[1-14] 天才と努力の微妙な関係
天才はいる。
私のいう天才というのは、一般的なイメージとは少し違う。少なくとも、わずかな努力で多くを実現するような人のことを言わない。
そうやって自分を誇るような自称天才はそこら辺に結構いると思う。蓋を開けてみれば、他人の努力を自分のものにしているだけの人、あるいは、周りの力で自分が成功していることに気がつけない人。そういうありきたりなのを私は天才とは言わない。
本当の天才は、頑張らなくても努力ができる人だと思う。
あるいは、理由を必要としない人かもしれない。理由がなくても努力できて、止める理由もないからずっと努力がつづく。
理由とは必ず結果の前にあるはずなのに、天才は理由がないのに努力して、いつか結果を出してしまう。
一方で、私のような凡才は、好きなことを止めるにも理由を必要とするのだ。
——私には才能がないから。
◇
(お義母さま、すごいです。お義母さまは本当にすごい!)
ようやく、終わった。
なんと、500部、全部はけたのだ。
ぐでぇ〜と長机に突っ伏して、スマホをみると現在の時刻は14時。冬コミ終了時間の2時間前だ。
設営準備の時にサークル参加者に交換配布した途中で、一般入場がはじまってしまった。まだ行列に残っていたサークル参加の人には、名刺だけもらって後から挨拶させてもらうと約束し、一般参加者への配布対応に戻ってもらった。
そして、例年どおりの人の津波が押し寄せてきた。
しかし、私は数々のイベントで売り子を勤めてきた古強者だ。かつては風月堂さんの最盛期の販売フローを回し、一日で数万冊をさばききった経験すらある。(さすがに、1人じゃなかったけど)
そんな私にかかれば、500くらい余裕! ……じゃなかった。
いや〜。年取ったね、私も。最後のほうなんて、指がつりそうで、おつりの百円玉をつまむのも苦労したよ。
振り返って見れば、私が苦戦を強いられた原因は2つあった。
1つ目は価格設定を300円にしたことだ。
慣れたコミケ参加者だと、大抵の本が500円か1000円であることはわきまえているものだ。高度に訓練され、礼節をわきまえた日本のオタクたちは、サークル側にお釣りの手間がないようにと、五百円玉と千円札を大量に用意してきてくれる。
しかし、こちらには教育的事情により300円にせざるを得なかった。
よって、毎回お釣りを受け渡す必要がありオペレーションが遅延した。幸い、大量の百円玉を用意しておいたので、お釣りを出せない事態は避けられたが、毎回お釣りをつまみ出すのに苦労した。
もう1つ原因は、お買い求めの皆さんがご挨拶をしてくれたことだ。
いやぁ〜。流石に長く腐女子しているから知り合いが多い。そういった人たちに、300円です、はい、お釣りです、ありがとうございます。次の方〜。みたいに高速販売するわけにもいかない。
まぁ、私の友達なんて、こちらもみな歴戦の貴腐人(誤字じゃないよ)ですから、コミケというものをよく分かっている。行列をちらりと見て「後で、Twitterするね」といってそそくさと退散してくれた。
しかし、知らない人からも「あのお腐くろさんなんですね。噂はかねがね」なんて言われると、流れにのっていた配布作業を中断せざるを得ない。そういうのが何度もあったのだ。
はぁ〜。流石に、つかれました。
今は『完売御礼。ありがとうございました!』と書いた紙をポップに貼り付けて、ようやくパイプ椅子に腰をおろして、ぐで〜となっているところだ。
(売れましたよ! 完売です! かんばーい!)
