[2-11] 風雲

 翌日の朝、レヴィアの部屋を訪れた宗谷はミハエルの提案を伝えた。


「そう」とレヴィアはため息をつき、「そうだったのね」と自分の肩を抱くように背を丸める。


 父親の暗殺事件の真相を聞き、宗谷は彼女が怒り狂うと思っていた。だが、意外に大人しいその反応に驚き、逆にこれは不味いな、と不安に思った。その側に寄り添って肩を抱きしめてみる。

 小さい肩だ。


「狐の目を通して、クヴァル様とカーラ様にはもう伝えておいたよ」

「そう」


 それから二人は少し黙る。


「ねぇ」とレヴィがつぶやく。

「ん」

「私、どうすればいい?」

「……」

「クヴァルとかカーラとか、そこら辺はもう決めているんでしょ?」

「ああ」


 彼女の言うとおり、かなり前から方針はあった。

 先代の復讐はフェン家の門下の総意でもある。自分が事件の真相を調査してきたのもそれが理由だった。このような事態になれば、フェンが現聖王を打倒してミハエル様を新しい聖王として即位させるのは既定路線だろう。


「あいつら、こそこそと色々考えてたのね」 

「説明しようか?」

「別に……。はぁ、やっぱり聞くわ」


 胸に頭をあずけてきた彼女の髪を指ですく。

 やっぱりいつものレヴィとはずいぶんと様子が違う。いつもよりもちょっと素直だ。こういう甘え方を彼女はしたことがない。


「戦争になるかもしれないよ」

「そう。聖王家と?」

「ああ」


 髪をなでる度に良い匂いが漂ってくる。


「だけど、このクーデター計画でこちらに大義名分ができた。うまく手を進めれば、戦争すら回避することができるかもしれない」

「……ソーヤってさ、そういうの得意よね」

「ん?」

「クヴァルが好きそうなこと。一つ一つ色々考えて、あーでもない、こーでもない。戦争とか政治とか法律とか、そういうのをいじくり回していく」

「そうなの、かな」


 言われてみれば、そうかもしれない。


「ねぇ、それで? つまり、私は聖王を倒すのに協力すればいいの」

「それは、」


 レヴィが決めることだ。——そう言いかけたが止める。


「ねぇ、ソーヤが決めてよ」

「僕が?」

「うん。クヴァルとかカーラとかが決めたことじゃなくて。ソーヤがいい。あなたが決めたことなら、私、何でもする」

「……」

「貴方が殺せと言えば聖王だって殺すわ。軍でも街でも破壊してやる。私がいれば簡単なんでしょ?」


 彼女はよく分かっていた。

 カーラ様とクヴァル様が裏で戦争の準備をすすめていたことも。そして、いざ戦争となれば自分の魔術があてにされていることも。


「僕は、」


 でも、これは僕が決める事なのだろうか?

 僕が決めたのはレヴィを守ることだけだ。戦争の決断をする義務なんて、本当は誰にもなかったのに。


「……ミハエル様に協力すべきだと思う。例え戦争になろうとも、戦わなければレヴィを守れない」

「私を?」

「このままを放置すれば、いずれは君が狙われるだろう」

「ふふ、私を守ってくれるの?」

「そう誓ったから」


 見上げた彼女の耳元に口を近づける。


「もし戦争になったら。その時は僕の糸をレヴィが握っていてほしい」

「あら、昔はあんなに嫌がっていたのに」

「そしたら、絶対に君を守れるから」


 山間にある離宮の朝は、聖都では聞き慣れない小鳥の鳴き声が響いていた。



 ◇


 フェン公爵家はクーデターに協力する。

 その決定を聞いたミハエル様は飛び上がらんばかりに喜び、さっそく今後について話がしたいと申し出てきた。この離宮からでもフェン家の首脳とはスマホの術で連絡を取ることができた。

 鏡を挟んでの両陣営の会話はおおいに盛り上がった。

 特に、ミハエル様はクヴァル様との直接対談を喜び、予定の時間を過ぎてもなかなか通話を切ろうとしなかったくらいだ。

 お二人とも教養も知性も一級で統治についても造詣が深い。クーデターの計画だけでなく、軍制や税制や法律、はては都市計画まで熱心に意見を交わしていた。


 そんな秘密会談も三日目になったころ。

 ようやく大枠を合意し、後は詳細を詰める段階になったところで、とうとうレヴィがゴネはじめた。事あるごとに、彼女は会談を邪魔しようとする。

 そこで、僕がレヴィを庭園に連れ出すことになった。すると「茶を飲ませてあげる」と言い出す。どうやら、母さんたちが披露した紅茶の茶事をやってみたくなったらしい。簡単な腐食魔術だから、よゆーよゆー、と威勢はよかったのだが……。


