第三話 愛の賞味期限
まあ、落ち着いてから家に帰った方がいいと思うので、もう少しだけ彼女の話を聞いてやることにした。
「夫はわたしを家の中にある家具くらいにしか思っていない。そうテーブルや椅子みたいに……ないと不便、ないと体裁が悪いから、だから置いているだけ……」
「それでも必要とされているなら、それで良いじゃないか」
「わたしは家具じゃないわ!」
「…………」
「いつだって夫は、わたしの心を見ようとはしない。いつも知らんふり、わざと無視して……もう諦めているけれど、一緒に暮らしていてもお互いに分かり合えない。孤独で不安な毎日がいつまで続くんだろう。もう疲れたの、こんな虚しい結婚生活に……」
夫への愚痴をぽつりぽつりと喋る彼女――。
夫婦げんかの原因をきちんと話さないから、どちらが正しいのか、判断が出来ずに僕は困っていた。
相変わらず、論点の反れたことしか言わない女だから、夫という人の苛立ちも分からなくはないか。
人って 悲しいね
嫌なことでも
諦めてしまえば 慣れてくる
そうやって 心が死んでいく
空っぽの心が泣いている
生きるって 悲しいね
「――そんな不満ばかり言っても仕方ないよ。お互いに歩み寄らなければ……一緒には暮らしていけないだろう」
「……うん」
納得できない顔で彼女が頷く。
「夫の庇護の元で暮らしてる専業主婦なんだし、ちょっとは我慢したら……」
「わたしは夫の所有物じゃないわ!」
「いや、そういう意味じゃない」
「心があるのよ、今の生活には心の居場所がないの」
自分ひとりが不満みたいに彼女はいうが……先日の仲睦ましい買い物風景を思い出しても、そんな悲惨な結婚生活を送っているようには見えなかった。
すぐに女は自分だけが被害者みたいな顔をしたがる。
「……じゃあ、君はどうして夫を裏切っても平気なのさ?」
僕の問いかけに彼女は一瞬、はっと息を呑み瞳を強張らせた。
「心を踏みにじっているのはお互いさまじゃないか、君ら夫婦は……」
ずいぶん意地の悪い言い方を僕はしている、分かっていてわざと言ってしまった。
「……そうね。わたしも悪いことは分っています」
怒り出すかと思ったら、素直に自分の非を認めたので拍子抜けしてしまったが、言うて、この僕も共犯者である。
左の薬指の指輪をいじりながら、ぽつりと彼女がヘンなことを言いだした。
「愛にも賞味期限ってあるのかなぁー?」
【 賞味期限 】
冷めてしまったスープを 温めなおしても
出来立ての あの美味しさが戻らないように
冷めてしまった愛は 心が凍えるだけ
賞味期限切れの愛を捨てられない わたしは
イライラをつのらせて 相手を攻撃する
あら探し 皮肉 嫌味 言葉のナイフを振りかざす
優しさが切れた愛は もはや凶器なのだ
冷めたスープも 賞味期限切れの愛も……
捨ててしまうしか ないのだろうか?
再び、ベッドに横たわり、なかなか帰ろうとしない彼女に少し苛立ってくる。
「自分の存在を愛しんでくれる人と暮らすのが……それが愛だと思う」
「どうして愛ばかり欲しがるのさ」
僕にとって『 愛 』という言葉は口にする度、ほろ苦い。
「愛は生きていくための栄養、それがないと心が痩せてゆく」
「君は欲張りなんだよ」
「違うわ。ささやかな願望よ……愛のない人生なんか……わたし、生きてる意味がない」
彼女は吐き出すように呟いた。
「そういう君は誰かを真剣に愛したことがあるのか? 僕はある。その結果、愛が信じられなくなった」
もう顔も忘れてしまったが、部屋を出ていく女の後ろ姿だけがこの目に焼き付いている。
「わたしは、ただ……」
「……ただ?」
「ちゃんと女として愛されたいだけなの!」
【 イヴ 】
わたしのナーヴァスをあなたは知らない
胸の奥に巣食う腫瘍から
躯中に毒が廻る
身悶えするような熱情が
不完全なわたしに火を放つ
赫い林檎を食べた日から
この身に孕んだ
情欲という炎の架刑
それは愛だと思っていた
それを愛だと信じていたのに……
女の肌に纏わりついたのは
一匹の毒蛇だった
誰のものにもならないわ
心を縛る鎖なんかいらない
自由に生きる
― わたしはイヴ
『 おんな 』という女 ―
「もう帰りなよ。旦那も、今頃はきっと心配しているさ」
優しく肩を抱いて、言い聞かせたつもりだったのに、突然、僕の手を振り払って彼女は激昂した。
「分かったわよ! 迷惑だったら帰るからっ!」
「迷惑なんて言ってない! 今日のところは帰った方がいいと言ってるんだ!」
いきなり枕が飛んでくる。
「冷たい人ね! 女をセックスの道具だとしか思ってないの!?」
さすがに、その言葉にはブチ切れた!
「ああ、そうだと言ったらどうなのさ? 愛なんか信じるものかっ! 僕のところを夫婦げんかの避難場所に使わないでくれっ!」
強い口調できっぱりと言った。
「…………」
その言葉に彼女は沈黙し、僕は机に向かって仕事を始めるフリをした。
「ごめんなさい」
消えそうな震える声で謝った。
しょんぼり項垂れて……泣いた顔を洗面所で流してから、帰る支度をすると、黙って僕の部屋から立ち去った。
――その後、僕も項垂れて……。優しくない自分 に自己嫌悪していた。
あんな風に帰っていった彼女は、傷ついて、もう二度と僕の部屋には来ないだろう。嘘でもいいから優しいフリをしてやれば良かった。
しょせん彼女にとって僕はセフレ以上、それ以下でもない。
いつだって本音で物を言う僕は冷たい人間かもしれない。『 夫婦げんかの避難場所 』それでも……ひと時の優しさを求めて、僕のところに逃げ込んてきた彼女に、ひどい言葉を浴びせて、帰らせるべきではなかった。
ああ、僕という人間はなんて薄情者なんだ。
【 針金の未来 】
針金の先端の尖った針が
心に突き刺さって血を流す
薄い膜に覆われた半透明の未来
触れると壊れそうで怖い
漠然と広がる未来は
わたしをいつも不安にさせる
指先に沁み込んだ漂白剤のにおい
こんなもので何も消せやしない
やじろ兵衛のバランスは
微妙な沈黙で保たれている
心はゆらゆら揺れながら
心地よいバランスを探している
進むのが未来なら止まっている
今も未来の断片なんだろうか
誰も知らない未知のステージ
未来は針金のように曲げられる
『 針金の未来 』 まだ構築されていない
その隙間を夢で埋めていくんだ
I demand it!
The future to hope sometime is made
いつか 希望する未来が創られる
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