【短編】花明かり
カブ
第1話
この桜並木を歩くのは何度目だろう。三寒四温を抜けた春爛漫の陽気を、智恵子と、肩を並べて歩いていた。
「わたし、妊娠したみたいよ」
と、唐突に口を開いて、智恵子はいった。
立ち止まって智恵子をみると含み笑いをしていた。いつもより目が妖艶にみえるのは、春の光に包まれているせいかもしれない。
「赤ちゃんか」
と俺はいった。桜の花びらが、真っ白な背景に立つ智恵子と俺の間を何枚も何枚も落ちていった。
「あたりまえじゃない。カエルの子でもできたと思った?」
それもそうだ、と俺は思った。
俺はぽけっと智恵子をみていた。智恵子もだまって俺をみていた。桜の花びらみたいな目だ。
「いつごろわかった」
「昨日」
「そうか」
「妊娠検査薬ででたの。その後病院に行ったら、やっぱりそうだって。三週間だって」
俺は一呼吸をおいて、
「わかった」
といった。俺たちはまた歩き出した。
その次の日の昼下がり。二人で飯を食った後だった。まだ洗い物が台所に残されていた。
俺はこのボロアパートの部屋の今にもとれそうな引き出式の窓をあけてタバコを吸いながら、アパートの脇に咲き誇る桜並木をぼんやりと眺めていた。花びらが一枚一枚はがれ落ちている。
ふと、後ろの智恵子に目をやった。智恵子、というより、その腹にいる赤ん坊に目をやった。まだ膨らんでいないその腹に本当に赤ん坊なんているのかと思ってしまう。でもいるのだ。智恵子と赤ん坊だけが当事者で、父親になる俺だけが蚊帳の外だ。もっとも腹の外といったほうがお似合いかもしれない。
肝心の智恵子はといえば、シミのついたたるんだ畳に座布団をしいて、足を崩して座り、顔を強張らせて人差し指を点々と畳の境目あたりに押し付けていた。
「なにをやっているんだ」
と俺は聞いた。すると智恵子は、
「シラミを潰してるのよ」
と答えた。俺は首をひねりたい気持ちだった。
「シラミなんているのかよ」
「いるわよ、こんなにボロボロのアパートだもの」
「みえるのか」
「みえないわよ」
「みえないならいないじゃないか。シラミはみえるものだよ」
「みえなくてもいるものはいるわよ。畳の下に巣を作ってきっと生きてるわ」
それはダニじゃないのか、と思いもしたが、あまりにも智恵子が真剣な眼差しで耽っているものだからいわないでおいた。
俺は立ち上がって食器の洗い物を始めた。洗い物をしながら智恵子の背中をみた。その背中の裏側に赤ん坊がいるのだと思った。
その夜のことだった。
俺は激しいかゆみで目が覚めた。全身がかゆかった。
「うぉぉ、かゆい、かゆい! シラミだ、シラミだ!」
寝ぼけながらも全身をかいた。二本の手じゃ足りないくらいだ。
「智恵子、すまん、虫さされの薬はどこだ。かゆくてたまらないんだ」
俺は電気をつけた。隣で寝ていたはずの智恵子の姿がなかった。一瞬、かゆみを忘れかけたが、ぶり返して、部屋中を探して、みつけた薬を全身に塗った。
俺はまだ全身をかきながら、智恵子の姿を探した。トイレにはいなかった。ふと窓の外に目をやると、桜並木の車道の真ん中に人影があった。智恵子だ。暗がりでよくみえないが、直感でそう思った。
俺はドタドタと階段をおりて、人影のほうへとむかった。智恵子だった。
「どうしたんだ。危ないじゃないか、夜にひとりで、こんな道の上にでちゃあ」
智恵子がこちらを振り返った。相変わらず妖艶な目をしている。街灯もない暗がりに、ぽっかりと目だけが浮かんでいるみたいだ。
「心配して来てくれたの?」
「そりゃあ心配したさ。夜起きたらお前の姿がどこにもないんだから」
「そうなんだ」
智恵子は俺から目を離して、闇に佇む夜桜に視線を移した。
「トイレで目を覚ましたんだけど、窓の外にみえた夜桜がふと目にとまってね。近くでみたくておりてきちゃったのよ」
俺も桜に目をやった。闇にうっすらとみえる桜は、どこか不気味だった。あるはずなのにないような、でもはっきりとそこには風にたゆたう桜が存在するのだ。
智恵子は、まだ膨らんでもいない自分の腹をさすりながらみていた。俺も、その腹の奥にあるものをみるように智恵子の腹をみていた。
「体が冷えるから、もう家に入って、あたたかくして寝ろよ」
智恵子は、含み笑いをして、あの艶っぽい目でまた俺をみた。俺はごくりとツバを飲みこんだ。
部屋に戻りながら、智恵子に聞いてみた。
「明日の夜、なにが食べたい? お祝いしようよ」
智恵子は口元に手をあてて、少し考えてから、
「お鮨とステーキ、それからフライドチキン」
といった。
「それじゃあファミレスになっちまうぞ」
といって、二人で笑いながら部屋に帰った。
窓の外をみると、桜も笑うように風に揺れていた。
了
【短編】花明かり カブ @kabu0210
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