「シンプルに、お茶が腐ってるね」

「つまり?」

「とんでもなく不味いよ」


 茶事にそって発酵させた茶葉は小皿に盛られている。母さんのときとはちがって、ねちゃ〜、とした感じになっていた。


「おかしいわ。何でうまくいかないのかしら? う〜ん。単純に魔力を流しすぎたのかも……」

「レヴィって何でもできると思っていたよ」

「そんな訳ないでしょ。訓練していないことは出来ないわよ。だから、これも何十回もしていたら、その内できるようになる。ほら、次は白茶に挑戦するわよ」


 その前に、ねちゃついた食器類を洗った方が良さそうだ。そう思って、席を立とうとした時、


「ソーヤよ。ここにいたか」

「ヴァン様、会議で何かありましたか?」


 会談が行われているはずの部屋からヴァン様が出て来られ、腐った茶葉を並べたテーブルに近づいてくる。


「やはり、外は気持ちが良いな」


 もう冬が近い。白いため息を吐きながらヴァン様は肩を揺すった。


「儂も席を外してきたのだよ。どうも、クヴァルのやつはミハエル様とウマが合うらしい」

「そのようですね」

「話が街の上下水道の整備にまで飛んでしまってな。雨水を熱する魔導具を屋根に設置すれば、街中に上水道をめぐらすことができるかも、などと盛り上がっておった。軍事ならいざ知らず、ああいう話は儂には分からんよ」

「なるほど」

「それにお前に話があったのだ。レヴィア様もご一緒であれば都合がよい」

「レヴィ、にもですか?」

「見届け人になっていただこうかと思ってな」

「はぁ」


 見届け人、と言った時にヴァン様は顔を引き締めた。そして、そのままレヴィの方に頭を下げる。


「まずはレヴィア様に感謝を、フェン公爵家のご協力でミハエル様の思いはようやく現実に近づきました」

「別に」


 レヴィは素っ気なく答えながら、手元で茶葉をつまんで腐らせていた。


「聖王陛下のご乱心により、御身の父上母上様にも不幸がございました。たとえ聖王家に反旗を翻そうとも、フェン家に正義があることは確かでございます」

「ねぇ、あんたはどうすんのよ」


 レヴィはヴァン様に向かって、指をはじいて茶葉を投げつけた。腐りかけのそれはヴァン様の服の上を滑り落ちる。ねちゃ、とくっつかなかったということは、どうやらコツを掴んできたらしい。


