一章:そうだ、北方公爵領へ行こう
[1-01] 若者よ、廊下を走ってはいけません
枕元に置いたスマホの着信音が鳴り響き、それで私は目覚めた。
まだまだ眠むたい瞼を開けられぬまま、あくびを噛み殺す。着信音をたよりに何度か手を伸ばし、つかみ取るなり耳に寄せた。
「ちょっと! ちょっと! お腐くろさん。見たわよ」
私を「お腐くろさん」と呼ぶのはみんな腐った友人だ。
「ん〜、何を見たの」
「ぼけてるわねぇ? もしかして寝起き」
「寝起きー」
「あら、それは失礼。ごめんね」
「別に、そろそろ、だったし」
寝起きで口の中がもごもごとする。どうも、上手くしゃべることができない。
だけど、そんなまどろみは次の一言で吹き飛ばされてしまった。
「それよりもお腐くろさん、新作出すんだって?」
……はい?
「新作よ。BLマンガ。どういう風の吹き回しなのよ。私は下手だからもう描かないって、お手伝いだけで楽しい、ってずっと言ってたのに? やっぱり描きたくなったわけ? いや〜、それにしても楽しみだわ。あのお腐くろさんのBL」
「えっと、新作? 誰の?」
「あなたに決まってるじゃない。どうしたのよ、Twitterでバッチリ広報してたじゃない。もう、バズりまくって大盛り上がりよ。あの池袋のお腐くろさんがBL本を出すって、しかもオリジナル」
えーと……どゆこと?
通話を切らずに、スマホの画面を覗きこみTwitterを確認する。
確かに、もの凄い量の通知が溢れていた。
友人たちからのリツイートが列をなし、メッセージを次々と拡散している。目をこすってよーく見る。……本当だ。身に覚えなどないが、新作BLマンガを発表すると私が宣言している。
そこで、ぴん、と犯人の顔が頭によぎる。
「後でかけ直すわ。今、ちょっと忙しくって」
「ああ、ごめんね。また後で、それと新作、楽しみにしてるから」
「え、ええ」
ベッドから跳ね起きて、お風呂場の洗面台に突撃した。
「ちょっと、レヴィアちゃん!」
すぐ洗面台の鏡にむかって叫ぶ。
「うぅ……、もう何よ。徹夜続きで疲れてるの」
鏡の向こうからは、レヴィアちゃんが眠そうな声が聞こえてきた。
「いったい何をしたのよ!?」
「はぁ、なんのこと」
「Twitter、BL、新作、告知!」
「あっ! そう言えば、そうよ。お義母さま、みんなの反応はどう?」
……やっぱり、お前か。
「じゃあ、やっぱり」
「ええ、マンガを描いたよの。ふふん、私、けっこう頑張ったんだから」
「そんなの描いてたのね。しかも、徹夜までして」
どうりで、やけに体が気だるいわけだ。
ここ最近、頻繁に入れ替わってくれとせがまれていた。多分、マンガを読みたいのだろうと思っていたが、まさか自分が描いていたとは。
「それで、私のアカウントで告知した、と」
「ええ、そうよ」
「って、なんで私のアカウントを使うのよ。自分のアカウントを作ればいいじゃない!」
すると、すー、とレヴィアちゃんが視線を逸らした。
「だって私、アカウントとかよく分からないし」
……嘘ね。
Webマンガの新作まで追いかけるようになったこの娘が、今さらアカウントの作り方を知らないはずがない。
「レヴィアちゃん?」ともう一度しっかりと睨みつける。
「な、なによ」
「本当のことを、ちゃんと言って」
「……分かったわよ」
彼女は下を向き、しぶしぶと言った様子で白状しはじめた。
「ほら、お義母さまのアカウントってフォロワーが多いじゃない。せっかく描いたんだから、たくさんの人に読んでもらいたいって思ったのよ」
やっぱり、そういうことか。
「レヴィアちゃん」
「なによ。正直に答えたわ」
ぐっと口を引き結んだ彼女の表情からは、色んな葛藤が見てとれた。
彼女がやった事、その気持ちは理解できた。