「ええ、本当によかった」
そう、完売したのだ。
相当数がサークル参加者との挨拶交換に配られたとはいえ、一般参加者からもちゃんと買ってもらえた。
Twitterでバズったからとか、人気のお誕生日スペースだったからとか、300円で安かったからとか。そういう要素ももちろんあっただろう。
でも、それだけで買ってもらえるほど創作活動は甘くない。オタクたちは暖かくとも厳しい目で作品をみている。ましてや、今回は二次創作じゃない。オリジナルなのだ。
事実、見本用の本を実際に手にとり、ちゃんと中身を読んだ上で、行列の最後尾に並んだ人は結構いた。
それは間違いなく、レヴィアちゃんの努力で読者を獲得した瞬間だ。
「レヴィアちゃんの本をちゃんと読んで、それで買ってくれた人、たくさんいたね」
(うん! うん、……うん)
彼女は、溢れる感動を必死に抑えつけようとしている。そんな感じが声にこもっていた。
「本当に、がんばったね」
(うん! 私、私、私ね。……頑張って、本当によかったぁ!)
へへ。
なんだか、こっちがニヤけちゃう。
足元の段ボールに視線を落とす。そこには交換してもらった沢山のBL本とまだ交換してないサークルさん用に残しておいたレヴィアちゃんの本がある。
そのレヴィアちゃんの力作を手にとった。
表紙は彼女が最後の最後まで粘って書き直したものだ。この漫画の主人公である男の子と魂を宿した人形が描かれている。まだ躍動感のある全身画を描けないレヴィアちゃんが、苦肉の策でバストアップの構図にしたものだ。
レヴィアちゃんのすごいのは、こういうところだ。自分の実力を冷静に見極めて、適切に妥協することができる。
パラパラと読み始めてみる。
大好きな父親を亡くした男の子が、操り人形に魔法をかけて魂を宿す。その人形は男の子の命令に絶対服従、どんなことがあっても男の子を守る強い戦士でもある。男の子はしだいに亡き父親を人形に投影して、二人の関係は微妙にもつれて、糸のように絡まっていく……。
濡れ場は一切ない。純愛オリジナルBL。
完売した安心感をもって、改めて読み返してみれば、これがかなりの良作だと気がつく。
確かに技術はまだ拙いだろう。しかし、作者の気持ちがこもっている。彼女が表現したいものが、ちゃんと線になって紡がれている。もしかしたら、レヴィアちゃんはこの父親を亡くした男の子に自分自身を重ねて描いたのかもしれない。
そう考えてみると、この操り人形のキャラクターが宗谷に似ている気がする。
(お義母さま! あの、お願いがあるのですけど)
「ん? ……なにかしら」
(ちょっとだけ、入れ替わってもらってもいいですか? 私、コミケに参加してみたいの)
「ああ、そういえば買いたい本があるんだっけ?」
(いえ、欲しかったのは、もう交換してもらったので……、ただ、あのコミケを見て回ってみたいのです)
まぁ、そうよね。
せっかく、こんなに頑張ったのに、このお祭りを肌で感じずに終わるのは可哀想だ。
「ええ、いいわよ。でも、知り合いに見つかったらすぐに交代すること。いいわね?」
(はい)
「えっと、入れ替わりはどこで?」
(ペンダントの鏡で十分ですよ。私は今、箱鏡の中で待機してますから)
へぇ、こちら側はこんな小さな鏡でもいいのか。
そういえば、入れ替わりの時に使うこちらの側の鏡は色々だ。姿見だったり化粧台だったりお風呂場の鏡でも出来た。ただ、向こう側は特別な鏡じゃないと出来ないようで、聖都では聖壇に忍び込んで大鏡を使っていた。レヴィアちゃんのお屋敷では、鏡張りの天蓋つきベッドを鏡で囲んだものを使う。
ん〜、だったら。こっちの世界でも同じようなの作ったら良いことないかしら? どうなんだろう。
(こちらは準備が出来ましたから、指輪を鏡につけてください。魂の入れ替わりですから、鏡の大きさは関係ないはずです)
「あ〜、はいはい。触ってまーす。お願いしまー」
と、言いかけた途中なのに、いつもの入れ替わりの感覚がして、気がつけば私のまわりは鏡に囲まれたベッドの上だった。
う〜ぷっ。
突然だったから、ちょっと吐きそう。入れ替わりたては乗り物酔いみたいな感覚がするんだよね。
頭をふって、左右を見た瞬間。
オロロロロロぉぉぉ!
