[1-19] 母の教え

 宗谷が鏡を渡ってレヴィの元に戻った瞬間、背後で鏡が割れる音がした。

 振り返ると、氷で作られた鏡が崩れて氷片になって転がっていた。レヴィが魔術で作った氷の鏡だ。正確には、魔術で作った氷壁に水銀を薄く貼って即席の鏡としたものだ。

 生きて戻ってこれたな、と安堵の息をついていると、レヴィが振り上げた拳で殴りかかってくるのが見えた。

 といっても、小柄な彼女が精一杯になって顔には届かない。さらに、日頃の運動不足がたたって雪に足元をとられて転びそうになっている。慌てて、受け止めにいってしまったので、振り上げた拳は振り下ろすタイミングを失って、無意味に天に掲げられてしまった。


「馬鹿ぁ!」と胸元でレヴィが叫ぶ。

「ああ」

「ギリギリだったじゃないの。危なかったじゃないの。あんなに格好つけておいて、ぼろっぼろにやられてたじゃない。ほんっとうに、馬鹿なんだから!」

「うん」


 レヴィのいつもの金切り声が涙で湿っていた。

 そのまま、彼女を抱きすくめ、彼女の体の柔らかさとか匂いとか、すべすべのほほとかサラサラの金髪とか、色んな安心感を堪能する。自分の心臓に絡まる父親の思念も、娘の存在を確かめて安心したのか、正常なリズムに戻った。

 ああ、やっぱりレヴィが近くにいると安心する。


「あらあら。私の目の前で、レヴィア様で楽しむのはよろしくないわよ。ソーヤ?」

「あ……、すみません」


 カーラ様の笑顔が固くなって、こちらを睨みつけていた。

 しまった。レヴィの後見人であるカーラ様にしてみれば、従者に過ぎない自分がこのような大それた振る舞いを許すわけがない。


「うるしゃい! ババァは黙ってろ」


 しかし、レヴィは振り下ろしそこねた拳で、カーラ様に向かって指差した。


「はいはい。とはいえ、戦争は始まってしまいました。クヴァルなんぞはソーヤが心配すぎて、中央の指揮を放り出して、自ら一隊を率いて突入してしまったのですよ。あれも大概にまわりの見えぬ男です」

「えっ、クヴァル様が」


 家宰であるクヴァル様は、まともな指揮をしない当主にかわって中央を統轄するべき人だ。それが危険な前線に出てしまっては……。それに中央の統制はどうする? ウィスさんの聖騎士隊との連携もある。


「ウィスさんの部隊は?」

「先行するクヴァルの後詰めとして追従しました」

「そうですか……。まぁ、悪くはないかな」


 積雪はまだ深くないとはいえ、小柄な高速馬に乗るウィスさんの部隊は機動力に劣る。先陣は北方の聖騎士団が担当し、ウィス隊は後方からの火力支援に徹するのは当初の予定通りの陣形だ。それが崩れたわけではない。


