[1-12] 鏡の部屋と指輪の糸
その部屋は鏡に埋め尽くされている。
その部屋に初めて足を踏み入れた時、私は鏡張りの迷路を思い出した。昔の遊園地にあった鏡の迷路だ。迷路を歩くたびに四方八方に映り込んでいる自分も動く。それと同じ感覚を、この部屋では味わうことができる。
このお屋敷の二階にある大きな扉の先。
そこは、レヴィアちゃんの部屋。
まるで林のように、背の高い姿見の鏡が並び立つ迷路。
大好きな父親を亡くした彼女が、ずっと引きこもっていた場所。
ここで、彼女は宗谷を召喚したのだ。
「母さん?」
背後から宗谷の声がした。
小さい頃のこの子は、大人しくて素直な子だった。だけど、今ではすっかり思春期で反抗期だ。こっちの言うことなんて聞いてくれやしない。
もう、乙女の部屋に入る時はノックをしなさい、と何度も言ったはずなのに。
「ノック」と振り返って、睨みつける。
「……ごめん」
決まりが悪そうに宗谷は顔をしかめた。
まぁ、いいでしょう。乙女といっても今の中身はお母さんなんだから、宗谷もちょっと油断しているだけかもしれない。
「ここで、宗谷はこの世界に呼び出されたのね」
「どこでそれを」
「カーラさん」
「……聞いたの?」
宗谷が召喚のことを話したがらないのは、何となく気がついていた。仕方ないからレヴィアちゃんに聞いてみたけど、宗谷から聞いて欲しいと頼まれてしまった。
一体、何があったのだろう?
宗谷はレヴィアちゃんのことを命の恩人なのだと言う。でも、レヴィアちゃんは宗谷がどう思っているか、不安がっていた。
「何も聞いてないわよ。聞かなかったから」
「……」
「だって、他の人から聞いても、分からないじゃない。勘違いもあるし、嘘かもしれない。だったら、宗谷から直接聞いた方がいいでしょう。宗谷はお母さんに嘘なんてつかないもの」
宗谷の顔が苦しそうに歪むのを見て、ちょっと胸が痛くなる。
意地悪なことを言ってしまったな。
宗谷が私に嘘をつかない、なんてそれこそ嘘だ。子どもは色んな嘘をつく。辛いときや逃げたいとき、誤魔化したいときも。
実際、2歳のイヤイヤ期とか言葉を覚え始めた4歳のときとか、とにかく大変だった。何をやっても嫌って言うし、問い詰めれば嘘もつく。それに、なぜか排泄物系ワードを連呼してはしゃいだりするし……。もはや我が子に悪魔か何かが取り憑いたのかと思う瞬間すらあった。
それでも根気よく、嘘はいけません、と教え続けてきたのは私なのだ。
「……分かったよ」
宗谷はため息をついて背中で扉をしめた。
《お義母さま》
とてもレヴィアちゃんのものとは思えないような、心細い念話が伝わってくる。
彼女にも約束したのだ。宗谷から本音を聞かせて欲しいと。そんな彼女の不安を慰めるように、胸元のペンダントを握りしめた。
「長い話になるよ」と宗谷はいう。
「長い間、ずっと待っていたのよ。宗谷がいなくなってから」
そう言った後、宗谷はぽつりぽつりと当時のことを語りはじめた。
◇
学校から帰る途中だったんだ。
日差しがやけに強かったから、夏だったと思う。
え? 確かに夏だって。9月の初旬の夏休みが終わったばかり?
母さんはよく覚えてるな〜。
実は僕はあんまりよく覚えてないんだ。あれから、色んなことがあったからね。
え〜と、うん。
家に帰る途中だったんだ。
部活終わって、友達と別れて、一人でだった。夏休み明けで、とにかく暑かった。
そしたらね。すぐ側にワンボックスカーが止まってね。ドアが開いて、男の人たちが僕を捕まえて中に押し込んだんだ。
まぁ、うん。
後は、大体つくと思うけどね。
いわゆる暴行事件っていうやつ。車の中で殴られたり、首とか占められたり……。笑いながら非道いことされて、遠くに連れて行かれしまったんだ。
……。
え、どういうこと?