と、私は胃の中のものを吐き戻してしまった。
この周りの鏡に映る風景は、もしかして……!?
(うきゃーー!)
レヴィアちゃんが念話で歓声を上げている。
念願のコミケを目の当たりにした彼女は、感動のあまり走り回っている。
その躍動感たっぷりの光景が、なんと私の周囲の鏡が映し出しているのだ。いわゆる360度の中継映像。それがいきなり走りまわるものだから、視線ゆれが凄まじく、めちゃくちゃ酔う。気持ち悪い。そして、吐いた。
鏡に映る左右正面は人混みまみれ、上はコミケ会場の高い天井とギラリと光る照明が見える。そして、ベッドの底板の鏡には私の吐しゃ物が酸味臭をはなっていた。
慌てて、目を閉じた。
「ちょっと、ちょっと。レヴィアちゃん。止まってちょうだい」
(え?)
「周りの鏡。これってコミケ会場よね。もしかして、ライブ映像で見てたの?」
(あ、ああ。そういえば、覗き鏡を解除してなかった。こっち見えてます)
ええ、吐いてます。
「めちゃくちゃ揺れて、酔いそう」
(あ〜、慣れるまではキツいですよ。私が動いている時は目を閉じておかなきゃ)
そういうことは入れ替わる前に言ってください。
(箱鏡の魔力循環は無限機構になってますから、魔力の減衰はほとんどないので、しばらくそのままだと思います)
「わ、分かったわ。ちょっと、用事があるから、しばらく楽しんでなさい」
(了解しました! じゃあ、行ってきまーす)
目を閉じたまま、そ〜と、箱鏡から出る。
とりあえず。吐しゃ物を掃除しないと。雑巾はどこだろう? 給仕さんを呼んで持って来てもらおう。うぅ、お風呂場に行って口もゆすぎたい。
しばし、吐しゃ物を掃除中。
終わった!
いや〜。吐いたのが鏡の上だったのが不幸中の幸いだった。これが絨毯や布団だったら、絶対にシミになるし匂いもついてしまっただろう。
さて、それではレヴィアちゃんの様子を見て……しまうと、またリバースしかねないので、目を閉じてベッドの上に座る。
そして、耳をすました。鏡からは向こう側の音もこぼれてきている。
ぐんぐんと歩く足音が聞こえてくる。これはレヴィアちゃんの足音だ。同じ体なのに私と歩き方がぜんぜん違う。それに気がついて、不思議と可笑しかった。
その時、私の体のレヴィアちゃんの足音が止まった。
ふぅ。ようやく、目をあけることが出来る。
片目だけ開けて鏡をみると。そこはある販売スペースの前だった。
普通の長机スペースの簡単な設営だった。長机の上に布もしかず、マジックで値段を書いただけの画用紙を机の縁にセロテープでとめ、本を上に並べるだけ。
机の向こうには、パイプ椅子に座って、BL本を読みふけっている女の子がいた。ようやく高校生になったくらいの、垢抜けない、腐女子独特の地味な子だった。彼女は接客などそっちのけで、本を読みふけっては時々、ふふ、と声をもらしてニヤニヤと笑っている。
見たところ、典型的な初めての参加者だ。
作品を目にとめてもらうための工夫が売り場にない。机の上に無造作に置かれている本が、おそらく売り物なのだろう。これでは、せっかく作った本が、っん?
え、……これは!?
(見て、お義母さま。私と同じくらいの子がいたわ)
あのマンガ、あんな表紙を、本当にこの子が描いたの?