「……」

「あんたの左手。中指はミハエルで、人差し指は聖王でしょ?」

「左様でございます」

「見届け人って、指直ゆびなおしに来たの? だったら私に頼むのはお門違いよ。ザトキエル夫人にでも頼んでちょうだい」

「いえ、指直しではありません」

「はぁ? だったらどうするの? 両方の敵指かたきゆびを繋いだままなんて面倒なだけよ」

「後ろ盾のなかったあのミハエル様が、真の聖王の座をうかがえるまでにご成長されました。この中指はそれまでの仮指であると思い定めてまいりましたが、いよいよかと」


 ヴァン様はこちらに向き直る。


「ソーヤ。お主に渡したいものがある。迷惑だろうが、黙って受け取ってくれ」

「何でしょうか」

「これよ」


 そういうと、ヴァン様は左手を掲げた。手の甲を寝かせ、中指を水平にのばす。そこには王子と結んだ銀糸の指輪がはめられていた。


「それは頂けません。ミハエル様の中指はヴァン様です」

「だから、指直しに来たのではない」


 ふっ、とヴァン様の口髭が息を吐き、その目が座る。


「儂は、指切ゆびきりに来たのよ」


 そう言った瞬間、ヴァン様は懐の短剣を抜いて自分の中指を切った。ミハエル様との指輪が地面にころがり落ちる。


「ヴァン様!」

「ソーヤ! やめなさい」


 駆け寄ろうとしたのを、レヴィが制止する。

 目の前では、ヴァン様が指を切り落とした激痛を「ぬぅ」と唸るだけで押さえ込み、地面に落ちた中指を拾い上げる。


「落としてもうたな。なにせ、指切りは初めてゆえ」

「な、なにを」

「儂は、聖王陛下の敵にはなれん」

「……」

「汚い指ですまんが、受け取ってくれ」


 切断した指の根元から、ぼたりぼたり、と落ちつづける血を無視して、ヴァン様はハンカチに切り落とした中指をのせて差し出す。

 その節くれだった太い中指は、細かく編み込まれた銀糸の指輪が巻かれたままだった。


「頼む」


 その太い声の震えに気圧されて、僕は両手でその指を受け取った。


「……すまんな」

「早く、手当てを」

「この程度の傷、戦場ではよくあること。どこぞの布でも当てておけば、」

「ダメよ。それじゃ」


 レヴィが椅子から飛び降りて、ヴァン様に「ほら、手を出しなさい」と術を展開した。彼女の指先に熱エネルギーの塊のような小さな火球が現れる。

 彼女がそれを傷口に当てて焼くと、もう出血は止まっていた。


「お見事です。レヴィア様なら戦場でも良い医療魔術師になりましょう」

「変なおだては結構よ。指切りなんて古い臭いの、よくやるわ。ソーヤは指切りなんて知らないのに」

「左様ですか。であれば、レヴィア様からお伝えいただけますか?」

「ふん。……まぁ、しょうがないわね。見届けたわ」

「ありがとうございます」


 ヴァン様はこちらに向き直ると、晴れやかに笑う。


「ソーヤ。お前が正しいと思う選択をするが良い。儂もそうさせてもらった」

「あの、これは」

「残念ながら、これ以上はミハエル様のお味方はできぬ。良い王とは言えぬかも知れぬが、平民の儂をここまで引き立ててくださり、妻との結婚まで配慮いただいたのは聖王陛下だ。……後を頼んだぞ」


 それだけ言いおいて、ヴァン様は離宮には戻らず庭園を突っ切って姿を消してしまう。

 それを止める間もなく、僕はただ呆然と立ち尽くしてしまった。


「……」

「何、ぼ〜としてんのよ」

「レヴィ、ヴァン様が」

「指切りよ。あんなの物語だけだと思っていたけど、実際にやる奴がいたのね……。ほら、そこに座りなさい。あんたは指切りを預かったの。その意図なんて知らないでしょう」

「あ、うん」


 言われるがままに椅子に腰掛けると、レヴィが「いい」と人差し指を立てる。


「これはかなりレアな儀式魔術よ。だからこそ、強烈な意図がある」

「意図?」

「指切りには『二度と他人とは糸を結ばない』という絶対の忠誠と『誓約を他人に引き継いだ』という権限委譲の意図がある」

「……」

「多分、ヴァンなりに考えた結果よ。あくまでも聖王への忠義をつくすが、ミハエルを裏切りたくもない。その矛盾のためには中指を切り落とすしかなかった」

「そうか」


 ようやく頭の中でパズルがはまった。

 レヴィが説明したこと以外にももっと深い配慮があるだろう。もともとヴァン様とミハエル様の相指は、母が奴隷であるミハエル様の後見人という意味合いが強かった。

 とはいえ、実際に聖王となれば中指は第一の側近だ。将来のことを考えると、老齢のヴァン様は必ずしも適任とはいえない。加えて、聖王の中指は伝統的に宰相となるのが通例で騎士団長が結ぶものではない。

 そういう事情からも、第一継承権を確実にしたミハエル王子の中指を誰かに譲ることは不自然ではない。


「この指切りの儀はあなたがその指輪をはめるだけで成立する。それだけで、ソーヤはミハエルの中指になり、周りの貴族たちもあなたを次期聖王の腹心として扱うでしょう。ミハエルが指直しをしなければ、だけど」


 まぁ、あいつはやらないでしょうね。と、レヴィはつぶやいた。


「で、どうするのよ? いよいよ面倒なことになってきたわね。あなたの決断で聖王国は変わるわ。ヴァンが中指をソーヤに預けたと公言すれば、あなたは宮廷の渦中に立たされる」

「……」

「ソーヤが言っていた、みんなが納得するっていう形の結果がまさにこれよ」


 その意地の悪い言い方が胸に突き刺さる。

 本当にその通りだ。レヴィは自分のおかれた状況を壊して脱出しようとした。そのために他の人が傷ついてもなりふり構わなかった。僕はそれが嫌で、違う方法をずっと探していたのだ。