「であれば、安心しました。後は、逃げているヘイティですね。今から確認します」


 まだ、抱きついて離れようとしないレヴィの後頭部を、ぽんぽん、とはたきながらも、スマホの鏡を取り出して耳にあてる。


「ヘイティ、答えろ。こっちは戻ったぞ」

「ソーヤぁ! ひゃほーぅい。やりやがったな!」


 ものすごい上機嫌な声が返ってきた。

 向こう側からはものすごい風圧の音が聞こえる。本当に飛竜を奪ったらしい。あの状況では、それしか方法がなかったとはいえ、相変わらず無茶をする。


「どうだ?」

「最っ高だぜ! くぅー。これが飛竜か、これが自由だ。こいつはたまんねぇ!」

「違う。状況を教えろ。それに、お前、ちゃんと降りられるのか」

「何とかなるだろ。って、あ? 状況か?」

「さっさと教えろって」

「飛竜に乗って飛んでいる。気分は最高。貴族の女も一緒だ。それと、後ろに敵が追ってきてやがる。パッと見で30騎くらいだ」


 全然、大丈夫じゃない。


「いけるのか」

「おいおい、想像してみろよ。お前が聖騎士に30騎に追いかけられているとする。首紐で飼い慣らされた馬が30だ。そいつとスノーで追いかけっこだ。どうだ?」

「つまり、余裕なんだな」

「あいつらはまるで分かってねぇ。飛竜も馬も同じだ。自由に飛べば、こんなにも速ぇんだ」


 まさに元馬泥棒の面目躍如といったところだろう。昔からヘイティは荒馬ほど上手く乗りこなす。本人も野性的なところがあるからか、馬と折り合いをつけるのが妙に上手い。

 しかし、飛竜傭兵が30か。

 ヘイティは余裕だと言っているが、強がりの部分もあるだろう。騎乗経験の差もあるが、ヘイティは二人乗りだ。どうしても速度は落ちる。


「ヘイティ、こっちに逃げて来られるか?」

「ん? まぁ、多分いけるぜ。おい、竜。ちょっと右に曲がれ。おい、右だ右、右向けよ」


 本当に大丈夫か?


「わっ、ってめぇ、腕を噛もうとしやがったな! おら、右向けってんだ。じゃねぇと鱗をひっぺはがすぞ、コラぁ!」

「おい、ヘイティ。無理はしなくても、」

「おっ、ようやく右に曲がりやがったな。へへ、最初から大人しくしとけってんだ」


 多分、飛竜からしてみれば、気流や慣性のせいで急な旋回ができないこともあったりするだろう。それを急に曲がれと背中で騒がれるストレスは凄まじいはずだ。

 操りの術から解放されても、ヘイティのわがままに付き合わされる。それが飛竜の悲しさと割り切るべきだろうか。


「おい、ソーヤ。そっちに向かってるぞ」

「よし、進路はそのままだ。追ってくる飛竜はこちらで迎え撃つ」

「了解」


 通話をきって、カーラ様に向き直る。


「こちらに飛竜傭兵が向かっています。先行するクヴァル様に連絡しましょう。後詰めの聖騎士を横陣にならべ、先行するクヴァル様の部隊を横合いに展開すれば火線を十字に取れます。それで勝てるはずです」

「ええ、そうでしょうね」

「カーラ様。全軍に迎撃の態勢の指示を」

「いえ、それを命じるのは私ではありませんよ」と、カーラ様は頭を横にふった。「クヴァルが飛び出したとき、私は、指揮はどうするのだ、と聞いたのですよ。そしたら、戻って来たらソーヤにやらせろ、と言っておりました」

「えっ」


 カーラ様はこちらに近づいて「その話せる鏡を拝借しますね」といって、僕が持っていた鏡を取り上げた。

 ふいに近づいたカーラ様の体。香水の匂いがする。その香しい匂いに鼻孔が広がり、がるるとレヴィの唸り声が鼓膜を刺した。


「こちらフェン公爵家の筆頭貴族、カーラ・フェンです」


 カーラ様は使い慣れないスマホの鏡を、目の前につまみ上げるようにして話しかけた。


「狐の目たちよ。聞こえていますか? 聞こえているなら、クヴァルとウィス殿に伝えよ。そのまま鏡を渡せばよい」


 しばらく、彼女は鏡に向かって耳をすます。


「うむ、代わりましたね。……クヴァル、焦らないでください。ソーヤは無事に戻って来ました。……ええ。では、予定の通りにしましょう。これより、フェン公爵家の当主、レヴィア様の信任のもと、全軍の指揮はソーヤが行います」


 そういって、カーラ様はつまみ上げたスマホを僕に差し出した。


「諦めて、受け入れなさい。ソーヤ」

「……僕が、ですか」

「もとより、お前があの鏡の部屋からレヴィア様を連れ出した時から、こうなることは決まっていたのかもしれません。結局のところ、あの偉大な兄様の影を誰もが探し求めていたのです。クヴァルも、私も、そしてレヴィア様も」


