第35話 過去ー薬学府編3
念のため、と先生たちに言われたとおり、中和液を染み込ませた布で、鼻と口元を覆う。
「ねえアリス」
「なあに?」
「この花の幻覚症状さ。本当になるのか、体験してみたいんだけど」
「え、ダメだよ!! 危ないものだったらどうするの?!」
「それならなおさら、誰かが体験しておかないと」
キラ、とクートの緑色の瞳が月の光を受けて輝く。
「それなら私のほうがいいよ。座学の試験もクートのほうがいいんだから、何かあっても対応できるじゃない」
「残念ながらその案は却下だなぁ。立ち位置が兄な僕としては絶対にうなずけない意見だよ」
「いつからお兄ちゃんに」
「結構前からかな? それに、臨機応変な対応、っていうなら、僕よりもアリスのほうが試験の点数は良かっただろう? 今日の昼間にもそんな話をしたばかりじゃないか」
「あれは机の上での、紙の上での話でしょう? それにクートがあの試験の点数が他の教科よりも低いのは、考えすぎて答えを絞れないだけじゃない!」
「…………おや、気づいていたのかい?」
「気づいてるに決まってるでしょう? ずっと一緒に勉強してきてるんだから」
むう、と頬を膨らませながらそう言えば、クートはぱちり、と瞬きを繰り返したあと、そうか、と静かに笑う。
「うん。やっぱり、アリスには、それ、着けててもらわないと」
それ、と私の口元の布を指差しながらクートは言う。
「だから」
「僕はね」
幾つかついている蕾に触れながら、クートは言う。
「気づかれていないと思ってたんだよ。そのことに」
「え……?」
「誰にも気づかれていないと思ってた。上手く隠せている、って思っていたからね」
「……クート……」
「だから、そんな僕を見破ったアリスには、きちんと物事を見てて欲しい。きっと僕では見落としてしまう何かを、アリスなら見つけられる。そんな気がする」
そう言って、クートは笑う。
「それに、実は、中和剤の原液も持ってきてたりするんだよね」
「え」
フフフフフ。
腰につけていた小さな鞄から、小さな瓶を取り出して、クートは怪しげに笑う。
「……もう、準備万端じゃない」
「あはは、ごめんね。アリス。でも、どうしても気になってね」
「…………意識飛ばすようなことがあったら、冷たい井戸の水、顔にかけちゃうからね!!」
頬を膨らませながら言えば、「ごめんごめん」とクートは楽しげに笑う。
クートの手から、私の手に原液の瓶が置かれた時、プチッ、プチッ、と小さな音が聞こえてくる。
「今の音」
「開花するかもしれないね」
置いておいた鉢へと駆け寄れば、やっぱり蕾が少しずつ開こうとしているらしい。
顔を見合わせた私たちに、ほんの少しの緊張が走る。
少しずつ、少しずつ、蕾が膨らんでいく。
そして、月の光を浴びた蕾が、「パンッ」と小さな破裂音をたてて、開いた瞬間、甘い香りが周囲に立ち込める。
「う、わ……」
匂いが濃くて、鼻の奥がツンとして、くらくらする。
「アリス」
ぽん、と肩に置かれた重みと声に、クートを見やれば、幼馴染は、口元の布をゆびさしている。
「外すよ」
そう言って、クートが腕を頭の後ろにまわした時、ガサッ、と何かの音がする。
「?!」
「誰だっ?!」
バッ、と音のした方向を見やれば、見覚えのある人の姿。
「エリー?! なんで此処に?!」
「お前こそ、毎晩コソコソと何をやってるんだ? 知ってるんだぞ、ここ最近、いつも夜に出かけてること!!」
少し離れたところから、こっちへと近づきながら捲したてるように言いながらエルンストが歩いてくる。
「ばっ、エリー! そこで止まれ!」
「はあ? お前に指図される謂れはない!」
「や、そうじゃない、エリー、今は」
突然あらわれたエルンストに、慌ててクートが止まるように声をかけても、怒っているエルンストは、まったく話を聞かず、ダスダスダスダス、と力を込めながら歩いてくる。
「エルンスト、今は危ないかもしれなくて!!」
「な、やっぱりアリスもいるのか!」
クートしか見えていなかったらしいエルンストが、私を見て、ほんの一瞬、歩みを緩める。
