第六話 逃避行
朝のまどろみの中、ベッドで惰眠を貪る僕の耳に、ドンドンドン……と乱暴にドアを叩く音が聴こえてきた。
「誰だよ……」
ベッドの脇に置いた携帯の時計を見ると、まだ七時前だ……。
「冗談じゃないぜぇー」
イラストレーターの僕は完全な夜型人間である。
朝は十時より早く起きたことがない、こんな僕になんという乱入者! 憤慨しながらドアを乱暴に開けて怒鳴った。
「誰だっ!?」
「わ・た・し」
満面の笑顔で彼女が立っていた。
「嘘だろう、何でこんな朝早くから……」
ぶつぶつ言いながら、彼女を部屋に通した。
低血圧のため、朝は元気が出ない僕……。
今朝は彼女にコーヒーを淹れて貰う。僕は熱いブラックコーヒー、彼女はいつもの薄温い牛乳割りのヘンテコなコーヒー。
「ねぇーねぇー、あのさぁー」
「なんだよ!」
いきなり朝早く起こされて不機嫌な僕はブスッとした顔で応える。そんな僕の態度を気にする風もなく、彼女はやたら楽しそうだった。
「一緒に旅に出よう!」
「えぇーっ!」
飲んでいたコーヒーを思わず噴きそうになった。彼女はいつだって突拍子もない。
「あのさ――温泉に行こうよ」
「急になんだよ」
「温泉いきたい! 温泉いきたい!」
「……温泉かぁー」
彼女の口から何度も発せられた『 温泉 』という言葉に少しそそられる。ふたりで旅行もいいかもしれない。
「うん。それでどこへ行く?」
「あのねぇー、山奥に『 ランプの宿 』っていうのがあるんだって。そこへ行ってみたいの」
うきうきした顔で彼女がいう。
どうした訳か――今日の彼女はテンションが高め。こんな楽しそうな彼女を見るのは久しぶりかな?
まるで子どもが《遊びましょう》って、家に誘いにきたみたいだ。無邪気な彼女の態度に思わず笑みが零れる。
「よし、行こう!」
「わーい」
パソコンで『 ランプの宿 』を検索して、宿の予約と行き先の路線を調べてから、僕らは旅立った。
――それは、
【 L et's try!】
ねぇ 深呼吸したら 風の色が変わったよ
眠っていた サナギが目覚め始めた
わたしを揺り動かす うねるような焦燥感
何か 新しいモノを求めて 『 L et's try! 』
ここには もう留まってはいられない
広げた地図をたたんだら 旅立ちの準備
あのね あなたがそっと教えてくれた
秘密の暗号 今も心の中で解いているよ
優しかったあの人 ずっと忘れないから
だから みんなにバイバイって手を振るよ
たんぽぽの綿毛たち 一緒に連れて行って
小さな温もり抱きしめて わたし旅立つ
『 求めよ、さらば与えられん。
尋ねよ、さらば見出さん。
門を叩け、さらば開かれん。 』
新訳聖書 「マタイによる福音書」より
主よ あなたの言葉を信じます!
わたしは その扉を何度も叩きます
何度でも 何度でも 『 L et's try! 』
僕らは幾つもの電車を乗り継いで、どんどん都会から遠ざかっていく――。
行き着いた山奥の駅から一日三本しか出ないバスに乗り継いで、ついに目的の『 ランプの宿 』へ向かおうとしている。
バスの乗客は彼女と僕のふたりだけ、まるで貸切バスが僕らを遠い世界へ連れ去って行くようだ。
僕らはまるで逃亡者にでもなった気分だった!
渓谷沿いの険しい山道をバスはどんどん登っていく。ガードレールもなくタイヤがスリップしたら谷底へ真っ逆さま、舗装もされてない山道なのでバスは大きく左右に揺れる。遊園地の絶叫マシーンより、よっぽどスリルがある。
彼女は怖いのか? 僕に腕を絡めてぴったりと寄り添っている。
密着する彼女の肉体から女の匂いが立ちのぼって……劣情をそそられたが……そんな自分を抑えていた。
焦るな! この旅のあいだ、彼女は僕だけのものになる。
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