……。
いや、言ってる意味が分からないよ。
……、…………。……。
あ〜。いや、それはなかったよ。
母さん、BLの読み過ぎだよ。そういう事はされなかったから、とりあえず安心してよ。
……。…………、……、……。
いやいや。なにそれ、男にそんな事されるの? 流石にあり得ないでしょう。
母さんがそういうの好きなのは別にいいけれどね。あんまり、なんて言うかさ、暴力的なのはマンガでも良くないと思うよ。たまに母さんの本棚から変な表紙がみえちゃうことあるけどさ、ああいうのは見えないところにしまっておいてよね。
……。
はいはい。もっと反省してください。
じゃあ、続けるよ。
母さんが心配するような事はされなかったけど。それでも、非道い事はされた。タバコの火を押しつけられたり、ホッチキスで腕に針を抉り込まれたり……。車の中で逃げられなくて、すごい怖くて、痛かった。
……。
うん。
……。…………。
うん、……ありがとう。
それでもね。まだ車の中だったから、大したことはされなかった。ガンガンとうるさい音楽が流れていて、大声で笑う男の人たちが、お酒を飲みながら思いついたように僕の体で何かを試すだけ。
それでね。
僕がこの世界に来たのは、ここからなんだ。
そのまま僕は閉園になった遊園地に連れて行かれた。小さな観覧車が風にあおられてギシギシ鳴って、メリーゴーランドの馬が欠けてしまっているような、廃墟になってしまった遊園地。
そこで車から降ろされて、男がお前はあいつの代わりだって指さしたんだ。
そこにはね。顔中が痣だらけに黒ずんで、裸にされた女の子がうずくまっていた。呼吸するのがやっとで、時々ね、びくびくと体が痙攣していた。
すると、男たちの一人が「じゃあ、こいつはこれで最後だ」って言って、女の子を蹴飛ばすと、馬乗りになって、その女の子の顔、何度も何度も殴りはじめた。女の子も、殴られても何も言わないんだ。もうそんな気力とかも残ってない感じで、あっ、あっ、って拍子に声がもれるだけで。ただぐったりとしてね。男達にされるがままだった。
……ねぇ、母さん。
……。
僕はね。それを見て、逃げたんだ。
……。
女の子のこと見捨てて、怖くなって、このままじゃ自分が死んじゃうって、それだけしか考えられなくて。その子に男たちが群がっている隙に、必死に逃げ出したんだ。
……。
ちがうよ。
もし、お姉ちゃんだったら絶対に助けようとした。お姉ちゃんはそういう気持ちのある人だもの。
僕は違った。僕は自分のことしか考えられなかった。
僕は卑怯な人間なんだ。
今は、少しは強くなったかもしれない。僕を英雄と呼ぶ人もいる。でも、本当はそんなんじゃない。
僕の本来はね、卑怯で弱い人間なんだ。
……。…………。……、…………。
……、……。
うん。ありがとう。でも、あの女の子は、きっと……。
……。
うん。
……。
……とにかく、僕は逃げ出したんだ。
男たちが見えないところまで逃げて、アトラクションの迷路に隠れた。鏡張りの迷路だよ。左も右も、天井さえも鏡で出来ていた。そこで、じっと息を整えて、また走れるようになったら逃げだそうと隠れていた。
あの男たちが女の子に夢中になって、時間を稼いでくれたら、とか思っていた。
……。
うん、……わかったよ。もう言わない。
でもね。やっぱり、僕が逃げたことはすぐにばれた。
入り口から男が入ってきたのが見えたから、迷路の奥へ奥へと逃げていったのだけど、とうとう袋小路に追い込まれてしまった。
