第31話 ラグランジュ軍港
舳先すら霞んでしまうほどの濃い霧が周囲を包んでいた。
(これが話しに聞く、
浅い眠りが醒めないまま、エルセス・ハークビューザーはぼんやりと思った。
いかん、何を考えている。彼女は頭を強く振ると、思い切り朝の冷たい空気を吸い込んだ。
霧が風に乗って流れるたびに、肌にさらさらとした感触があった。
「間もなく港だ。降りる準備をしてくれ、クロニクル」
船長が甲板に上がってきた。
「この霧で方角を間違えたりしないのですか」
冗談めかして訊くエルセスに、船長は腕組みをしてニヤリと笑った。
「俺たちは海の男だぞ」
霧が晴れると、そこには小さな港があった。
「……そうとも。俺たちは海の男だから、細かいことは気にしないのさ」
船長は同じ姿勢のまま言った。
「ええ。確かに、目的の港とは違うようです」
「ちょっと東へ流されたようだな。まあ、もう少しゆっくりしていてくれや」
高笑いしながら、船長は船の中へ入っていった。
さらに半日ほど海岸線沿いに進むと、巨大な桟橋を備えた港が見えてきた。セレン(漣国)が帝国から租借しているラグランジュ軍港である。その広大な入り江には、海岸に接して工廠や造船所が建ち並んでいる。今もちょうど新造船が海に向け送り出されている所だった。
これにはまだ艤装が施されていないため、セレン本国へ回漕しそこで武装や居住部分を仕上げて完成するのだ。
エルセスの乗った船はその巨艦の間を抜け、入港した。
☆
セレンの北部方面司令官、
帝国の政庁も軍港に接した街のなかにある。彼はその長官と談判しに行っているのだという。どうやら樹木の伐採でトラブルがあったらしい。
「帝国のやつら、これ以上木を切り出すのは許さんと言っているのです」
工廠の責任者が苦い顔で教えてくれた。
最近になって帝国側の様子がおかしいんです、とも言った。
エルセスは、ふうーっと息をついた。
いよいよ宮廷内の噂が真実味を帯びてきたようだ。
帝国は東の大陸へ侵攻を計画している。そのためには、まずセドニア内海の東半分を支配するセレンを攻撃するつもりなのだ、と。
「正気の沙汰ではない……」
小さく呟いた。
☆
「よお、エルセス・ハークビューザー。良く来たな。まあ、お前が来るというのは喜ばしい前兆ではないがな」
明るく、暁 白虹は笑った。
「人を疫病神みたいに言わないでください。あちこちで同じように言われて、私も気にしているのですから」
エルセスはその長身の男を見上げた。
「そうか。なら、お勤めご苦労。というところかな。では話しをしようではないか、二人きりで」
彼はエルセスを自分の部屋に招き入れ、人払いをした。
「そこへ座ってくれ」
部屋に入るなり、白虹は暗い表情になった。
「そこ、とはベッドですか」
白虹は苦笑いした。
「白炎のやつが何を言ったか知らないが、…いや、大体想像はつくけれども。そんなつもりは無いから安心しろ」
典型的な武人である鷲 白炎に対し、この暁 白虹は行政官の色合いが強い。もちろん彼も、セレン建国時や、帝国との戦闘において鮮やかな武勲をあげ、『セレンの双白』と並び称されているのだが。
「どうやら、お前も気付いているようだから言うけれど」
白虹はエルセスを見詰めた。その瞳には憂いの色が浮かぶ。
「帝国の連中は理性を失ったらしい。……つまり、戦争だ」
☆
海の王国セレンと陸上を支配する帝国。その接点であるラグランジュ軍港に緊張が走った。帝国の官僚たちは大きな荷物を馬車に載せ、帝都へ逃走し始めた。
暁 白虹は、あえてそれを追わせる事はしなかった。
このラグランジュ軍港の周辺には広大な森林地帯が広がる。その先は急峻な山地になることから、大軍の展開には適していない。おそらく、軍港とそれに隣接した市街地を囲む城壁をめぐる戦いになるだろう。
「海側は心配していない」
帝国の大海軍はもう過去のものとなっている。その多くは軍港の片隅で朽ち果てている。今更修理したところで、戦闘に耐えるものとはなり得ない。そもそも、海兵がいないのだ。にわか仕込みで動かせるほど船は簡単なものではない。
まして、それで戦闘行動など到底不可能だというのはエルセスにも分った。
「だが、この港を守るだけでは勝てないからな」
戦闘が延々と続くようであれば造船どころではない。そうなるとこの軍港の存在意義が失われるのだ。
「どこかで決定的に勝たなければならない。陸戦でそれが不可能なら……」
エルセスはここまで一言も発しなかった。
歴史に干渉してはならないというクロニクルの掟に逆らうことは出来ないからだ。
「幸い、帝都までは海路が使える」
帝都は内陸にあるイメージだが、運河のような深い入り江によって内海と繋がっている。
セレン海軍が入り江を埋め尽くす様を想像して、エルセスは表情を固くした。帝都の入り口にある港には彼女の大事な友人がいたからだ。
(リスティ……)
その途端、エルセスの頬に刻まれたクロニクルの紋章が痛んだ。
「問題はロスターナだ」
エルセスの様子に気付いたのかどうか。白虹は天井をあおいだ。
「あの公主がどう出るか次第だからな」
ロスターナ公主、ファネルは当代随一の名君と言われている。彼女が、帝国の起こす無謀な戦争に加担するとは思えなかった。
だが、ロスターナはあくまでも帝国側の国である。ラグランジュ軍港への攻撃には参加せずとも、帝都がセレン海軍によって直撃されるとなれば話は別だ。
「必ずロスターナは出てくると見なければならない」
そのとき、セレンとロスターナ、二大海軍国が、直接対決することになるのだ。
「当然、勝つのは我らだが……」
しかし、その表情は晴れなかった。
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