第19話 失踪した公子
ゴスメル中央軍のうち、ヘンシェル公子一派の追撃に向かったのは、王都駐在の千名ほどの部隊だった。
その内訳は軽装歩兵と騎兵が半々といった所である。機動戦を目的としたその構成は、急遽編成したにしては、まず無難なものだろう。
「まったく、油断しやがって。この馬鹿が」
族長のリンク・ハーロウは横たわる妹を蹴飛ばした。すると、胸に刺さった矢がぽろりと抜けた。深く刺さっていた訳では無かったらしい。
「痛いぞ、兄貴」
フランはうっすらと目を開けた。げほ、と咳をする。
「遠矢で命拾いしたな。周囲に気を配らないからそういう事になるのだ。常々言っているではないか。お前は本当に……」
「分ったよ、兄貴。説教はいいから、さっさと指揮に向かってくれ」
「ああ。お前はクロニクルと一緒に後方へ下がってろ」
言い捨てると、リンク・ハーロウは前線へ騎馬を走らせた。
エルセスは大きく息をついて彼女を抱き起こした。
「よかった。立てるか」
「うん。だが、たぶん肋骨がやられている。手を貸してくれ、クロニクル」
痛てて、と胸を押さえた手に血が流れた。
「さすがに無傷とは行かなかったか」
そこで、フランはエルセスに笑いかけた。
「そんな顔をするな。おれはお前より胸のクッションが厚いんだ」
エルセスは自分の胸を押さえ、彼女を睨んだ。
フランを女性たちを乗せた馬車が集まる後方まで送り届け、エルセスは再び前線へ向かった。
☆
中央に歩兵集団、両翼に騎馬部隊を配した手堅い陣形をとるのは、アリーソード率いるゴスメル中央軍だった。
「ふーん」
口には出さないが、考えている事がありありと分るエルセスの表情だった。口をとがらせ、石版に彼らの陣形を書き入れていく。
迎撃に向かった草原の民は決まった陣形を取らず、小さな集団を形成し各個に応戦していた。数で勝る軍団兵に対するには適切な戦法に違いない。
「だが、意図したものではないようだな」
その攻撃は、まるで統一されていないため効果が薄い。敵の進軍を食い止める程度の役にしか立っていない。もっと、部隊ごとに連携して戦わないと……。
小部隊の動きを記しながら、エルセスは歯がゆい思いにとらわれた。
彼女の石版へ文字を書き込む手が止まった。
(ああ、これは、クロニクルらしからぬ考えだったな)
エルセスは打ち消すように首を横に振った。
「女どもの馬車を下げろ、後退するぞ!」
リンク・ハーロウが馬上で叫んだ。ゴスメル軍が進攻してくるのを邀撃しながらゆっくりと前線を下げていくのだ。
「ヘンシェル公子はどうしたんだろう」
エルセスは陣中を見回した。彼の馬車も親衛部隊も姿が見えない。まさか草原の民を盾にして逃走するとは思えないが。
結局その日は、ゴスメル軍の一方的な攻勢に草原軍はずるずると後退を重ね、やがて日が暮れた。
☆
「どういう事だ。奴はどこにいる」
公国の第二公子、アリーソードも同じ思いだった。ヘンシェルを捕捉したならば一気に攻勢をかけ、草原軍もろとも血祭りに上げてやるつもりだった。
しかし彼の姿が見えない以上、総攻撃に踏み切れずにいたのだった。
「すでにタルカスへ向け遁走したとの情報もあります」
斥候からの報告がある一方、後続の部隊からは別の情報が入る。
「いえ、港へ向かいロスターナへ落ち延びようとしていると」
更には都に残した守備隊にはまた別の噂が流れている。
「ゼフュロス軍の部隊がこちらへ向かっているらしい」
このように様々な情報がゴスメル軍内を飛び交っている。アリーソードは忽ち疑心暗鬼に陥った。
「まさか、ゼフュロス王国が動く筈はない。足止めを食らわせるための虚報に違いないが……」
だがヘンシェルのみならず、末弟のメルヴェスまでその姿が見えない。つまりゴスメル中央軍が戦っているのは純粋に草原軍ということだ。
個々の戦闘では圧倒したものの戦果は乏しかった。それどころか二公子を捕らえることが出来なかったことを考えれば、皆無と言ってもいい。
アリーソードは歯ぎしりした。
☆
「公国の中央軍は、防御方陣を敷いて野営する模様です」
報告を受けたのはリンク・ハーロウとヘンシェル公子だった。
ヘンシェルは騎馬民族の服装で騎乗していた。盲目とは思えない手綱捌きで馬を進めている。それをリンク・ハーロウは呆れたような目で見ている。
「不思議なやつだな。そこらの連中より馬の扱いが上手じゃないか、公子さまよ」
「いや。これは馬のおかげさ。ちゃんと私の意を汲んで動いてくれる」
ヘンシェルは馬の首をなでた。
馬の名は『ウォーダムン』、
ヘンシェルはリンク・ハーロウと共に、何度も最前線まで赴いていたのだが、それに気付く者は居なかった。
「夜襲でもかけるか、ヘンシェル」
リンク・ハーロウの言葉に、盲目の公子は肩をすくめた。
「無駄だよ。それよりもっと、面白い事をしようじゃないか」
「お主は、政治家だとばかり思っていたのだがな。ゴスメルの王にするには勿体無いぞ、俺と一緒に来ないか」
リンク・ハーロウはヘンシェルの肩を叩いて笑った。
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