せっかく描いたのだから、多くの人に見てもらいたい。そういう強い欲求がある一方で、人の名前を使うことの後ろめたさもあったのだろう。その綱引きに彼女は負けてしまった。そういう自分の弱さを隠すために必死に強がっている。
もとより彼女は素直じゃない。自分が10代のときも、こんな風にモヤモヤとしたもの抱えていた気もする。
「それでも、ズルは良くない」
「ズルじゃないもん」
「せっかく自分で描いたのだから自分の名前で出さなきゃ。みんなそうやって頑張ってるのに、自分だけが借りたもので発表したら、何が何だか分からなくなるじゃない」
「……」
彼女は顔をしかめて押し黙った。
私は、あえてそのままにして、少し待ってみることにした。頭の良い彼女のことだ、私の言いたいことは分かっているはず。
鏡に映る可愛らしい顔は、まるで窒息に苦しむように歪みはじめて色が変わりはじめた。そろそろ限界かな、と思った矢先に、ぽつりと彼女がつぶやいた。
「……さい」
小さなかすれ声だ。
「ごめん、なさい」
「ええ」
そうね。ギリギリだったけど、素直でよろしい。
彼女は頑固者ではあるけれど卑怯というわけではない。そこは腐っても——腐らせたのは私だけど、公爵家の令嬢だ。プライドもそうだが気位も高い。
「勘違いさせた皆さんには、お義母さまから言ってください」
「まぁ、そうねぇ」
……さて、問題はそれだ。
ちらり、とスマホに視線を落としてTwitterのリツイートの激流を見る。
すでにもの凄い話題になってしまっている。
私は伊達に「池袋のお腐くろさん」などと呼ばれているわけではない。若い頃から色んなサークルさんの作画アシスタント、はてはイベントの運営にまで携わってきた。なので、この界隈に友達は多い。その中には商業デビューをはたし、今や大先生と呼ばれるような人もいる。
そんな大先生が「お腐くろさんがヤオイ出すの? また、懐かしいわね。絶対に買うよ〜。10冊くらい」などとリツイートすれば、根っから腐った友を呼び集めて、すでに芋づる大豊作だ。
私のことを知らない人も「今、もの凄いバズっているけど、この人そんなに有名なの?」「あの先生がオススメなら買わないと」などと言いだす始末。
この上がりに上がってしまったハードルは、すでに「嘘でした〜☆ 私が描けるわけないじゃないですか〜。それより先生の続編、お待ちしてます」なんて言って誤魔化せるレベルではなくなっている。
さぁ、どうする?
「……レヴィアちゃん、原稿は?」
「えっ、」
「貴方が描いた原稿よ」
「よ、読んでくれるの? え〜と、ソーヤの部屋にあるわよ。机の一番上の引き出し」
やけに宗谷の部屋が汚れていたと思ったら、レヴィアちゃんが作業部屋として使っていたようだ。
廊下を小走りに進んで、宗谷の部屋の中に入る。その机の上には、インクやホワイト、ペンの類が脇にまとめられていた。一体、どこから手に入れのか。
すぐに机の引き出しを掴む。
初めて描いた作品だ。おそらく、比較的簡単な四コマ程度のものが6枚くらいだろう。
だったら大丈夫だ。なんとかなる。
下手な私が昔を懐かしんで久しぶりに描いてみたけれど、やっぱり下手だったね。みたいな感じで、20冊くらいコピペして無料で配ってしまえばいい。買うと言ってくれている友達や先生たちは、あくまでもお付き合いのご厚意なのだから、後で郵送しておけばいいだろう。それで角は立つまい。
……うん、我ながら完璧な作戦だ。名付けて「やっぱり私って下手だったね。てへぺろ作戦」。
さぁ、そうと決まれば逆に楽しくなってきたわ。見せて貰おうか、レヴィアちゃんの処女作を!
えいっ、と引き出しを引いた。
確かな重量感の手応えと、ガサリと紙の山が崩れる音がする。
引き出しの中からは、積み上げられていたその原稿用紙の山が崩れて、表紙絵と初めの数ページが覗いていた。入稿前の原画だ。今時のデータ入稿じゃない……。その枚数、ざっと目算で50ページ。
って、ご、50!
