第30話 暗黒の宮廷

 窓のないその部屋は、昼間でも日の光が入る事はない。

 中央には飾り立てられた天蓋を持つ、大きな寝台が据えられている。

 壁に取り付けられた燭台の炎が揺れるたび、闇の中に束の間、あらたな影が生まれて消えた。


 部屋中に漂うのは香が焚かれた甘い匂いだった。

 そして間違いようがないほど濃く、男女の交合による淫猥な粒子が部屋中を埋め尽くしていた。


 今も寝台の上では男女が絡み合い、痴態を繰り広げている。

 男は年齢よりも老いて見える。肌には水気がなく、弛んでいるうえに老人特有の斑が多い。孫娘ほどの女を組み敷き、嬌声を上げさせている。


 この男が帝国の皇帝であった。


「妾はもっと素敵なものが欲しいのです」

 皇帝の胸に抱かれた女は耳元で囁いた。

「豪華な衣装よりも、華麗な宝石よりも、もっと素敵なもの」


「それは儂が持っているものか。ならば、何でもお前にやろう」

 酒と媚薬の混じった息を吐きながら皇帝は呟いた。

 その目はどんよりと濁り、もはや知性すら失われているようだった。

 すでに皇帝はこの女の願いを入れ、後継者とすべき者たちを殺し尽くしていた。

「言うてみよ。それは何じゃ」


 女は艶然と笑った。

「妾が東の大陸にある王国の一族であることはご存知でしょう」

 帝国とのよしみを結ぶ。彼女はそういう触れ込みでこの皇帝へ献上されたのだ。

「欲しいものは、あの国。妾はそこで、女王になりたいのです」

 女は夜ごと、皇帝の耳に欲望という名の猛毒を流し込んだ。


 ☆


「ほう。東征を」

 玉座の前に立った男は、感情のこもらない声で言った。

 白銀の髪を背中に垂らしたその男は、全く年齢を推し量ることが出来なかった。顔に僅かな皺はあるが、立ち居振る舞いは若々しい。


 彼は鋭い視線を玉座に向けた。

「それに、いかなる大義名分がございますか。妄言も大概になさいませ」

 崩れた姿勢で玉座の手すりに寄りかかっていた皇帝は、びくっと身体をふるわせた。怒りではなく畏れに。


 彼はこの帝国で『永世宰相』と呼ばれている。

 果たしていつの皇帝の御代からその職を務めているのか知るものはいない。常に、当然のように皇帝の傍に在るのだった。


 どれだけ歴代の皇帝が無能であっても、これまで帝国が崩壊せずにいるのはひとえに彼の功績と言えるだろう。


「理由はある。漣国れんこくは我が領土を蚕食しているではないか」

 島々で構成される漣国は船の材料である木材に乏しい。彼らが帝国の東岸に港を建設し、その周辺の森林を伐採して造船を行っているのは確かだった。


「それは帝国と漣国の二国間協定によるもの。恐れながら、陛下ご自身が東岸の木材伐りだしと港湾設備の設置をお認めになったのです。今になってその国家間の協約を覆すおつもりか。しかも侵略などという言い掛かりのもとに」

 ぐっ、と皇帝は詰まった。

「だから、その協約は破棄するのだ。あれは間違いだった」

「国家間の協約というものは、子供の遊びではございません。国の威信を賭けて守るものにございます」


 皇帝は青ざめた顔で、手を振った。

「もうよい、分った。下がれ」

 宰相は一礼すると、音も無く玉座の間から退出した。


 ☆


 間もなく、軍装の男が入ってきた。玉座の前で跪く。

「そちに、征東将軍の位を授ける」

 皇帝は満面の笑みで言った。

「すぐに船団を編成し、漣国を壊滅させよ」

 将軍は顔をあげなかった。思いも寄らない命令だった。これは受けられない、そう思った。


「なるほど、そちは名将として名高いが、船戦は経験が無かったのだな」

 将軍は、ほっと息をついた。

「だが、心配するな。ちゃんと補佐役を付けてやる」

 皇帝に呼ばれて入って来たそれを見て、将軍は目の前が暗くなった。


「これは将軍。貴君とご一緒できるとは光栄ですぞ」

 舐めるような目つきで跪く将軍を見下ろしているのは宮廷内官、つまり宦官だった。最近特に皇帝からの寵愛を受けているという噂である。


「ご心配なく。わたくしは艦隊戦については少々研究しておりまして」

 どうせ書物で読んだだけであろう、将軍は奥歯を噛みしめた。こんな素人に指揮をされては帝国軍が全滅するだけだ。

 専門家気取りの素人など害悪以外の何ものでもない。


「ロスターナ海軍に先鋒をやらせよう。漣国相手なら喜んで参戦するだろうからな」

 皇帝と宦官は声を合わせて笑った。


「ですが、宰相閣下のご意見は如何なのでしょう」

 身の危険はあったが、これだけは言わざるをえなかった。こうなってはあの得体の知れない男だけが頼りだったのだ。

 しかし、皇帝は露骨に顔をしかめた。

「ああ。宰相の意見はいらぬ。それに、やつは今頃、なくした自分の首の在処を探しすのに忙しいだろう」


 ……この宮廷は、狂っている。


 将軍は頭を下げたまま、きつく目を閉じた。


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