第17話 クロニクルの受難

 ゴスメル公国は、ある事で世界的に有名だ。

「分っていたことではあるが……」

 エルセス・ハークビューザーは夕食の皿を前に、ため息をついた。


 フニャフニャになるまで煮込まれた野菜。しかもほとんど何の味もしない。

 さらに、添えられたのは煮詰めた海水かと思うほど塩辛いスープ。ごろりと入った肉の固まりは筋っぽく、彼女の健康な歯でも容易に噛み切ることができなかった。塩漬け肉をそのまま、塩抜きもせず煮たに違いない。


(ああっ、不味いよぉ…)


 エルセスは心の中で叫んだ。ここは決して場末の安い店ではない。それなりに設備の整った、ゴスメルでは名の通った宿泊施設のレストランなのだが。


 そう。ゴスメル公国は料理が不味い事で有名なのだ。


 エルセスは『将軍亭』でリスティの作ってくれる料理を必死で思い浮かべながら、目の前のそれを呑み下していく。

 ふと見ると、半分ほど埋まった他のテーブルの客も、考えあぐねた哲学者のような難しい顔で食事を摂っている。彼女は思わず同情を覚えた。


 苦行を終え、エルセスはお茶を飲んで一息ついた。

「ああ、お茶がおいしい」

 乳製品をふんだんに使った甘い菓子と、熱いミルクティーだけは彼女を満足させた。ただ、あの料理の後なら大抵のものは美味しく感じられるだろうけれど。




 彼女のテーブルの前に若い男が立った。

 背後に二人の屈強な男を従え、高級将官を表す徽章を付けたその男はエルセスを見おろした。幼さは残るが、端正な美男子といっていいだろう。


「料理は堪能して頂けましたか。クロニクル、ハークビューザー殿」

「これは意外です。ゴスメルの方は冗談など言わないと思っていましたのに。……何のご用です、公子殿下」

 エルセスは皮肉な笑顔を返した。

 彼はゴスメル公王家の末弟、メルヴェスだった。礼にかなった仕草で慇懃に頭を下げる。さすが公子だけに、こう云った作法には隙がない。


「わが陣営にお越しいただきたい。戦時記録の際に最大限の便宜を図りましょう」

 どうやら彼らは開戦と決したらしい。エルセスは背筋が震えた。


「ご存知でしょうが、クロニクルは不偏不党を掟としています。どちらかの勢力に有利な記録を残すことはありません」

 それでもメルヴェスは満足げに頷いた。もちろん重々承知のことである。だが、彼女を陣営に迎えることで、こちらが正統の後継者であるという印象を与える事ができるのだ。


「わが方のために記録を残せなどとは言いませんよ。ただ、このような屑料理ではなく、帝国式のちゃんとした食事を用意させていただきますが、いかがです」


 それは、悪くない条件だった。


 ☆


「何ということだ」

 エルセスは寒空の下、マントを身体に巻き付けた姿で野営しながら、何度目かの愚痴をこぼした。

「目先の食事の誘惑に負けた私が馬鹿だった」

 彼女は遠い目で空を見上げた。



 あれから二日程しか経っていなかった。中央軍を押さえた三男のアリーソードが長兄と末弟の邸を急襲したのだ。公子ヘンシェルと話し込んでいたエルセスは、彼の護衛隊によって、有無を言わさず馬車へ押し込まれた。

「ちょっと待て、なぜ私まで!」

 月のない暗い夜だった。馬車は脇目も振らず、郊外へと走る。いつの間にか石畳の街道を外れ、草原の中を進んでいるようだった。揺れが激しい。


「大丈夫ですか、ヘンシェル公子」

 エルセスは隣に座る男の身体を支えた。生まれつき目が見えない彼は特殊な感覚を持っているようだった。激しく上下する馬車の中でも平然と笑みを浮かべている。

「巻き込んでしまって申し訳ない。間もなく合流するから、もう少し我慢してくれ」

 焦りなど感じられない、穏やかな声だった。

「合流? メルヴェス公子と、ですか」

 彼は黙って首を横に振った。


 周囲に騎馬の気配がしている。いななきこそしないものの、馬具の触れ合う音や、人馬の息づかいが聞こえてきた。


 エルセスは、紛争中のタルカスやロスターナ方面に配置した地方軍を呼び返したのだろうと思ったが、夜が明けるにつれて状況が分ってきた。

 彼らを取り囲んでいるのはゴスメル軍ではなかった。

 主要な武装は短弓だろう。統一感のない不揃いな服装の騎馬部隊だった。周囲に柵を巡らした駐屯地の中に彼女らは居た。


「彼らは、草原で生きる民だ」


 その中の一騎が馬車に近寄ってきた。浅黒い肌の、精悍な男が騎乗している。

「どうした、予定より早かったではないか、ヘンシェル」

 からかうような調子でその男が言った。

「ああ。わが弟ながら、こらえ性が無くてな。あのアリーソードという奴は」

 ははは、と男は笑う。


「ところで、このお嬢さんは誰だ?」

 男が馬車を覗き込んできた。

「無礼をするなよ。この方は帝国のクロニクルだからな」

「エルセス・ハークビューザーです」

 彼女は胡散臭そうに目を細める。

「ほう。俺はリンク・ハーロゥ。この辺りじゃ最大だろう、スキアボ―ナ族の長だ。よろしくな」

 ヘンシェルは彼らと融和政策を取っていたため、こうして交流があるのだという。このまま地方軍の集結を待つらしい。


「では体制が整うまでこの集落に滞在するがいい。まあ、こんな処だから、ろくな食い物は無いがな」

「げっ」

 リンク・ハーロゥの言葉に、エルセスは思わず呻いた。

「何ということだ……」


 彼女の受難はまだまだ続くようだった。


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