦時中の口約束に過ぎません。黙って座しているだけでは閣下を取り戻すことは不可能です。仮にこの戦争で帝国が勝利すれば、ますます優位になった帝国にはフェンの要求をのむ必要性がなくなります」
「ソーヤ殿は」
と、先ほどまでは坊主と呼んでいたのを改めて千騎長が尋ねる。
「レヴィア閣下の奪還をどのように達成するおつもりか」
「本軍による直接奪還です。それに失敗しても、帝国軍を致命的な状況に追い込めれば、講和条件として閣下の返還を要求できます」
将官たちは黙ってうなずいた。
ここまではすでに承知していることを再確認したに過ぎない。
「現状は帝国が圧倒的に優勢です」
宗谷は地図を指し示した。ここにいるような戦争のプロたちが見れば、聖王国の劣勢は明らかだろう。イジヴァルの領都を含めた要所はすでに陥落し、帝国軍は聖王領まで迫っていた。
「このままでは聖王国は敗北します。そうなれば閣下を取り戻すことはより困難になりましょう」
「うむ」
「一方で、聖王領まで浸透した帝国の後方連絡線は長く伸びきっています。我々は雪原を突破してその後背に出ました。まだ開戦から二週間です。相手もまさか、我々がここに軍を進めているとは思いません。ここから聖王軍と連携すれば、巻き返しは可能です」
「確かに、ここから帝国の補給線を寸断することは容易い。相手は十万の大軍ゆえ、補給を失えば逆に脆い。しかし、我々の参戦に気がついた敵司令がレヴィア閣下をどのように扱うか、」
こちらの参戦が漏れれば、レヴィは殺される可能性が高い。
「……なので、一戦で勝利を決定づけます」
千騎長は黙って眉をしかめるのを見て、宗谷は「難しいのは承知の上です」と説明を続けた。
「しかし、長引かせれば閣下は危うくなる。短期決戦しかありません。出来れば、奇襲による直接奪還が望ましい」
「……どうする」
「そのために、雪原を越えたのです」
宗谷は身を乗り出して、自軍を示す青駒を動かして中央の大きな赤駒に寄せた。
「戦略的には我々は敵の後方補給線を攻撃し分断すべきですが、今回はこれらは無視します。我々に必要なのは戦術的勝利です。よって、このまま敵本陣へ強襲しレヴィア閣下を直接奪還します」
「……失敗すれば、孤立した我々は全滅だな」
そう疑問を挟んだのは上級魔術師の一人だった。
千騎長たちはいかにも、分かりきった事をわめくな、と言いたそうな様子で唸った。後方からの火力支援を行う魔術師と最前線で危険に身を晒しながら戦う騎士では微妙な対立が生じやすい。
「ええ、なのでその対策も考えてあります。実は、」
と宗谷は続きを迷った。
上級魔術師にどこまで伝えるべきか悩んだのだ。この質問に正確に答えるためにはクヴァル様やカーラ様にしか教えていない情報が必要になる。
迷ったすえに、曖昧にすれば問題ないだろうと続ける。
「……ミハエル殿下が率いる聖王軍が迎撃を開始する予定です。帝国軍との会戦予定はここ。それと連携して挟撃すれば、孤立することもありません。重要なのは仕掛けるタイミングです」
「どうやってその情報を?」
「ミハエル殿下とは鏡渡りで連絡を密にしています」
宗谷は嘘をついた。
真実は、聖都に潜ませていた狐の目をミハエルに貸したのだ。これでミハエル軍とはスマホの術でリアルタイムの通信が可能になっている。そして、それは現聖王への反逆計画のためのフェン家と結んだホットラインでもある。
この事実は、クヴァルとカーラにしか知らない。
「シャバル上級魔術師よ」とカーラが目を細めた。「まだ不安がありますか?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
「そうですか。ソーヤは伝令役としての任務もまっとうしております。鏡渡りもそうですが、聖都でヴァン騎士団長やミハエル殿下と知己を得ていたことから、このような機密を共有いただいたのです」
「はい。存じ上げております」
そう言って、上級魔術師は押し黙ってしまった。
後ろで眺めていた千騎長からは鼻息混じりの嘲笑がこぼれる。臆病だと嘲笑されたと思ったのか、上級魔術士は赤くなった顔をフードで隠くした。
それを横目で見た宗谷はすぐに言い添える。
「シャバル上級魔術師のご指摘は重要です」と言うと上級魔術士が顔をあげた。「聖王軍との連携を誤れば、大軍の中で孤立し全滅するでしょう。閣下の奪還も不可能となりましょう」
この上級魔術士のように、作戦の実行直前で不安を口にするのは確かに良いことではない。
しかし、命がけを前に不安が頭をよぎるのは自然であるし、それを解消するための説明もあるべきだ。対立しがちな騎士団と魔術師団の不仲を放置するべきでもない。
「敵本陣への進軍開始は追って命令する」
クヴァルが声をはって、軍議の終わりを告げた。
「今の内容は口外を禁ずる。いつでも出陣できるよう準備を怠るな」
「「はっ」」
千騎長と上級魔術師たちは声を揃えて応じた。
「最後に全員に伝えておくことがある。これは口外しても構わない。いや、全兵士に必ず伝えろ。必ずだ」
クヴァルはカーラの方を見て、互いに頷きあった。
「いろいろと噂にもなっているが、ソーヤの正体についてだ」
宗谷は目を閉じる。このことは事前に聞かされていた。
自分の体のことは秘密にされている。銀糸を心臓に結ぶような隷属式は禁忌とされるためレヴィの立場を危うくしかねないからだ。それゆえの鏡渡りという特質については無理矢理に誤魔化し続けてきた。
