第10話 ルードベール消滅
それは緩やかに、城壁に向かって拡がっていった。
饕餮から流れ出したそれが触れると、城壁は名前を失った。『石』も『材木』も『鉄』もすべて『何物でもない』存在となった。
エルセス・ハークビューザーは髪の毛が逆立つのを感じた。
『混沌』が目の前に現れていた。
どろりとした混沌の海から、かつて『人間』と呼ばれていたものが、よろよろと歩み出た。その数は少なくとも百は超えていた。助けを求めるように両手を前に伸ばし、混沌から這い出そうとしている。
ゼフュロス軍内からも呻き声が上がった。
エルセスも目眩と吐き気を覚え、立っているのがやっとだった。
その『人間』であったものも、まるで砂像が崩れるように形を失い、すぐに混沌に呑み込まれていった。
『摂政王』トゥール・シャロウは青ざめた顔で、その光景を眺めていた。彼もまた、饕餮がこれ程のものとは思わなかったのだろう。
横合いからルードベール軍の反撃を受けたと知り、逆に救われた表情になったのもそのせいだった。
「これは、人が扱って良いものではない……」
小さく呟くと、陣頭指揮のために馬を走らせた。
エルセスと、ウィラス・ラムロッドが饕餮のもとに残された。
「どう、エルセス。饕餮が生み出す混沌とは美しいものでしょう」
「吐き気がします」
エルセスがそう言うと、普段表情を変えないウィラスが、くくっと笑った。
「一度、混沌に取り込まれてみれば解かる。あそこには……、我々クロニクルが求めて止まないものがある」
☆
「あの
ウィラスは熱に浮かされたような声で続けた。目の周りがほんのりと紅色に染まっている。
エルセスは眉を
「そうだ。では、なぜ文字を喰らう」
骨の浮いた、痩せた手がエルセスの腕を掴む。痛みを感じるほど強い力だ。振りほどく事も出来なかった。
「あいつらは、知識を求めているんだ」
ウィラスの目から、血の混じった涙が流れた。
「クロニクル・システム、そして私たちクロニクルと同じにね。だからあれは……」
彼女は大きく息をついた。
「饕餮は、クロニクルのなれの果てと言ってもいい」
☆
ルードベール公国の都が地上から消滅するのに一日も掛からなかった。
石造りの古い街は混沌に覆い尽くされ、その姿を消した。
「百年もすれば、混沌は再びこの世の秩序に取って代わられるだろう」
焚き火に手をかざしながらウィラス・ラムロッドは静かに言った。
「私はこのまま廃都へ向かう。……こいつと、な」
彼女は饕餮を振り向いた。その半透明な古代の化け物は、満足そうに身体を震わせた。
ルードベール公国の廃都とは、一夜にして氷雪に埋もれた、かつての帝都である。
クロニクル・システムの暴走がこの破滅を招いたのだと、ウィラスは言った。
「廃都の中心にシステムがある。それを喰らわせてやる」
そうすれば、この吹雪は止まるだろう。
「あなたは一体、何をするつもりなんですか」
この世界をどうするつもりだ。エルセスは呻いた。
「この世界、と言ったな、エルセス・ハークビューザー。お前はこの世界でクロニクル・システムが必要だと思うか」
エルセスは虚を突かれた。
「クロニクル・システムの無い世界?」
それは、
「歴史の無い世界、と云う事ですか」
エルセスを見るウィラスの瞳が、急に空虚なものになったような気がした。
ぞくっ、と背筋が寒くなった。
この世界から過去の歴史が消滅してしまったら、……それは、未来すら失われるという事ではないのか。
「過去も無く、未来も無い。それを何と呼ぶか、お前なら分るだろう、エルセス」
全く感情のこもらない声で、ウィラスは言った。
もちろん、それは知っていた。
「……混沌、でしょう」
エルセスの声はかすれていた。
この世界の全ての歴史を消し去り、混沌へと還す。
元クロニクル、ウィラス・ラムロッドはため息をつくように、静かに笑った。
決して、どこにも狂気の気配は感じられない、冷たい笑みだった。
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