LaboratoryⅠ 追想の研究

 例えばここに自分Mと、相手Yがいたとしよう。あくまでも仮定の話である。自分Mは、相手Yに少なからず好意を抱いている。憎からず思っている。もっと正確に言えば、間違いなく一生をともに生きたいと思える相手である。

 これが、自分Mにとってわかる全てのことだ。ここからは、我々三人称視点ならばわかることだが、自分Mという人物にとっては決してわからない。つまり相手Yのことだ。


 一つ。相手Yも自分Mと同様の心情を抱いている。

 二つ。相手Yにとって、自分Mは大した存在ではない。

 三つ。相手Yは、少なくとも自分Mと同様の心情に到達する可能性を持つ。


 一つ目であるのが最善であり、つまり「両想い」と呼ばれるものである。そして、二つ目が「片想い」と呼ばれるものになる。それでは三つ目は? ――三つ目はわからない。けれどももしかしたらそれは相手Yが知覚できるものであるかもしれないし、あるいはかもしれない。後者であれば全てが最悪の方向に動く。自分Mという人間にとって、最善であると判断した相手を失うこととなり、相手Yにとっては、感情はどうであれ、最善であろう相手を逃しているということになる。前者であればまだしも、しかもそこには更に酷い落とし穴がある。前者の知覚は、

 簡単に言えば、「誰かのことを知りたい」と思う。それを単純に、「愛」ととらえるのは即急すぎる。あくまでもそれは、人間が宇宙を知るがために、宇宙へ行くのと変わりがないことであるかもしれないためである。「何かを知りたい」と思う。これは往々にして、別の感情を確立させうる要因になりやすい。

 しかしとにかく、ここで一つ。何十年も昔、この研究室で長い間研究と思索にふけった博士(ここで名前は述べない。それは博士の強要するところである)が、常に話していたことを記そう。


「そんな遠くからぱーっと一瞥しただけじゃあ人の魅力なんてわかりゃしませんよ」


 まだ長い年月我々は生きなくてはならない。一目見た相手が本当の相手と、どうしてわかるだろう? はっきり言って、人間など、主観の塊に過ぎない。<直観>が正しいことはある。けれど十分に間違っていることすらあることを否定できない。<直観>は、くじ引きと同じで、当たっているのは殆どと言える。一瞥して何がわかる? ――何もわかりはしまい。



 普通ならばここで、自分Mという存在に何か言葉を贈らなくてはならないところだが、それはむずかしい。相手Yに一言だけ贈ろう。

 偶然にも人間は知的欲求を兼ね添えている。相手Yは、自分Mを、十分知る権利と資格と、言い換えれば義務がある。それは、相手Yという存在が世界に存在している上で、必然的なものである。

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