(あらあら、こんな時間になってもまだ本を余らしているわ。それなのに、本人は買った本に夢中なんて、しょうがないわね〜)
レヴィアちゃんは完売できた安心感から、気が大きくなったらしい。その子の前まで進むと「ねぇ」と声をかけた。
「えっ! あ、す、す、すみません」
慌てて読んでいた本を閉じて、その子はパイプ椅子から立ち上がる。
一昔前みたいに髪を三つ編みにしてまとめた、野暮ったい感じのする女の子。いかにもコミケで初めて東京に出てきたような、典型的なサークル参加者。
でも、私には分かる。この子は、きっと、天才だ。
「ほら、読ませなさいよ」
レヴィアちゃんが私の体で、私なら絶対に口にしない言葉を口にしても、私は気にならなかった。それよりも、彼女が差し出した見本の中身が気になってしょうがなかった。
「へ〜、表紙はちゃんとしてるじゃない」
「あ、ありがとうございます! みなさま、そう言ってくれました。うれしいです!」
「売れてるの?」
「はい。私、初めてのコミケだったんですけど。こんなにたくさんの人がいて、びっくりでした」
「で? 売れたの?」
「はい。あ、いいえ。あ、でも、はいです。もう4分の3くらい? その場で読んでくれた人もいて、うれしかったー」
「何部刷ったのよ?」
「50です」
「ふ〜ん。まぁ、いかにも初心者みたいだし。大健闘じゃないの」
「はい、ありがとうございます」
自分も初心者であることを棚にあげて、見下したように言うレヴィアちゃんを聞き流しながら、私は驚いていた。初参加で、この設営クオリティーで、50部近くもはけたの? それもオリジナルなのに。
値段も500円でこのページ数なら特別安いわけじゃない。ということは、この子は表紙絵だけの魅力で、少なくとも50人の目を奪い、その価値を納得させたのだ。
レヴィアちゃんが、見本を受け取る。
彼女では、その表紙から匂い立つ名作の予感を嗅ぎ分けることは出来ないかもしれない。
その表紙には、向かい合う二人の全身が描かれていた。
右側の茶髪男の足元にタバコが散乱していて、左側の眼鏡男子の周囲には本が積み重なっていた。
茶髪は色気のある目で眼鏡男子を流し見つつも、くわえタバコを吹かしている。その一方で、眼鏡のほうは憎悪の表情で茶髪を睨みつけ、下ろした手を握りしめていた。
タイトルは『くすぶる煙草、積み重なる本』。
その表紙はページをめくる前から、ドラマを語りだしていた。
腐女子が大好きな、美味しそうな匂い。それが、この表紙からは立ちこめている。
私は、その表紙を開く前から、その内容を期待していた。茶髪と眼鏡の関係を妄想してしまっていた。
おそらく、眼鏡の男は教師とか弁護士とか、そういうお堅い仕事だろう。茶髪は逆だ、遊び人で、不誠実で、ふしだらに違いない。二人の接点は? もしかしたら、兄弟なのかもしれない。
ああ、二人が兄弟だったらいいのに。
無性に兄弟モノが読みたくなってきた。
私だったら、兄は茶髪のほうがいい。遊び人の兄が、社会的地位のある弟に金を無心にくる。それを邪険に扱う弟。ああ、そういう始まり方がほしい。この本がそうあってほしい。
はやく。はやくはやく! 中身を読ませて!
