3章 帝国の黄昏

第29話 海王、鷲 蒼牙

 のみで削ぎ落としたようなこけた頬と、細く鋭い目をした老人が彼女の前に立った。

「良く来たな、エルセス・ハークビューザー」

 セドニア内海の東半分を統べる海上帝国の主、しゅう 蒼牙そうがはその痩身に似合わない低く渋い声で彼女を出迎えた。

 ここは彼の王国セレン(他国からは『漣国れんこく』と呼ばれている)の宮殿だった。そこまで大きな規模ではないが、室内は高価な調度品で飾られている。

 そのなかで唯一、違和感を覚えるものがあった。


「その椅子は、どうされたのです。おじじ様」

 エルセスは笑いをこらえられず吹き出した。蒼牙の顔も好々爺のそれに変わる。


「ああ、これか」

 鷲 蒼牙は振り返ってそれを見た。

 確か、以前はちゃんとした玉座だったはずなのだが。

「最近、暑いからの。この、竹で編んだものに替えたんじゃよ。これは良いぞ。風通しがよくて、儂のような年寄りには最高じゃ」

 完全に、海沿いの避暑地でくつろぐ時に使う椅子ではないか。


「だから、もっと貫禄のある椅子にしろと言ったんだがな」

 海上王の孫、しゅう 白炎はくえんが遠慮ない声をあげた。日に焼けた精悍な顔に屈託のない笑みを浮かべている。

「いえ。おじじ様はどんな椅子に座っても威厳がありますよ」

 エルセスの言葉に老人は相好を崩した。

「ほれみろ。お前などよりこのエルセスの方が、ちゃんと儂の事を分っておるではないか。やはりエルセスを後継者にすればよかったのぉ」

 はいはい、と白炎は肩をすくめた。


「では、俺がエルセスをめとれば、すべて丸く収まると云う事ではないか、そうだろう、爺どの」

 喜々として白炎がエルセスの肩を抱く。

「やかましいわ、お主にエルセスは勿体ない。早く自分でいい嫁を見つけるのだな。ほれ、だからその手を離せ」

 白炎は、大きくため息をついてエルセスを見た。

「すまぬ。どうやら、俺たちは結ばれぬ運命のようだ」

「ばか…」

 エルセスは苦笑した。


 ☆


「ゴスメルでの事は聞いている。おかの人間共のやる事は、まったく……」

 蒼牙はエルセスの肩に手を置いた。

「つらい思いをしたようだな。我が孫娘よ」

 蒼牙はいつもエルセスの事をそう呼んでいた。

 エルセスは黙って頭を垂れた。


「それで、どうするんだ。今、白虹が帝国と揉めているが、そこへ行くというのか」

 白炎は不思議そうに訊いた。この白虹というのは彼の従兄弟のぎょう 白虹はくこうの事である。白炎と並べて『セレンの双白そうはく』と呼ばれている驍将だ。


「ええ。ロスターナの船では無理らしいので、セレンのおじじ様にお願いに上がった次第なのです」

「ふうむ。だがあそこは、そこまで派手な戦闘は起きておらぬぞ」

 蒼牙が首を捻った。

 確かに帝国辺境の紛争なのだが、エルセスには気になる事があった。


「まあ、よかろう。エルセスのしたい様にするがいいぞ。白炎、船を準備してやれ」

 急がんで良いからな、そう言おうとしてエルセスに睨まれた。


「だが、寂しいではないか。……せっかく会えたのに」

「おじじ様。用件が終わったら、また改めて、ゆっくりとお話に参りますから」

 これには、さしもの剛胆な老人も肩を落とした。


「まったく、爺どのはエルセスの事が大好きだからな」

 白炎が呆れたように彼女を見た。

「だが、言って置くが。俺も好きだぞ。お前の事が」


「そんな冗談を真面目な顔で言わないで下さい。怖いです」

「ええ? 本気だよ。俺は」


 ☆


 用意された船は、やや小型の快速艇だった。三角帆を備える他に、30人程の漕ぎ手兼戦闘員が待機する。小なりといえど完全な軍船だった。


「この辺りに海賊は出ないと思うのだが、一応これの方がいいだろう。北岸の港までなら1日で着く。爺さまが寂しがるから早めに帰ってこい」

 桟橋に並んで立った白炎は、エルセスの手をとって言った。

「ありがとう、白炎どの」

 エルセスは揺れる板の上を渡って船に乗り込んだ。


 動き始めた船に手を振る彼は、慌てて言った。

「肝心な事を言い忘れていた。……白虹は女たらしだから、気をつけろ」

「あなた以上にですか」 

 白炎は、あははっ、と笑った。その後、うーん、と考え込む。


 その姿も、すぐに小さくなった。


 緩やかな順風にのって、快速艇は多島セドニア内海へ進み出て行く。

 頭上には青い空が拡がっていたが、北の空に浮かぶ黒い雲を見て、エルセス・ハークビューザーは眉をしかめた。


「嵐の予兆か……」


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