お、おおお、おちけつ。おちつけよ、私。深呼吸してまずは落ち着け、予備のコピーでかさ増しの可能性。ま、まだワンチャンあるし。
親指で原稿束を弾いて、パラパラと流す。枠外のノンブル番号が、徐々にその数を増やしていく。
10……、20……、30……、40……。
……48ページ。
48ページも、描いてしまったのか。
……うっ、うん。
初めてなのに、48ページも描けるなんて、本当にすごいわ。
そ、それに、ちゃんとノンブルをつけている。これなら印刷所に頼んでも業者さんが困らない。っていうか、ノンブルつけているってことは、印刷所に製本を委託するつもりだったのね。
初めてなのに、ちゃんとしてるじゃない。や、やるじゃない。
……てへぺろ作戦は、無理ね。
この原稿はある種のオーラをまとっていた。
初心者が放つ独特のオーラだ。それが異臭を放って、私の鼻をひくひくさせている。ありあまるリビドーを原稿に叩きつけた感じが漂っている。
ぺらり、とページをめくってみる。
ああ、予想どおりだ。1ページ目から小難しいげな世界設定と専門用語が並んでいる。何だ。
しかもだ。ページが進むにつれてキャラの絵がだんだん上手くなっていく。いわゆる、マンガのストーリーと作者の成長を同時に楽しめる作風だ。
そういうの、本当は大好きなんだけど……。
「ねぇ、ねぇ、お義母さま」
「えっ!? あ、はい。なにかしら」
突然、声をかけられて振り返ってみれば、姿見の鏡からレヴィアちゃんが目を輝かせてこちらを覗き込んでいた。
「どう? どう? お義母さまの目から見て、私の原稿はどう?」
「そ、そうね。……まだ、ちゃんとは読んでいないけれど」
原稿の序盤をもう一度確かめる。
初心者特有の設定の痛々しさは、まぁ、通過儀礼みたいなものだ。置いておこう。
う〜ん。……初心者にしてはよく描けていると思う。
確かに、トーンや背景が少ないせいで読み味が淡白だし、キャラ絵が安定しないから違和感がある。だけど、コマ割やセリフ窓の配置といった構成がしっかりしていて、読み進めやすい。マンガとしての体裁は守れている。
頭の良い彼女のことだ。読み手の視線の動きに合わせた、シーンの配置、セリフの量、コマ間の緩急といった設計にはもともと才能があったのだろう。
昔の私は、こういうパズルみたいなのがどうしても出来なくて諦めてしまったなぁ。
「コマ割が丁寧でとても読みやすい。初めて描いたとは思えないわ」
「本当に? ありがとう! ネームとかコマ割とかはWebで色んな人のを研究してがんばったの。安心したわ〜。本当にがんばったのよ」
「ええ、ちゃんとマンガになってる」
ただ、ちょっと背伸びしすぎね。
初めてのBL本。それなのに、これはオリジナルだ。
「本当は、二次創作から描き始めるのがオススメなんだけどね」
「そうなの?」
「ええ、原作ファンの人が読みやすいし、感想も貰えるでしょ。それに原作キャラを描くことでキャラの動かし方も勉強できる。そうやって、上手くなってからオリジナルに挑戦するのが今風かな〜」
「ふ〜ん、そうなんだ。それは知らなかった。でも、描きたかったものはオリジナルだったし」
そう、彼女は初心者なのにオリジナルを描いてしまった。
しかもエロ系じゃなくてストーリー系。いわゆる薄い本じゃなくて分厚い本。ますますハードルが高い。
さらに、ページをめくってみる。
話のスジは……、大好きな父親を亡くした男の子が、魔法で人形に魂を宿す。どんな時でも自分の命を守ってくれる人形。その親身な姿勢に男の子は徐々に亡き父親の姿を投影し、しだいに人形と愛を交わすようになる。
……そんな感じね。
これはまた、相当に闇が深いテーマを選んだわね。
「で、他には?」
「えっと……よく出来てはいるわよ」
「そう? 本当は初めの方のページを書き直したいの。その時は、キャラの絵がまだ安定してなかったし、それにもっと背景とか入れたい。そのためには、ペンタブとかデジタルとかももっと勉強するべきだと思う」
「ええ、そうね」
うん、やる気があるのはいいことだ。自分の次の課題もちゃんと分かっている。
このまま続けていけば、彼女はいつか描けるようになるだろう。今は無理でも、諦めなければいつかきっと。
……しかし、これを私の名前で発表するのか。
だって、魂を宿した人形と男の子の恋愛物語よ。
こんな、十代の、イガイガした年頃の、深遠を覗くような中二病的で、後から読み返すと自殺を検討するレベルの黒歴史マンガを、おばさんの社会的立場から世に投げ放つのよ。
絶対に肩壊すわよ。四十肩を甘く見ないで!