私たちのところまで、あと少し。
そんな距離に、エルンストがたどり着く、と同時に、私の背後から、「パンッ」「パンッ」と複数の小さな破裂音が響く。
「あっ」
「っ!!」
「だいたい、アリス、君も君で、こんな夜中、に、こん、な」
ぶわっ、と広がった甘い香りのあと、エルンストの動きが止まる。
「しまっ」
「アリス、そこから絶対に動かないように、いいね?」
「でもっ」
「大丈夫。それから、中和剤、貸してくれる?」
私を見ないまま、クートは、私の前に立ち、手のひらを向けながら言う。
見えるのは、私たちを指差したまま止まっているエルンストと、そんな彼を真っ直ぐに見るクートの背中。
きゅ、と手のひらの瓶を握りしめたあと、クートの手に、瓶を託す。
「クート、何を」
「大丈夫。たぶん、すぐに気がつく」
そう言って、クートはエルンストに向かって駆け出す。
直後、突然動き出したエルンストが、クートへと掴みかかった。
「クート!」
ガッ、と腕を掴まれたクートが、体勢を崩す。
そんなクートにエルンストの腕が容赦なく伸び、クートが殴られる、と思った瞬間、エルンストの身体が宙に浮く。
ドサッと音を立て、エルンストが地面に落とされる。
「かはっ」
苦しそうな声を吐き出した彼に、クートがふう、と小さく息をはき、手をおろす。
そして、クートが自身の口元の布を外し、瓶の蓋に手が触れた時、エルンストの身体が動く。
それは、ほんの一瞬の出来事で。
上体を起こしたエルンストの手が、クートのローブを引っ張った。
そして、そんなクートに、エルンストが腕を振り上げた時、ドスッ、という音とともに、二人が同時に地面へと倒れ込む。
気がついたときには、クートが口元につけていた布は、エルンストの顔に押し付けられていて。
「クート! エルンスト!」
動きが止まった二人に、駆け寄りながら名前を呼べば、クートの腕があがる。
「大丈夫?!」
地面に倒れたまま動かないエルンストと、彼の横に座り込んで顔に布を押し付け続けているクートに近づけば、「大丈夫」とクートが苦笑いを浮かべる。
「エルンストは」
「倒れたときに意識飛ばしただけでしょ。大丈夫」
「そう……」
ほっ、としながら、二人のそばにしゃがみこめば、「アリス」とクートか私の名前を呼ぶ。
「なに?」
「悪いんだけど、水、持ってきてくれる? ちょっと多めに」
「水? なん、で」
クートの言葉に、彼を見やれば、片手を顔にあてながら、クートは言う。
「クート、もしかして」
「ちょっと、失敗した、かな」
そう言ったクートの、左頬と、左手が濡れていて。
ちらり、とクートの視線が動いた先に見えたのは、地面に転がる蓋のあいた、小さな見覚えのある瓶。
「っ、待ってて、すぐ戻るからっ!!!」
「ん」
一瞬にして、何が起こったかを理解し、水汲み場へと駆け出す。
「薬液が、入った場合は、とにかく洗うっ」
綺麗な水、流さないと。
温室の入り口の湧き水を、水桶に汲んで走る。
ー 中和剤だからと言って、甘く見てはいけません。みなさんが扱うものは、あくまでも薬液。薬なんです。
先生の言葉が、頭をよぎる。
「クートっ」
大急ぎで幼馴染の元へと戻れば、エルンストはまだ意識を取り戻していないらしい。
「ああ、アリス、おかえり」
「クート、水、もってきた」
「うん、聞こえてる」
薬液で濡れている左頬から手を離し、クートは水桶の水で、ばしゃばしゃ、と自身にかけていく。
「……いっ」
「大丈夫?!」
「……ああ、うん。大丈夫。ちょっと染みただけだよ」
そう言って、髪と頬を濡らしながら、顔をあげたクートを見て、「っ!」と小さく息を飲む。
「アリス?」
「クート、左眼が」
「左眼? ああ」
クートの問いかけに、ほんの首を傾げたあと、クートは何かに納得したように頷く。
「薬務室、行かなきゃだめだろうね」
そう言って、濡れた髪をかきあげたクートの左眼は、見るからに痛そうなほど、赤く充血していた。
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