第一章

第1話   火当輝耶

 日ノ本と天ノ世界のはざまに、浮力のみなもとが謎に包まれた小島が浮いていた。

 いつしかその島は『貴雲藩きうんはん』と名付けられ、月にいちばん近い藩として、地上から橋がかかり、観光の名所となっていった。


「ハァ。月夜って艶っぽくていいなぁ」


 日ノ本の東西あちこちの文化に染められて、小洒落こじゃれた景観にいろどられたこの藩は、穏やかで聡明な藩主のもと、四季移ろぐ平穏なときを、今宵こよいつむぎ描いていた。


「夜に見る貴雲城も、すんごいきれい……」


 大きな月から注ぐ淡い月光の下、幽玄なる輝きをまとうは、黄金の屋根の貴雲城。


 そこから南に見下ろされるのは、多くの商人町しょうにんまちを団子の串のごとく東西に突き抜ける大道だいどう子安貝こやすがい大通おおどおり。


 のきつらねるは立派な大店おおだなと、その家族が暮らす裕福な町家まちやばかりだ。


 子安貝大通りの中で、食べ物屋が多いこの朱雀町すざくまちが、火当輝耶の大のお気に入りであった。

 蕎麦屋そばやおもてに置かれた、赤い布の敷いてある床几しょうぎに座って、一人絶景と、ざる蕎麦を楽しんでいる。


「これで腕が痛まなかったら最高なのになぁ。どこで痛めたんだろ、はしが持ちにくいじゃないの」


 昨夜に自分の体が乗っ取られていたことは全く覚えていなかった。


「足には打撲だぼくっぽいあともあるし……寝相ねぞうは悪いほうじゃないんだけどな」


 どこからか春風が吹いてきた。


 輝耶の長い黒髪をふわりとなぶり、夜空に薄桃の花びらを舞い上げた。


「きゃあ、綺麗!」


 通りの真ん中に点々と植えられた、桜の木からの贈り物だ。


 春の夜いっぱいに儚い愛らしさが舞い踊る。


 ……そうして美しい景色に魅入っていると、なんだか切なくなってくるのが人の不思議なさがであり、


皇牙こうがさんも、どこかで見上げてるかな……」


 揺らぐ視界をそっと指でぬぐった。

 ふわりと浮かんでは胸の内を占める、この切ない想いを、どうしよう。


 その相手は、十年も行方知れずだというのに。


「パプパ?」

「うぉわ! びっくりした!」


 輝耶は左手の蕎麦つゆの器を、あわや落としかけた。


 輝耶のむき出しの太股にぺたりと両手を押し当てたのは、となりで蕎麦もちを食べていた、丸っこい容姿の妖怪ようかいだった。


 ひざが見えるほど着物のたけを短くするのが、貴雲藩で流行はやっている娘の格好だ。

 そしてその格好でも足が冷えないように、長い足袋たびを着用するのも今どき風である。


「ウップゥ?」


 妖怪は輝耶の膝にのると、興味津々きょうみしんしんで、着物のがらを小さな五本の指でなぞりだす。


 桜色の生地きじに白い花吹雪のがらが描かれた着物と、金魚の尾びれみたいなふわふわしたおび


 妖怪のほうは、赤い胸当て一つ巻いて、お尻が丸出しである。

 大きな頭の二等身で、まるで団子でできた赤子だ。


「あなたは家鳴やなりって名前の妖怪ね?」


 赤子はきょとんとして輝耶を見上げた。


「家の中に入っては、走りまわって騒音を立てるから、家鳴りって呼ばれてるのよね」


「ペポ?」


「え、ちがうの? でも祖父じいちゃんが言ってた特徴と似てるわ」


 赤子は輝耶の膝の上で、両足を投げだしてぷらぷら揺らした。

 膝から下りないどころか、輝耶といっしょに外の景色を眺めている。


「人の膝の上で……自由ねぇ」


 輝耶は鼻をすすりながら、蕎麦をすすった。

 食後のまったりした心地よさを満喫まんきつしていると、大通りを歩く人々や、輝耶の顔や前髪にも、青く大きな月の光が、柔らかく降り注いでゆく。


 日ノ本のどこよりも、月に近い藩。

 今日みたいな曇りのない夜は、月光がすべてを照らしてくれて、いつまでも夜道が明るい。


 皆が遅くまで出歩き、夜だけ開く店も、繁盛する。


「うっふふ、提灯代ちょうちんだいが節約できて助かるわ。遠くまでよく見渡せるし……ん? なんだろ、アレ」


 大通りを挟んで向かいに建つ、いつもお世話になっている大きな八百屋やおやの『いそかみ屋』。

 早朝から元気な売り声を上げ、今は静かに閉じている。


 屋根に大根の形の看板をのせているのだが、その看板の後ろに、なぜか人影が隠れていた。


 遠くて顔まではわからないが、子供のように小柄で、全身に黒い布をまとい、大人よりも長い腕で自身を抱きしめて、人ではマネできないほど背中を丸めてじっとしている。


「あれも妖怪かなぁ。あんなとこで、なにしてんだろ」


 輝耶が眺めていると、人影はいきなり立って、屋根の向こう側へと飛び下りた。


 あそこはちょうど、いそかみ屋のくらが建っている中庭の辺りだ。


「え……? まさか、泥棒!?」


 輝耶は膝にのっている家鳴りをおろして、誰かに知らせねばと立ちあがった。

 そのとき、


「こら待てえええい!」


 いそかみ屋の店内から、何かを追いかけ回すような激しい物音が鳴りだし、さっきの人影が再び屋根へと現れた。そして一目散いちもくさんに屋根屋根を伝って逃げていった。


 体重を感じさせない、おそろしく身軽な足取りで。


 輝耶は一連いちれんの出来事に目を丸くしていた。

 あの足取りからして、泥棒したのは妖怪だ。


 人や家屋かおくに危害を加えた妖怪は『討伐組合とうばつくみあい』に通報する決まりがある。

 貴雲藩はそうして治安ちあんを守っているのだ。


「組合ってどこのだれに通報すればいいんだっけ、えーと……って、きゃああああたしだわ!」


 輝耶は床几に立てかけておいた重たい太刀の存在にようやく気づいて、絶叫した。


 組合にむりやり参加させられて一年間、なんの事件も起きなさすぎて、組合どころか刀の存在意義まで忘れていた。


「ど、どどどどうしよ、あたし刀なんて扱えないし、泥棒も逃げちゃったし」


 数枚もの桃色の風呂敷に包まれた、さやに収まる大きな刀。

 輝耶は太刀を両手で持ち上げた。

 それだけでよろよろと体がかたむく。


(だいたい、なんで商人のあたしまで組合に入れるかな! お武家様だけでいいでしょ~!?)


 武家ではないから、腰帯こしおびに下げて歩くことは許されず、はたから見ても刀とわからないように布に包んで、手で持ってのみ持ち運びが許されていた。


 そうでなくても、戦闘に向いているとはとても言えない輝耶が、勝手に組合に登録されたこと事態、周囲からも抗議の嵐であったが、組合の決定はくつがえることなく、現在に至っている。


 不本意だが、組合になったからには、目の前の事件に素知らぬ顔はできない性分だった。


「そ、そうだ、被害状況の確認だけでもしなくちゃ」


 輝耶は器を店に返却へんきゃくしてお金を払うと、さぁ初仕事だ! と気合いを入れて、いそかみ屋に向かおうとした、

 そのとき、


「こんなところで何をしているのですか」


 乱暴に手首を掴まれて、床几しょうぎの前まで引き戻された。


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