「まぁ、表紙は描けているじゃない」
「ありがとうございます!」
そして、とうとう。
レヴィアちゃんは、その表紙を、あまりにも無造作に、開いた。
……。
…………。
………………。
音が聞こえなくなった。
いや、ページをめくる紙の音と、続きを逸る自分の鼓動と、やけに細くなる呼吸は聞こえる。でも、まわりを行き交う人の、喧騒の音はなぜか耳に入ってこない。
今、ここにいるのは、作品と自分だけ。
……。
…………。
……これは、
これは、対立と葛藤に始まり、融和へと終わる物語だ。
現代の、決まり事を守れば約束された安定を得ることができる社会。その中で、そうは生きられない男の自暴自棄と、自由に生きられない男の自己嫌悪。
この二つが出会う。そして対立し、葛藤のすえ、やがて融和する。
そんな物語だ。
「ど、どうですか?」
天才少女が、おどおどとした様子で聞いてくる。
深呼吸をしてほしい。
鏡に映るレヴィアちゃんの手が震えているのを見て、私は切にそう願った。
若い子は見えない未来を可能性だと信じている。将来は無限に広がっていると思い込んでいる。特にレヴィアちゃんのような子はそうだろう。
でも、彼女の手元にあるのは可能性なんかじゃない。
すでに、実現した結果だ。
自分と同じくらいの女の子が、すでに成し遂げていた成果だ。
その時、鏡に映る世界が激しく揺れた。
画面酔いを恐れて、私はすぐに目を閉じた。
バンッ! と机を叩く音が聞こえた。
「お金……、ここに、置いたから」
「あっ、ちょっと!」
足音は走って、風を切る音がなる。呼吸の音が乱れている。
やがて、車が走る音が聞こえてくる。多分、会場の外だ。
はぁ、はぁ、はぁ。
息づかいはいよいよ細切れになったところで、足音がピタリととまった。
すると乱れた呼吸が、揺らぎはじめた。それはやがて、引きつけのようにしゃくり上がる。
ひっく、ひっ、く。ぅぅ。
「……お義母さまぁ」
ようやく言葉になったそれは、涙にまみれていた。
「お義母さまぁ。ねぇ、お義母さまぁ」
「……なに?」
できるだけ、優しい声で聞いてあげる。
「私ね。私、がんばったのよ」
「うん」
「本当に、がんばったの。全力だったの。昔ね、お父様に褒められたいから、魔術の勉強したみたいに、ものすごいがんばった。みんなに読んでもらいたいって。自分でも分からないモヤモヤがあって、それをマンガにして、最初は上手く描けなくて、でも、諦めなかった。必死に頑張った。ねぇ、お義母さま。私はね。本当に、精一杯の全力で、がんばったの」
「ええ、そうね。分かるわ」
この世の中には天才がいて、どうやら自分とは違うらしい。
そんな、残酷な真実を、彼女は目のあたりにしたのだ。
あの子の作品に対する姿勢は、レヴィアちゃんとはまったく違っていた。
彼女には気負いがなかった。頑張ったんだから読まれて当然、というおごりがなかった。ここまでやって評価されなければ終わりだ、という恐れもない。
ただ純粋に、創作を楽しんでいた。例え、だれにも読まれなくとも、残念に思いはするだろうが、止めることはないはずだ。来年もまた参加しよう。帰ったら、また新しいのを描こう。そう考えるだけだろう。
だから、彼女は天才なのだ。
「私、ずっと勘違いしてた」
「……」
「もしかしたら、お義母さまの名前じゃなくても、全部売れたんじゃないかって、本当はそう思っていた。それだけのモノが描けたんだって思ってた」
「うん」
「売れるかどうかなんて、本当にちょっとしたキッカケだけで、そんなの単なる運だって。だから、お義母さまの名前を使うのはそんなに悪いことじゃない、そう思ってた。ちょっとしたキッカケを借りるだけ、だって、ちゃんと売れるものを自分は描けた。そう思っていた」
「そうね。がんばってたものね」
「お義母さまが、ズルはダメだって言うのも……本当は面倒くさいな〜、としか思ってなかった」
「ええ」
もちろん、レヴィアちゃんがそう思っている事なんて分かっていた。
でも、言っておかないと彼女は元の位置に戻れなくなってしまう。もし、失敗して、挫折して、思い知らされたとき、やり直すべき元の場所がどこなのか、何から始めればいいのか。そういうスタート地点。
小さな成功の喜び方を知らないと、大人になったら迷ってしまうのだ。
「あんなに、あんなに面白いのに、50部だけなんだ」
「……50部もよ」
「……」