 その結果が、ヴァン様が切り落としたこの指なのだろう。


「もう少し時間が欲しい」

「何よ。まだ引き延ばすつもり」

「まだ母さんにも言ってないんだ。本当は、この世界にずっととどまるつもりだってことを」

「……」

「ねぇ、ソーヤ」


 さっきまで強気だったレヴィの声が、急に優しくなった。


「もう一つだけ方法があるの。私の方から、」


 その瞬間、心臓が「娘を守れ!」と吠えた。

 全身の糸が魔力でうねり体が躍動する。腰の剣を抜きざまに、背後から投げつけられた槍を叩き落とした。


「誰だ!」


 答えの代わりに、さらに数本の槍が飛んでくる。

 投擲用の短槍だ。それを立て続けに斬り払い、その方角を見上げれば飛竜が数匹見えた。


「レヴィ、中に戻れ」

「キャァ!」


 その悲鳴を聞いて心臓が跳ねた。膨大な魔力の奔流が心臓を圧迫し、身体中から光がこぼれはじめる。

 振り返ると、そこには黒衣の大男が片脇にレヴィを抱えて立っていた。彼女は力が抜けたように、手足を垂れている。


「そう、その姿だ。少年」

「リュウ! 貴様、レヴィを」

「殺してはおらん。が、もらっていくぞ」


 そう言って、飛竜の大族長ロンシャンのリュウは、気絶したレヴィを空高く投げた。

 咄嗟に地面を蹴り、彼女に向かって手を伸ばしたが、リュウの槍に阻まれる。

 宙を舞ったレヴィの体は急降下してきた飛竜にさらわれてしまった。飛竜の首に乗せられ、足をぷらぷらとしながら空へと上がっていく。


「させるかぁ」


 槍を払いのけ、リュウには構わず剣を飛竜に向かって投げつけた。

 魔力による豪腕によって、剣は飛竜に到達し固い鱗を貫いて剣の根本まで突き刺さった。

 絶叫をあげた飛竜は墜落し、レヴィの体がひらりと空を舞う。

 この体なら受け止められる。

 彼女の墜落地点を目がけて駆け出そうとした時、もう一匹の飛竜が彼女の体を横からさらってしまった。


「しまった」


 その姿がどんどん遠くなる。

 レヴィとの距離が広がるにつれ、体に流れていた糸の魔力が抜けていく。亡霊となってこの心臓に宿った父親は、目の前に娘がいないと危機を認識できない。


「ようやく、約束を果たせそうだ」


 背後からリュウの声がした。


「あれ以来、護衛が厳しくてなかなか手が出せなかった。お前の部下は鼻のきく良い戦士ばかりだな。だが、石壁に囲まれた都なら難しくとも、ここは山だ」

「……どこだ」


 リュウを睨みつける。


「どこに連れて行った?」

「西だ。そこに帝国が陣を張っている」

「なに?」

「じきにこの国に攻め込んでくるだろう。それを率いる我が友が、お前の少女を望んだのだ。奪い返しに来るがいい。俺もそこにいる」

「待て」


 長剣は投げてしまい、手元には武器はない。

 糸の魔力も抜け、心臓は弱々しく娘の不在を嘆くばかりだ。飛竜族の大族長リュウ・ロンシャンを相手に勝ち目などなかった。

 でも、そんなのは関係ない。懐に手を入れ、忍ばせていた刀子を指にはさむ。


「やめておけ」とリュウは構えようとしなかった。

「……」


 数分さえ稼げれば、狐の目がここに駆けつけるはずだ。


「やるなら、あの光をまとった最強のお前とだ。今ではない」


 その時、空から鋭い咆哮がして、巨大な黒竜が上空から急降下してきた。

 流石に王子の聖騎士たちも事態に気がつき、火球や風切りを黒竜に浴びせかける。だが、竜はそれをものともせずにリュウのそばに着地した。


「待っているぞ」


 リュウは黒竜にまたがると、そのまま飛び立ってしまった。



 ◇


 後世の歴史家たちは、聖王国歴1002年に起きたこの第三次帝国侵攻よって世界情勢は一変する、とペンをそろえる。


 この時代の超大国であった両国が三度も戦火を交えた理由は何だったのか? すぐに思いつくのが魔術士の扱いの違いだが、歴史家たちによると食料問題であったらしい。

 帝国では、主食である小麦の取引価格はこの二十年で60%も増加していた。一方の聖王国では小麦価格は安定している。これは、両国の国境に広がる大穀倉地帯、イジヴァル平原を聖王国が領有していたことによる。