目の前には、バットとかナイフをもった男たちがいて、右も左も後ろも鏡で、そこには男たちがにやけている顔が映っていた。
その時にね。
銀色の糸がね。僕の目の前に垂れていたんだ。
そして、「掴みなさい」って声がした。気の強い女の子の声。まぁ、もう分かっているとおもうけど、レヴィの声だよ。見上げると、鏡にレヴィが映っていて、こっちに向かって「糸を掴みなさい」っていうんだ。
僕は、その糸を必死に掴んだ。
そしたら、体が引っ張り上げられ、天井の鏡に吸い込まれて、気がついたらね、この世界にいたわけ。
◇
宗谷の話を聞き終えた私は、我が子が経験したあまりにも悲惨な事件にため息をつくしかなかった。
「そう、そうだったの。本当に、本当に、大変だったのね」
目からこみ上げたものは、もう口の中にまで溢れてしまって、ものすごくしょっぱい味がした。宗谷に酷いことをした男達への怒り、恐怖にさらされた宗谷の気持ち、女の子を見捨ててしまった彼のやるせなさ。
そういった複雑な味がして、とても言葉にはならなかった。
「だから、レヴィアちゃんは宗谷の恩人なのね」
「……ああ」
「分かったわ。ようやく分かりました」
胸のペンダントを握りしめて、目を閉じた。今度、ちゃんとレヴィアちゃんに御礼を言わなくちゃいけない。
「ねぇ、母さん」
「なに」
「僕は……。昨日ね。人を殺したんだ」
大きくなった宗谷が、まるで小さかった頃の宗谷みたいな声で、そう言った。
「昨日だけじゃない。この世界にきて、色んなことがあった。良い人もたくさんいるけど、悪い人もいた。あの男たちみたいな悪い人。母さんが言うような、優しいだけじゃあ、どうしようもなかった」
宗谷が自分を責めている。
それを聞いて、私は自分自身を嫌悪した。
宗谷が傷ついている原因は、私が教えてきた、考えの浅い、残酷な現実を知りもしないで言い聞かせたお説教のせいなのだ。
嘘をついてはいけません。
人に優しくしなさい。
男の子なんだから、女の子を守らなければダメよ。
だったら、
相手が嘘をついているときはどうするの?
暴力をふるうような人にも優しくするの?
自分が殺されそうなのに、女の子を守らないといけないの?
……逃げちゃ、ダメなの?
「ひどい母親ね」
「えっ」
「私は、本当に、ひどい母親ね」
別の温度の涙が頬をつたった。
「ねぇ、宗谷。ちゃんと理由があるのでしょ?」
「ちがうよ。守れなかった。中に踏み込んだら、すでに女の人が殺されていたよ」
「……そう」
「だから、僕は殺したよ。行商の人も何人か殺されていたし、後から分かったことだけど、周辺の村も襲われていたんだ。ああいう、人殺しを覚えた盗賊っていうのは本当に厄介で、追い払っても別のどこかで繰り返すものなんだ。だから、殺すのが絶対に、一番いいんだ。だって、僕は、僕は、……僕はね」
小さい頃に、よくいじめられっ子に泣かされて帰ってきた宗谷がそこにいた。
「もう、あの時みたいに、弱くはないから」
「ええ」
宗谷の頭を抱きしめる。
逞しくなった息子の、まだまだ柔らかい心。体はどんどん大きくなるけど、心はすこし置いてけぼりになる時期なのだ。知らない間に成長して、知らない間に傷ついている。
宗谷は本当に成長していた。
もう、お母さんの馬鹿な教え通りでは、上手くいかない問題に立ち向かっている。
「偉いわ。宗谷は本当に偉いわ。お母さんなんかじゃ、もうダメね。お母さん、宗谷がすごいってことしか分からないわ」
「……そんなこと、ないよ」
「そんなこと、あるわよ。ちゃんと胸をはりなさい。宗谷は悪くない。……お母さんが宗谷に言えることは、もう一つしかない」