「ソーヤの心臓には先代ウォルファ・フェン公爵閣下の糸が結ばれている」
その瞬間、周囲がざわつきはじめた。それを黙らせるように、クヴァルはさらに大きな声をだす。
「レヴィア閣下は、瀕死だった彼の心臓に先代との親子糸を結びつけ、現世での依り代とされた。つまり、彼はあの英雄ウォルファ・フェンの生まれ変わりである」
全員が沈黙していた。
「もう一度言う。ソーヤはウォルファ・フェンの再来である。……そう全兵に告げよ」
宗谷の心臓は弱々しく、レヴィ、レヴィ、と呻いていた。
◇
リビングの鏡が突然光を放ち、宗谷がそこから姿を現した。
やつれきった顔にホコリまみれの服。レヴィアちゃんがさらわれてからずっと働きづめで、本当に久しぶりにこっちの世界に帰ってきた。
彼はキッチンにいた私を見つけるなり質問を飛ばしてきた。
「母さん、レヴィからは」
「さっき話したわよ。まだ大丈夫だって」
やつれた表情が安堵にゆるみため息をはいている。
ズボンの裾が泥や砂で汚れていた。どうやらさっきまでは軍の中にいたらしい。おそらくフェンの、もしかしたらミハエル王子の軍かもしれない。私にはその違いがよく分からなかった。
「お風呂に入りなさい。もう、お湯は入れているから」
「そんなことより、」
「入りなさい」と遮る。「臭いわよ。その服も洗うからカゴに放り込んでおいて」
「……はい」
微妙な表情のまま、ようやく頷いて、宗谷はお風呂場にふらふらと歩いて行った。まったく、まともに歩けないくらいまで自分を追い込んで、それでどうやってレヴィアちゃんを助け出すつもりなのかしら。
風呂場から漏れてくる水音を確認しつつ、用意していた土鍋に火をかける。あの子はもうボロボロだ。目の下が墨を塗られたように黒ずんで、唇が遠目でも分かるくらいに青くなっていた。
鍋が、ふつふつ、と音をたてはじめる。
フタを開けるとおじやが煮えていた。どうせ、宗谷はろくに食べてないだろうから、栄養があって消化に良いものを作った。じっくりと煮込んだから、野菜とお肉を柔らかく、米はふっくらとしている。最後に、卵と味噌を落として完成だ。疲れた体にこれ以上のものはない。
あの子が病気になった時もよく作ってあげたなぁ、なんてしみじみとしていると、
「母さん」と、背後から声がかかる。
湯気をまとった宗谷がそこに立っていた。用意していたパジャマをちゃんと着ている。
「ずいぶん、早いわね。ちゃんと十秒数えたの?」
「もう子どもじゃないよ」
子どもみたいな拗ねた声で口答えをする。
「ねぇ、母さん」
「レヴィアちゃんからの報告でしょ。ほら、食べなさい」
宗谷をテーブルに座らせ、おじやを前に置く。「話は食べながら」とハーブティーの用意をはじめる。
聖王国の喫茶では安眠のためには夜永花をつかうのが定則だけど、そんな花はこっちにはない。リラックス効果のあるカモミールのお茶がいいだろう。
「レヴィは、」
「だから無事よ。ほら食べなさい。残したら承知しないわよ」
「……うん」
「だいたい三時間前くらいかな。念話で連絡があったわ。宗谷が心配するようなことは何もされてない、って。前と同じ」
「つまり、まだ敵の本陣にいるのか」
「そうね。ハルっていう帝国の指令官さんも一緒だ、って言っていたから。……ほら、スプーンが止まってる。食べながら考えごとしないの」
「う、うん」
しぶしぶといった様子ではあったが、一度口につけた途端、宗谷はおじやをかき込んで一気に平らげてしまった。やはりお腹が空いていたらしい。
有無を言わさずにお椀を取り上げ、お代わりをよそう。
「後は、特に新しいことは聞いてないわ。相変わらず首輪をつけられて監禁状態。私との念話だっておそらく気づかれている、って言ってた」
宗谷の前にお代わりを置く。
「だけどペンダントも取り上げられてないって。どうして相手が放置しているのかは分からないけど」
「多分、レヴィの無事をこちらに納得させるためだと思う。そうじゃなきゃ人質にした意味がない。帝国はフェンの参戦を恐れているんだ」
「そう」
もう二杯目がなくなりかけているじゃない。
「ベッドは用意したから、今日はこっちで寝ていきなさい」
「……」
「寝ていきなさい」
「わかったよ」
「よろしい。さっさと寝なさい? 明日なんでしょ」
「うん。いよいよ明日なんだ」
「はいはい」
立ち上がった宗谷を部屋に案内する。あっちの世界に行ってしまう前から、ずっと宗谷のものだった部屋だ。最近はすっかりレヴィアちゃんの執筆部屋になってしまっていたけれど。
「ほら、ちゃんと暖かくして寝なさい。暖房もつけといたわ」
「うん」
相変わらず、ふらふらとした足取りでベッドの中に倒れこむ。布団にくるまるなり、う〜ん、と息をもらす。よっぽど疲れていたらしい。もう眠気に襲われたのが、口調がむにゃむにゃになり出した。
「ねぇ、母さん」
「なに?」
「ここは落ち着くね」
「当たり前よ。あなたの家なのよ」
「ああ、静かだ。心臓がね、うめかないんだ。やっぱり、ここは遠いから、なのかな」
「ん?」
「ここなら、よく……寝むれそうだよ」
疲労のせいか、変な独り言になってしまってる。
「母さん、おやすみなさい」
言葉の最後が寝息に変わったのを聞き、明かりを落として「おやすみなさい」と扉を閉めた。
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