第2話
そんなある日いつものように鏡に向かうと、何かスイッチが入ったかのような感覚がありました。するとなんということでしょう。
鏡の向こうにはある女性の背中が見えました。その女性が振り返った瞬間、彼女は目を大きく見開きました。
私の赤ちゃんと叫びそうになりましたが、叫ぶのを踏みとどまりました。
なぜなら彼女の赤ちゃんはもう30代半ばを過ぎていて、とても素敵な女性に成長していました。
しかもその女性は赤ちゃんだっこしていました。赤ちゃんは母親そっくりな顔をしていて、無邪気に笑っていました。
彼女はまるまると目を見開きましたが、意を決すると突然目を閉じました。
その姿をしっかりと目に焼き付けて、いつでも鮮明な記憶として再現できるようにと思ったのです。
そうすればこの先どんなことがあってもずっと幸せでいられる。思い出せなくなった日々はどんなに辛かったことか。長く苦しい日々が彼女にそう選択させたのです。
彼女が目を閉じると大きな暗闇が出現しました。
その暗闇は他の暗闇を次々に飲み込み、更に大きな暗闇になりました。大きくなった暗闇は回転しはじめました。
最初はゆっくりでしたが、次第に速度が上がると閉じ込められていた色彩が展開し始めました。
彼女の体は空中に浮かび上がり、無数の色彩が彼女に流れ込みました。それはそれはものすごい量の幸せが彼女を満たしていきました。
ところが年老いた彼女の体はものすごい量の幸せに持ちこたえられなかったのです。彼女は目を閉じたまま息を引き取りました。
彼女の葬儀の日、旦那さんは弔問客を出迎えました。彼女が亡くなっても旦那さんはいつもと変わらず、穏やかな表情を浮かべていました。
彼女の弟は旦那さんに皮肉をいいました。
「あなたはいつもそうですね。この期に及んでも」
旦那さんは答えました。
「私はもっと悲しむべきかもしれません。でも彼女の死に顔を見てください。
微笑んでいるでしょう。こんな幸せそうな死に方があるものでしょうか」
彼女の弟が奥さんの死に顔を見ると、確かに笑顔を浮かべています。
とても幸せそうに見えます。
「彼女は年をとりましたが、この笑顔はまるで出会った頃の彼女そのままです。この笑顔が私の悲しみを和らげてくれるのです。
きっと彼女の最後のプレゼントなのでしょう」
「私は何度も忠告しましたが、姉は幻に振り回されて一生が終ってしまいました。そんな姉と結婚して、あなたは幸せだったのでしょうか」
「おとぎ話では2人が結婚したらハッピーエンドかもしれません。しかし物語はその後も続きます。
私は結婚式で彼女を幸せにすると宣誓をしました。今考えると私は若すぎて、それがどういうことかよく分からないまま誓っていたのです。
私達は結婚して一番最初に2人で使う為の紅茶ポットを買いに行きました。
彼女の意見を聞き、2人で選びました。大切に使っていたつもりでしたが、数年前からひび割れが出てきました。
完全に割れてしまうといけないので、今では少し冷ましてからお湯を入れています。買いなおせばいいかもしれません。でもそういう気にならないのです。
どこが良くてそのポットを選んだのか、それすら思い出せなくなりました。でもずっと使っているうちにどうしても手放しがたくなってしまったのです。
今ではもうひび割れがあってもなお、いとおしい。
一緒に過ごした時間や楽しい思い出は決して失われません。
私はこれからもそのポットと一緒に過ごしていくでしょう」
夜の住人の話 水野たまり @mizunotamari
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