「なに?」
「貴方が生きていて、本当によかった」
宗谷が泣きじゃくる振動が胸をうち、しゃくり上がる嗚咽が鼓膜をゆらす。
その打ち寄せる波のような感情を、私は胸一杯に抱きしめて、じっと収まるの待つ。
「……落ち着いた?」
「うん」
頷いた息子の頭を離して、泣きはらして崩れた顔をのぞきこむ。
「せっかくの男前が台無しねぇ」
「そうかな」
「さて、お母さんも恥ずかしくなってきたわ。そろそろ、レヴィアちゃんと変わってもらいましょう」
「レヴィと? どうやって」
入れ替わりは聖壇の大鏡でしか出来ない、と思っていた。だけど、レヴィアちゃんが言うには、この部屋の鏡だったら入れ替わりは不可能じゃないらしい。
「いやね。レヴィアちゃんが、宗谷を召喚した鏡だったら入れ替わりくらいはできるはず、って言っていたのよ」
「ああ、なるほど。
「どれが宗谷を召喚した鏡?」
「だったら、あのベッドで組み立てるんだ」
そう言って、宗谷は豪華な天蓋つきのベッドに近づくと、そこに敷いてあったマットレスを引きはがしてしまった。
すると、露わになったベッドの底板が鏡になっていた。
「えっ、何これ?」
「下だけじゃないよ。ほら、上も見てみなよ」
言われるがままに身を乗り出して上を見てみると、ベッドの天蓋の裏も鏡になっている。底板と天井が大きな合わせ鏡になっていて、宗谷と私の顔がずっと奥のほうまで並んで映っている。
「これが箱鏡の上下、ほら、その鏡の上に乗りなよ」
「えっ? 大丈夫なの。割れない」
「多分、大丈夫だと思うよ。レヴィの体は軽いし、あいつはこれで色んなものを覗き見して遊んでたんだ」
「へ〜」
言われるがまま、おそるおそると鏡の上に足をのせる。
足の裏がひんやりと冷たいし、上下に移る自分がどこまでも続いていく感じがとても不可思議で落ち着かない。
すると、宗谷がベッドの周辺に鏡を並べだした。
「何しているのよ?」
「ああ、これね。箱鏡は全体を鏡で囲んで完成なんだよ。昔はこうやって、レヴィに並ばされたもんだよ」
「へぇ」
そういえば、聖壇もこんな感じだ。壁も天井も全面鏡張り。そうか、つまりこれは小さな聖壇みたいなものだな。箱庭ハウス聖壇ね。
「よし、完成したよ。レヴィに知らせなよ」
「うん」
ペンダントを開いて、鏡を覗き込む。
「ねぇ、レヴィアちゃん。準備できたみたいよ」
「はい」とレヴィアちゃんの声が聞こえてくる。宗谷にも聞かせるためだろうか、いつもの念話じゃなくて実際の声だ。「足元の鏡に指輪を触れさせてください」
「わかったわ。こう、かしら?」
ぴたり、と左手を足元の鏡におしつける。
すると、もう何度も体験した吸い寄せられる感覚がして、私の意識は鏡の向こうへと飛びだってしまう。
……。
…………。
うん、……おばさんの体にもどったわね。
いや〜。久しぶりの自分の体だ。入れ替わり成功。
目の前には化粧台の鏡があった。
その鏡には、レヴィアちゃんのパンツがどアップで映り込んでいた。
おおい!
って、そうかそうか。ベッドの下の鏡と化粧台の鏡が繋がっているのね。
「レヴィアちゃん、パンツ見えてるわよ〜」
ちょっと、おちゃらけてペンダントの鏡に声をかけてみたが、返事はない。う〜ん、どうやら接続を切られてしまったみたいだ。念話にしてもそうだけど、私たちの連絡って魔術を使えるレヴィアちゃんの一方通行なことが多い。
まぁ、レヴィアちゃんからすれば、久しぶりの宗谷と二人きりだし。ちょっと、おばさんが邪魔しちゃいけない感じなのかな〜。
……ん?
