第5話 武装史官、最前線へ向かう
「ハーク、ビュー、ザー!」
場違いなまでに明るい大声に、馬上の彼女は顔をあげた。
ロスターナの最も西に位置するシレジア城塞、その城壁の上に立つ男がいた。
「もう来る頃だと思っていたぞ」
わははは、と豪快に笑う肥満体のその男。
要塞の守備隊長、ガルドアという若い将軍だった。彼はロスターナ公主ファネルのいとこに当る。武名こそ高くないが、堅実にこの辺境の地を治めている。
この当時、国境という概念は希薄なものだった。
拠点となる都市を中心に、手の届く範囲がその国の版図と言えた。つまり、確実に徴税が出来るところまで、と言う事だ。
荒地が拡がるような場所はどこからも領土と見なされず、いわゆる緩衝地帯として残された。
もちろん、河川や山岳が国境となる場合もある。帝国とルードベールの係争地となっているカランドア地方はその典型だった。
リル河を挟んだ小さな平原は、どちらの陣営からも喉から手が出るほどに欲する穀倉地帯なのだ。そのため、常に紛争が繰り返されている。
だが、ロスターナ西部にあるこの城塞都市はそのどちらでも無かった。
少し西へ向かえばすぐに乾燥した荒野が拡がり、振り返れば急峻な山岳地帯に一本の街道が通っているだけだ。領土的な野心など、くすぐられる要素は無かった。
だが一本のこの街道、これが、ここに城塞を築かねばならない理由だった。
帝国の西部に位置するゼフュロス王国、そして南部に拡がる草原地帯を治めるゴスメル公国と、この帝国の首都を結ぶ重要な街道なのだ。
両側から迫る山脈の谷間を利用してこの城塞は建築されていた。もちろん、両側の山中にも砦を連ね、守りを固めていた。
「ようこそ、国境の町へ」
どこかおどけた風に、ガルドアは頭を下げた。
☆
「将軍。言いにくいのだが、以前お目に掛かった時より、その…、体格がよろしくなられたのではないですか」
エルセスが言うと、ガルドアは笑った。
「これは丁寧に、鋭い事を言われたな」
実は幼児一人分ほど増えましたよ、とお腹を突き出す。
「触ってごらんなさい。動きますから」
「男性が子を孕むというのは初めて聞きました。記録しておかねば」
真面目な顔で言ったあと、エルセスは吹き出した。
「いい加減にして下さいよ。私は仕事で来ているのですからね」
ぽん、と彼の大きなお腹を叩いた。
「残念だな。クロニクルになる前のハークビューザーはもっとノリが良かったのに」
帝都で一緒に勉強していた頃は。
「いいえ、私は昔からこうでした」
司令官の居室といっても、調度品などほとんど無い質素な部屋だった。ほかの部屋と変わる所はない。
エルセスは現在の戦況について、彼から説明を受けた。
一言で言えば、膠着状態だった。
城塞の前面に展開した敵軍だったが、まさに形ばかりといった攻撃を定期的に行うだけなのだ。死者どころか、怪我人さえ出ていなかった。
「一体、どういうつもりだと思う?」
彼女に問いかけて、ああ、とガルドアは頭を掻いた。
「そうだった。お前に訊く訳にはいかなかったな」
「ところで、ハークビューザー。こんな噂を聞いたことはないか」
ガルドアは顔を寄せて言った。
「ゼフュロスで、3つ目のクロニクルシステムが発見された、というのだが」
何だと?
エルセスは思わず立ち上がった。
幻と思われた、砂漠地帯に残るクロニクルシステム。
「知らないぞ、情報の出所はどこだ」
奴らさ、と彼は窓の外を指さした。そこにはゼフュロス軍が布陣しているのが見えた。小競り合いで捕虜にした兵士が証言したのだという。
「それは、いかにもデマじゃないか」
わざと捕虜になって偽の情報を流すというのは、昔からよく使われる手段である。
エルセスの言葉にガルドアも肯いた。
「ああ。おれもそう思う。だが、それをやって、奴等に何のメリットがある?」
彼女は考え込んだ。確かにメリットは、無い。
「だが、ガルドア。もし本当に見つかったのだったら大変な事だぞ」
「あの伝承の事だな」
エルセスは大きくため息をついた。システムにまつわる恐るべき伝承。
ある事象を、例えば帝都にあるクロニクルシステムに記録させたとする。それはただの記録でしかない。
だが、それを世界中の全てのシステムに記録させた場合。
それは確固たる事実となる。
現実には一切関係なく、だ。
それが何を意味するのか具体的には分かっていない。帝国が滅びると記録すれば、本当にそれは起こるのか。そして逆に、起きた出来事を無かった事にできるのか。
エルセスは史部寮の部屋にひとり座るクロニクルの姿を思い浮かべていた。心を喪った彼女は以前、姉妹揃ってクロニクルだった。そして、その姉は今ゼフュロスにいる。クロニクルの掟を破り、王の側近として征旅に従っているのだ。
彼女の姉は全てのクロニクルシステムを手に入れようとしているのではないか。
エルセスは思った。
帝国を滅ぼし、妹の仇をとる。そして、できるならば妹を元の姿に、と。もし、伝承通りに世界を変えることができるなら。
窓から風が吹き込んで、エルセスは目を押さえた。そっと涙を拭う。
だがそれは決して、風に含まれる細かい砂のせいではなかった。
「そんなものは、あくまでも伝承だ。どこにも根拠などないのに……」
つぶやくエルセスの言葉は、風の唸りに消えた。
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