 この戦役の後に聖王国と帝国は小麦関税の撤廃条約を結ぶことになる。これによって帝国領内の小麦価格は安定し、帝国の侵略は途絶えることになる。


 とはいえ、小麦の高騰の原因は二十年に渡る戦争こそにあり、戦争がなければそもそも小麦の値上がりもなかったという反論もある。


 さて、戦争の原因はここまでにしよう。そういうのは学者先生に任せておけばよい。

 どうせ戦争に大した理由などないのだ。ある高名な哲学者もこう言っていた。『戦争の90%は後世の人が呆れるような理由で起こった。残りの10%は当時の人すら呆れるような理由で起こった』と。


 ここではこの戦争の主役たる英雄たちについて考えたい。この時代はまだ古き良き英雄の時代なのだから。

 両軍の総司令官は、聖王国側の第一王子ミハエルと帝国側の軍司令ハルであった。他にも、大魔術師レヴィア、鏡渡りのソーヤ、王弟ウリエル、大族長リュウ、名宰クヴァル、小公カーラなど数々の英雄が名を連ねていた。


 帝国がイジヴァル公爵領に侵攻したのは冬だった。

 優秀な軍略家である軍司令ハルは行軍には過酷な冬をあえて選んだ。その理由は二つ。冬は休農期なので農奴のうど兵を大量に動員できたこと。もう一つは、過去二回で帝国軍が大敗したフェン騎士団を北の雪の中に閉じ込めるためであった。


 特に、ハルのフェン公爵軍への対策を徹底していた。

 過去二度の侵攻はすべてフェン軍によって失敗したと言ってよい。この精強な北方騎士団に対抗策を用意するのは当然と言える。

 ハルは盟友であるリュウ・ロンシャンにレヴィア・フェンの誘拐を依頼する。

 聖王国内に潜伏していたリュウはこれを成し遂げ、隷属の首輪を彼女にはめて監禁する。そして、フェン公爵領へ使者を送り、参戦しないことを条件に人質の安全は保証すると伝えた。


 フェン領が雪に閉ざされる冬に侵攻し、しかも次期当主を人質にすることで、帝国はフェン軍の憂いなく平原に兵を進めた。

 正規兵六万、農奴兵四万の合計十万という史上でも稀に見る大軍勢を動員し、イジヴァル公爵領の領都にわずか八日で迫り、十日間で陥落させたという。


 一方の聖王国側の対応はどうだったのであろうか。


 この迅速な侵略に対して、聖王の対応は遅れに遅れた。

 先の戦争での敗戦が彼を臆病にした、と分析する歴史家は多い。侵攻の後も彼は後宮に引きこもり続け、臣下を遠ざけていたのは事実である。ようやく聖王から、全軍の指揮権をヴァン騎士団長に委任する、との発令が下った時には、すでにイジヴァル公爵の領都が陥落した後であった。

 統帥権を委譲されたヴァンは、迎撃軍編成し、ミハエルをその総司令に任命する。自身は聖都の防衛を指揮するとした。

 同時に、ヴァンはミハエルとの相指を指切りにしたことを公言する。このセンセーショナルな噂は宮廷を駆け巡り、いよいよ聖王交代も近いのでは、と人々に期待を抱かせたという。陰では、狂王、暗愚とけなされていた聖王に人々はうんざりしていたのである。

 本来であれば、聖王軍に応じて四つの公爵軍が馳せ参じる。しかし、公爵家たちは召集に応じなかった。当主を人質にされたフェン家と領都すら陥落したイジヴァル家には理由があったが、東と南の公爵家は言葉を左右にして応じなかった。

 聖王家はイジヴァル公爵領が壊滅するまで傍観し、いよいよ聖王領が危うくなってからの召集だ。それに応じるだけの義理は公爵家にない。

 よって聖王軍だけで動員できた迎撃軍は二万。帝国の十万と比べると圧倒的に少ない。強力な魔術士団を抱える聖王国とはいえ、この差を覆すのは不可能に思われた。


 さて、鏡渡りのソーヤである。

 この時期の彼は様々な場所に姿を現す。聖都でミハエル王子と会談したと思えば、次の日にはフェンの領都でクヴァル伯と軍議していた。時には前線に現れて、ミハエル軍の斥候部隊の指揮をとることもある。その神出鬼没を可能にしたのは、鏡渡りと呼ばれた彼の特質であろう。


 前に述べたとおり、三度目のこの侵攻は聖王国が圧倒的に不利な状態で始まった。

 そして、聖王国は反攻はこのソーヤを起点にして始まるのである。


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