久しぶり。彼女の部屋。二人きり。それも思春期真っ盛り。
ご、ごくり。これは何も起きないはずがない。もしかして、レヴィアちゃん、ここで仕掛けるつもりなの!?
辛い過去を話し、戦いから帰って来て身も心も弱っている宗谷。邪魔な母親を鏡の向こうに追い出して、自分は優しく宗谷を慰める。流石の宗谷も気持ちも体もほだされてしまうだろう。もしかしたら、そのまま、いけるところまで……。
しかも、今、彼女が座っているのはベッドの上なのだ。《鏡で固いけど》
……そこまで計算していたのね。恐ろしい子!
ちらりと鏡のほうを見ると、何やら二人は話しこんでいるみたいだ。
こちらからは、レヴィアちゃんのパンツしか見えないから、まるで、パンツがしゃべっているようにも見える。
まだ、行為ははじまっていないわね。しかし、これはもう時間の問題だろう。宗谷の童貞は完全に包囲された。しかも、レヴィアちゃんが今はいているパンツは、私が選んだ一番可愛いやつだ。こんな時のために、デリケートゾーンのムダ毛処理だって完璧に仕上げてある。
これは、墜ちたわね。
そうか〜。今日は宗谷の卒業記念日か〜。だったらお赤飯にしましょう。そうしましょう。
思わずニヤつく頬を手で抑えながら鏡にうつるパンツを眺める。
……。
…………うん。
流石に、観戦するのはやめとこう。
化粧台の扉に手をかけると「二人とも、がんば」と小声で声をかけて、そっと化粧台の扉をしめた。
◇
私はね。ずーと、眺めていたの。
この鏡の箱の中で。覗き鏡の術で。
大好きだったお父様の指輪を親指につけたまま、ガミガミうるさいクヴァルとカーラを外に閉め出して、私はずーと眺めていたの。
ある男の子のこと。
その子は、優しいお母さんとお父さんと、それにお姉さんに囲まれて、幸せそうにしていた。こことは違う別の世界の男の子。私がなくしたものを全部もっていた。
私はね。ずーと、その子を眺めていたかったの。
このまま、私の体が朽ち果てるまで。
指輪から聞こえる、思念だけになってしまったお父様の声に耳を傾ける。
レヴィ、レヴィって私を呼んでいる。
このまま、指輪をつけていればお父様と同じところにいける。お父様の思念と混ざり合って、いずれ私の自我は溶けて混ざりなくなってしまうでしょう。
私はね。そうなるまで、ずーと、眺めていたかっただけなの。
ソーヤという男の子のことを。
◇
「ねぇ、ソーヤ」
入れ替わったばかりのレヴィアは、そのまま鏡のベッドの上に座りこんだ。
「なんだい、レヴィ」
宗谷はレヴィアに背をむけて、ベッドの縁に腰かける。
「どうして、」と俯いた彼女は数巡し「……お義母さまに嘘をついたの?」とつぶやいた。
「嘘なんて、ついてないさ」
「言ってないじゃない。あなたの、その体のこと」
「聞いていたのか」
「泣き虫ソーヤ」
「卑怯だよ。見てたなんて」
レヴィアは手を伸ばして、宗谷の背中を指でつく。
「どうして? 私は質問してるの」
「それは命令かい?」
「やめてよ。そんなの卑怯よ。それこそ卑怯。卑怯者のソーヤ! 私が、」とレヴィアの声が落ちる。「私が命令したら、あなたは逆らえないじゃない」
「君にもらった命さ」
「やめて」
「僕はね。死んだんだ」
レヴィアの指がピタリと止まる。
「あの時、廃墟の遊園地で、女の子を見捨てて逃げ込んだ鏡の迷路、その袋小路でね。僕は確かに死んだ」
「……」
「僕は男たちに捕まってしまった。そのまま殴られて、蹴られて。バットとか、ナイフとか。全身がズタボロに、ぐちゃぐちゃになるまで……。覚えているのは激痛と男達のにやついた顔と笑い声。自分の血が飛び散って、それが鏡に反射して、部屋中が真っ赤になっていった」