「初参加のオリジナルBL本。まずは50人にファンになってもらうこと、ゼロから少しずつ増やしていくこと」
「うん」
「500冊さばくことよりも、ずっと難しくて、とっても嬉しいこと。ねぇ、あの子のこと覚えてない? 私たちが見本を読んでいるとき、あの子はずっとこちらを見ていたわ。ニヤニヤの、とっても嬉しそうな顔でね。あの子は、描くのも読むのも、そして読まれるのも大好きなの」
「……うん」
車がエンジン音を鳴り響かせて、街路樹の向こうを通り過ぎる。
正面の鏡に私の手が映って、それがぐっと拳を作る。
「お義母さま」
「なに」
「私、がんばる。もっと、がんばる」
うんうん、それでこそレヴィアちゃんよ。
「あ、あの!」
と背後から声がかかって、まわりの風景がぐるりとまわる。
うっぷ。
急に振り向かないで、また吐きそうになるから。
「あなたは?」
そこには、あの天才少女が肩で息をして立っていた。
「ようやく、見つけた。よかったぁ」
「どうしたの?」
「いやぁ」と後頭部に手をあてて「びっくりしました。お金だけ置いて、見本を持っていっちゃうんですから。しかも、1万円ですよ。お釣りとちゃんとした本を持って来ました」
「……ねぇ、あなた」
「はい、なんでしょう」
「名前は?」
少女は首を傾げて笑うと、本の上にお釣りをのせ、両手で差し出した。
「森沼よう子といいます」
サークル名でもペンネームでもない。それはおそらく本名だろう。
レヴィアちゃんは、差し出された本を受け取ると、彼女らしい凜々しい声で言い放つ。
「私はレヴィアよ。レヴィア・フェン。私は……そう。私は、あなたのライバルよ!」
冬の乾燥した寒空の下。
その高らかな宣言は、青春の鐘の音を響き鳴らす。
ああ、だが、しかし、落ち着きたまえ、若者よ。
今の君のその体は40を過ぎたおばさんの体で、今の君の名前はレヴィア・フェンでもない。
ああ、気がついてちょうだい。お願いよ。
今の君の姿は、とても痛々しい。
◇
(あ、お義母さま。まだ、めくらないで)
「はいはい」
冬コミの帰りの電車はいつものように混雑していたが、山の手線に乗り換えたあたりでようやく座ることができた。
座るなりレヴィアちゃんから、獲得したばかりのBLマンガを読みたい、とねだられたのだ。実は、私も読みたくてうずうずしていたから、こそこそっと読むことにした。こういう時のためのブックカバーですよ。
(う〜ん。やっぱり、上手いわねぇ。流石は、我が生涯のライバル)
レヴィアちゃんがねだったのは、彼女の(勝手に決めた)ライバルである森沼よう子さんの作品だった。
(……結局、10冊も余ったらしいわね)
「森沼さんの本?」
私たちのは全部はけている。
(こんなに面白いのに……。本当は、こっちが500部売れるべきなのに)
「ふふ、レヴィアちゃんの本も良かったわ」
(お世辞はいいの。次、めくって)
「はいはい」
この子のこういう所は、素直でとても好ましい。
ワガママで、自分勝手で、強引なところがある子だけど。でも、根っこのところがちゃんとしている。精一杯がんばれるし、相手のこともちゃんと認めることができる。
あぁ、最初はどうなるかと思ったけど、今日は良い日だったわ。
「あっ」
(なに?)
良いこと、思いついた。
「ねぇ、レヴィアちゃん。ちょっと秋葉原に寄っていかない?」
(秋葉原って、アキバのこと? 行ってみたいけど……。でも、今日は家でじっくりと読みたいしなぁ)
「レヴィアちゃんに、お礼してなかったなぁって気がついたの」
(ん?)
この子は宗谷の恩人なのだ。
「アキバで、ペンタブを買って帰りましょう」
(……えっ。ペ、ペンタブって、ペンタブ?)
「ええ、ペンタブ」
(そ、それは。ペンタブレットのことでしょうか?)
「うん、そのペンタブ。レヴィアちゃんが欲しがっていたペンタブ」
(税込みで3万と5千758円もする。ペンタブレットのことでございましょうか!?)
やけに具体的な値段をあげることから、どうやら彼女は欲しい機種を決めていたのだろう。
「ええ、その3万5千円くらいのペンタブを買いましょう」
(お、お義母さまぁ、)
レヴィアちゃんの声が震えているのがわかる。
(愛してます!)
フェン公爵家ご令嬢の愛は、お値段にして大体3万と5千円くらいだったようです。
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