第20話 月下の奇襲

 雲のない夜空に皓々とした月が懸かる。

 地上の光が届かない草原の只中では星の数が桁違いに多いが、そのなかで一際明るく、凍て付くような蒼白い光を放っている。


 草原の夜は急速に気温が下がり、歩哨の吐く息は月の光を反射していた。

 間もなく夜明けを迎える地平線が、濃紺から茜色に変わり始めている。


 やがて彼らの足元を浸すように、霧が流れてきた。

 この季節の寒暖差は濃い霧を生み、夜明け前の草原を包み込むのだ。


 ☆


 突然、角笛の音が静寂を破り響き渡った。


 それは方陣を敷いたゴスメル中央軍を挟み込むように南北から聞こえて来た。


「やはり来たか。小癪な草原の羊飼いども」


 中央軍総帥アリーソードは、身体に巻き付けていた外套をはね除け立ち上がった。こんな事は想定内、いや、これを待っていたのだ。

「愚かな奴らよ。我らが待ち構える中に飛び込んでくるとは。皆殺しにせよ!」


 指示を下しながら天幕を出た彼は、ふと顔をしかめた。

「何という霧の深さだ……」

 それは、十歩も離れればもう相手の顔さえ判別できない程だった。


 アリーソードは髪についた夜露を手で払い、剣を手にした。




 剣戟の音と喊声だけが本陣へ聞こえて来る。

「敵の総数は」

 アリーソードは傍らに控える伝令将校に問う。

「この霧で正確には分りませんが、数百騎と思われます」

「……」

 彼は微かな違和感を覚えた。だが勝利への高揚感がそれを打ち消した。


「ほぼ全兵力と云う事か。丁度いい、一息に決着をつけてやる。馬をひけ!」


 本陣の周辺に騎馬の気配が満ちた。

「おい、馬はまだか」

「ご心配なく、閣下にはお迎えを用意してあります」

 将校が静かに答えた。その声に、アリーソードは違和感の正体に気付いた。

「貴様、…だれだ」


「やあ。アリー、迎えに来たよ」

 彼を取り囲むように数騎が近づいてくる。そのなかの一人が声を掛けた。

 霧の中からその男が姿を見せた。

「ヘンシェル!」


 騎馬民族の服装に身を包んだヘンシェル公子は軽く手を振った。


「ふざけるな、ヘンシェル。この場で殺す!」

 足を踏み出したアリーソードの首に白刃が突きつけられた。

「お待ち下さい閣下。動かれると、お首が落ちる事になります」

 伝令将校と思っていた男が後ろから剣を回していたのだ。


「ライユーズ、無礼はいけないよ。剣を引きなさい」

 ヘンシェルの忠実な副官は剣を収めた。


「一体どうやってここまで来た」

 アリーソードは低く呻いた。


「ああ、何度も声を掛けたのだよ。だが、みな出払っていたようなので、勝手にお邪魔させてもらった」

 いたずらっぽく笑うヘンシェル。

 南北からの陽動で手薄になった本陣へ易々と入り込んだらしい。親衛隊はライユーズが偽って、前線へ進発させていたのだ。


「この霧も計算の内か」

「土地の気象に詳しい友達がいたのさ」

 ヘンシェルは傍らのリンク・ハーロウを振り向いた。


 ☆


「では本題に入ろう。アリーソード」

 ヘンシェルは表情を改めた。

「私に従え」


「降伏しろというのか。それこそ愚かではないか、軍事力はこちらが勝っているのだぞ。正面から当れば、草原の民や地方軍などものの数ではないのだ。貴様こそ土下座して命乞いをしろ、ヘンシェル。今ならまだ許してやる余地はある…おうっ?」


 居丈高に叫ぶアリーソードが急に、かっくんと膝をついた。

 膝裏を剣の鞘で突かれたのだ。

「お、おのれ。ふざけた真似を」

 睨まれたライユーズは素知らぬ顔でそっぽを向いた。


「そろそろ親衛隊も、騙されたと気付く頃でしょう」

 ライユーズが剣を抜いた。

「厄介者はこの辺で片付けておきませんと」


「止めておけ、私は大規模な内乱は望んでいない。公国のためにはアリーソードが軍を掌握してくれた方がいい」

「甘い奴だな、ヘンシェル。俺は必ずお前を殺すからな」

 剣を突きつけられたまま、アリーソードは叫ぶように言った。

 ヘンシェルは小さく頷いた。

 手をあげ、引き上げの合図を送ると揃って馬首を返した。


 ☆


 現れた時と同じように、ゴスメルの第一公子と草原の族長は霧の中に消えた。

 打ちひしがれ、膝を突いたままのアリーソードの他にもうひとつ人影が残った。


「……クロニクル。お前は行かないのか」

 憎悪と屈辱の入り交じった視線を彼女に向ける。

 エルセス・ハークビューザーは石版から顔をあげ、膝をついたままのアリーソードを見た。


「そんな目をしているのだな、クロニクルという連中は」

 アリーソードは、ぶるっと身体を震わせた。 

「それが歴史を記す時の目なのか……」


 差し込んできた曙光が、霧の中でエルセスを浮かび上がらせている。

 紅の瞳は何の感情も浮かべず、復讐に狂う男の姿を見詰めていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る