夜の住人の話

水野たまり

第1話

 昔、昼の世界の鏡の向こうにはもう一つの世界がありました。その世界にはブリキの人形はいません。


 昼の世界と同じように、夜の世界の人が普通に暮らしていました。


 違いは夜の世界は暗闇に包まれた世界ということです。

 

 でもそれは昼の世界の人から見てそう見えるだけで、夜の世界の人は自分の世界が暗闇の世界とは思いません。


 実は暗闇の粒子は高速で回転しています。

 

 とても早く回っているので、回っていることすら感じさせないぐらいです。その高速回転によって無数の色彩を閉じ込めているのです。


 夜の世界の人は暗闇の粒子が回転する時に出す周波数に波長を合わせることができます。その波長が合うと暗闇から無数の色彩が展開されて出てくるようになっています。


 色彩は光を伴って展開されます。そうすると暗闇は暗闇ではなくなって、空間を光と色彩で満たしていくのです。


 だから波長を合わせることができる限りは、夜の世界の人にとっては昼の人達が言うような意味での暗闇ではありません。


 しかもその色彩は人に多幸感をもたらしてくれます。


 彼らにとって幸せは探さなくても、常に周囲にあるものでした。空気のように自分の外には無限にあって、意識しなくても自分の中を満たしてくれる。そういうものでした。


 昼と夜、どちらの世界に生まれるかは生まれる瞬間に決まります。生まれる瞬間に光を怖がれば夜の世界に生まれます。


 元々胎内の暗闇に慣れている赤ちゃんは暗闇は恐れることはありません。

 

 むしろ胎内の暗闇は赤ちゃんを安心させ、幸せな気持ちにさせてくれるのです。赤ちゃんは暗闇の周波数に合わせることができるからです。


 一方それほど光を恐れない赤ちゃんは昼の世界に生まれてきます。


 生まれる前に赤ちゃんは暗闇で手を握りしめ、自分を満たしていた幸せの一部を持って生まれようとします。

 

 でも生まれた瞬間に外の世界に驚いて、握っていた手を開いてしまうと、幸せは空中に放たれてしまいます。


 昼間に生まれた赤ちゃんは幸せの欠片を再びその手に入れるまで一旦手放さなければいけません。

 

 てのひらから逃げてしまった幸せの欠片を、探し求める人生を歩むことになるのです。


 夜の世界に1組の夫婦がいました。

 夫婦はとても仲が良く、幸せに暮らしていた。


 その幸せの絶頂にある時、奥さんが赤ちゃんを身ごもりました。夫婦は毎日指折り数えて、赤ちゃんの誕生を心待ちにしていました。


 ところがある日、陣痛が始まり病院に向かう途中で、陣痛がぴたりとおさまりました。しかもお腹も元の大きさになっていたのです。


 病院で調べてもらったところ、赤ちゃんは昼の世界で生まれたのではないかと言われました。


 実は夜のお母さんの胎内は昼の違うお母さんの胎内に繋がっていることがあるそうです。

 

 普通は夜の世界で妊娠したら夜の世界で生まれますが、何かの拍子に昼のお母さんの胎内に行ってしまうことがあるとのことでした。


 奥さんは思わず叫んでしまいました。私の赤ちゃん。


 奥さんはショックのあまり体調を崩してしまい、次第に暗闇の周波数に合わせることすらできなくなりました。彼女は暗闇の中で過ごすようになりました。


 そんなある日、失意の奥さんが誰かに呼ばれているような気がして鏡を見たところ、鏡の向こうに自分が産むはずだった赤ちゃんが見えました。

 

 本当にその子かどうかは誰にも分からないはずですが、奥さんはそう確信したのです。


 奥さんは喜びのあまり叫んでしまいました。私の赤ちゃん。


 それから奥さんは毎日鏡に向かってばかりいて、赤ちゃんの成長を見守りました。すくすくと育って、まるで自分が育てているかのようでした。


 彼女は旦那さんに赤ちゃんのことを熱心に話し、旦那さんはその話をにこにこして聞いていました。


 しかしその後、赤ちゃんの家庭に何か問題が起こったのか、赤ちゃんの笑顔がめっきり減ってしまいました。泣いていても放置されたままです。


 奥さんはいてもたってもいられず叫んでしまいました。私の赤ちゃん。


 奥さんはまたおかしくなってきて、暗闇の波長に合わせることができなくなりました。

 

 毎日、鏡の前に座って待ちましたが、彼女の赤ちゃんは出てこなくなりました。映るのは打ちひしがれた表情をした自分の顔だけです。


 奥さんの弟はそんな姉の様子を見て、姉を厳しい言葉を浴びせました。

 

 しまいには旦那さんに離婚を勧めましたが、旦那さんは意に返す様子はありませんでした。旦那さんはいつも穏やかな人でした。


 彼女は毎日ただひたすら鏡を見つめ、必死に赤ちゃんを探しました。それから長い年月が過ぎて、奥さんは年老いていきました。


 長い年月が過ぎて、もう赤ちゃんの姿すら思い出せなくなくなりました。

 

 一目だけでもいいから、もう一度赤ちゃんの姿が見たい。その思いだけが彼女を突き動かしていました。

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