もうすでに、原稿を持つ手が震えて止まらないのだけど……。
「印刷の入稿締め切りもあるから、ね? お義母さま」
「ん?」
鏡の向こうのレヴィアちゃんが、両手を合わせて頭を下げた。
「だからお願いします。もうしばらく、入稿まで私と入れ替わってください」
「ちょ、ちょっと。待って」
「なに?」
「今、締め切りって聞こえたのだけど」
「ええ、参加することになったわ。即売会に」
あれ、もう試合は始まっていたの。
1球すらも投げてないのに、油汗がだらだらなんだけど。満塁の大ピンチなんだけど。
「って、どこのイベント!?」
「コミッケよ」
「コ、コミッケ!? えっ、ってことは冬コミ?」
「ええ。私、冬コミに出すの」
レヴィアちゃんは、なぜかドヤ顔で鼻をならした。
冬コミは年末に開催されている超大規模な即売会だ。ものすごい人でごったがえして毎年大変なことになる。
「サーチケは?」
と、反射的に聞いてしまった。サーチケは、サークルチケットのことで、冬コミの参加抽選に選ばれたら貰える。
「大丈夫、ちゃんと当選したわ」
「なっ」
「だからお願いします。どうしても、満足いくものを書き上げたいの。それに、500部刷るって約束しちゃったんだから」
「500!」
お、おう。若者よ、落ち着きなさい。廊下は走ってはいけません。
「刷りすぎよ!」
初参加がさばく量じゃない。印刷費用だけでも、ざっと見積もって10万円はする。
だめだ、早くこの子の暴走を止めないと……。
思わず姿見の鏡につめよって睨みつけるが、レヴィアちゃんは肩をすくめるだけで、けろっとしたものだ。
「大丈夫よ。全部はけるわ」
「500部っていったら、誕生日席スペースに配置されるような、え〜と、かなりの大手じゃないと在庫になっちゃうわ」
「だから、大丈夫よ。誕生日席スペースのサークルチケットを手に入れたから」
初参加で、誕生日席スペースだとぉ!?
冬コミでは人気サークルは行列を整理しやすいスペースに配置される。誕生日席は左右の空間に余裕があるため、中堅以上の実績がないと配置されないはずだ。
「どうして、初参加で、誕生日席なんて……」
「いや、それがね。参加申し込みをした後に、運営の人から連絡があったの」
「……はっ」
そこで、もしや、と思い当たる節があった。
コミッケの運営といえば、私の顔見知りばかりじゃないか。
「その運営の人がね。『お腐くろさんなら、壁スペースを用意しなきゃ。何部ですか?』って言ってきたのよ。私も最初は500なんて思ってなかったのよ。それで、100部だけですって伝えたら、『そんなのすぐに完売しちゃいますよ。お腐くろさんに挨拶する人だけで混雑するんですから』って」
「お、おう」
ちらりとスマホに目を落とす。
たしかに、Twitterの反響を見る限り100部だと少ないかもしれない。
「それでね」レヴィアちゃんが続ける。「その後、『運営としても、普通のスペースでは混雑になりますから、せめて誕生日席で。100とは言わず500くらいは刷ってくださいよ』って言われたのよ。最後に『運営一同も買わせて頂きますから、ストックよろしくお願いします』って」
ああ、なんだか、もう、腰が抜ける。
へたり、とそのまま床に座り込んでしまって、レヴィアちゃんを見上げた。若さゆえの行動力の塊。こんなのに、枯れたおばさんに勝てるわけがない。
「ねぇ、お義母さま?」
「なに」
「もしかして、お義母さまって、すごい人だったの?」
はぁ、とため息をでた。
「いいえ、ものすごいのはレヴィアちゃんよ」
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