 押しつけられた鏡を受け取って、鏡に映る自分の顔に視線を落とす。

 レヴィのお父さんのことは、本当はよく知らない。ただ、レヴィのことを本当に愛して、大切にしていたことだけは痛いほど分かっている。この心臓を締め付けるほどの想いをこの世に残すほどに。

 でも、僕なんかにレヴィを……。


「心配する必要はありません」


 カーラ様の、僕が大好きな笑い皺が、その艶やかな口元に浮かんだ。


「かつて、聖王国随一と称された北方公爵家、その我々がついているのです。俊英クヴァルの軍略、私が率いる北方の貴族団、それに大魔術士レヴィア様も。これほどの陣容であれば、聖王国を覆すことすらもできましょう」

「そんな、」

「誇張ではありません。兄様が当主のころは、そのような不穏を喚き立てる者が聖都には多くいました。北方の公爵軍は巨大すぎると。兄様が殺されて、ついぞ聞かなくなりましたが」


 殺されて、とカーラ様が言った瞬間、腕の中のレヴィがびくっと震えた。

 思わずレヴィを胸に抱き寄せる。彼女が大好きだったお父さんは、何者かに殺された可能性が高い。クヴァル様とカーラ様は、それがフェン公爵家を恐れる中央の派閥によるものだと疑っておられるようだ。


「わかりました」


 スマホの鏡を耳元に引き上げる。

 僕は、何を言うべきだろう。軍の指揮なんてやったことはない。

 でも、きっと、どんな時にでも大切なことは変わらない気がする。そして、どんな時でも大切にしなきゃいけないことは、全部、母さんが教えてくれた。


「みなさん、ご心配をおかけして申し訳ありませんソーヤです」


 迷惑をかけたら、ちゃんと謝らないとダメよ。


「僕は無事です。皆さんのお陰でヘイティも無事でした。みなさんのお陰です。本当にありがとうございます」


 何事もちゃんと感謝しなさい。

 そうすれば、誰かが助けてくれてるんだから。それに気がつけなくなったら、どうしようもなくなるわ。


「残念ながら、村の人たちは殺されていました。しかし、一人の女の子を助け出すことができました。今、ヘイティと彼女を乗せた飛竜が、こちらに逃げてきています。それを追って飛竜傭兵が30騎、こちら向かってきています。彼らを助けるためには、皆さんの力が必要です」


 いい? 人にお願いするときはちゃんと理由をいうの。

 理由がちゃんとしていれば、みんな協力してくれるわ。お母さんが同人イベントする時はいつもそんな感じなんだから。そのかわり……。そう。後で、ちゃんと御礼を忘れないこと。


「みなさん。後、少しです。ここで勝てば、平和に冬を迎えることができます。だから、どうかお願いします」


 クヴァルさんは「了解」とだけ、ウィスさんは「承った」と答えてくれた。その力強い返答を聞いただけで、全てが上手くいく気がした。


「……指示はしないのですか? 火線を十字に配置すれば、より効率的に迎撃できると言ってたでしょう」


 カーラ様が首をかしげてこちらを見る。


「多分、大丈夫です。クヴァル様とウィスさんなら、そんな事は分かっているでしょうし、それに……」

「それに?」

「理由をちゃんと伝えることが大切なんだって、母さんが言ってましたから」


 その時、カーラ様は驚いた顔をしてしばらく固まっていたが、やがて「ああ」と声をもらして、笑った。


「なるほど、なるほどですね。あのソーヤのお母さまが、そう教えたゆえだったのですか」

「カーラ様?」

「いえ、何でもありません。ただ、今まではあのクヴァルが貴方に入れ込む理由が分からなかったものですから。……なるほど。これは、どうやら私が盲目だっただけのようですね」


 カーラ様はそうため息をつくと、ご自身の馬を引き寄せてお乗りになると周りの聖騎士を見渡す。


「お前たち、待たせました。私たちも動きます。さぁ、大魔術士レヴィア様と、英雄ソーヤの出陣です!」


 それに答えて、聖騎士達は拳を振り上げた。


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