レヴィアの脳裏に、あの時の光景がよみがえった。
箱鏡が映す、向こう側の世界の光景。迷路の鏡とつなげた光景。それが鮮血で染まっていくのだ。ずーと眺めていた男の子が、幸せだった男の子が、群がる暴力で血だらけになって、殺されていく。
「私は、何もできなかった」とレヴィアの声がかすれる。「怖くて、それでも何とかしなきゃって。でも、でも、急なことで、何も思いつかなくて、あなたが、あんなになるまで、何もできなかった……」
宗谷はゆっくりと振り返って、レヴィアを見た。
自分の背中をつついていたその小さな手を、柔らかく包み込むとゆっくりと頷いた。
「どうせ生身の体じゃ、鏡渡りは無理だ。そうだろ。どうしようもなかった」
「そうだけど、だけど」
「あの時、僕は死んだんだ」
「やめて」
「馬乗りになった男が、僕の心臓に何度もナイフを突き立てているところまでは記憶があるよ。……だけど、その後の記憶はない。ぷつり、と糸が切れたみたいにね。きっと、そこで僕は死んだんだ。少なくとも、この心臓はそこで止まった」
「やめてって言ってるの!」
宗谷はレヴィアの手を引いて、それを自分の心臓に手をあてた。
すると、宗谷の心臓から細い糸のような光が彼の全身を這い回りはじめる。レヴィアの手が触れたその場所から徐々に光りが強くなり、ついには服の上からでもハッキリと見て取れるほど鮮明になった。
その光の糸は、彼の心臓を包むようにまとまって、ゆっくりと胎動していた。
「僕の今の心臓は、君のお父さんの糸で動いている」
レヴィアは無意識に自分の親指に触れた。そこにはかつて、大好きだった父親と交わした指輪をはめていた。
「君がお父さんからもらった綾取りの指輪。その形見を君は切り解いて、死んだ僕の心臓に垂らしてくれた。その糸は僕の心臓にからまって、こっちの世界に引き上げた。糸の魔力で補強した体でないと、鏡渡りは不可能だろ」
「でも、それで、あなたは呪われたのよ」
レヴィアは顔を背ける。
「お父様の操りの術に縛られた。死者との綾取り、それも心臓を捧げる隷属術」
宗谷は微笑んだ。
レヴィアはそれを見て絶望した。その優しげな笑みは彼女が大好きだった父親とそっくりだった。絶対的な無償の愛。その裏には、命をかけてでも自分を守ろうとする意思がある。
その微笑みがまわりの鏡に反射して、自分を取り囲んでいることに、彼女は恐怖した。
「……ねぇ、お父様の声が聞こえるでしょう?」
死者との綾取りを交わせばその思念と霊体を結合することになる。レヴィアも親指の指輪していた時、死んだ父親の声を聞いていた。
レヴィ、レヴィ。愛しているよ。
「ああ、この心臓が動くたびに聞こえるよ。レヴィ、レヴィって、君の名前を呼んでいる」
レヴィアは奥歯を噛んだ。
彼の心臓を取り繕っている綾取りの糸には、お父様の思念が残留している。偉大な魔術士であったお父様が私のために編んでくださった糸。
そんなものに心臓を縛られて、精神が無事であるわけがない。
「ねぇ、」と顔をあげ、父親と同じ微笑みを正視した。「……キス、してよ」
宗谷は微笑んだまま、曖昧に首を傾げる。
その恐ろしい笑顔に向かって、今度は叫んだ。
「さっさとしなさいよ!」
その命令に従うように宗谷の頭が垂れ、レヴィアと唇を重ねる。
ねぇ、ソーヤ。
私はね。ずーと、眺めていたかっただけなのに。
それなのに、あなたはこの世界に来てしまった。
お父様の糸に縛られて、私の人形になってしまった。
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