懸想書簡

淡雪ノ日

手記Ⅰ <愛する芸術>

 人間にはいつまでも愛さなくてはならないものが二つある。

 一つ。自分。自分を愛さねば何もできない。愛すると言えども、溺愛ではない。自分の存在を(とりあえずは)認めておかなくてはならない。

 二つ。他人。壮大で莫大で不特定多数ではなくて、<唯一の>他人としておこう。結局人間はそのために生まれてきたのだ。誰かを愛するために。


 けれども、前述した「自分」と「他人」への愛、それはそれぞれ別の物である。第一に、自分を愛するというのは、生きることと同一のことである。確か昔、「人間が朝起きられるのは、『楽観』があるためである」と耳にしたが、それと等しい。自分自身が生きられるのは、自分自身を憎んでいるためではない。いくら自分自身が憎かろうと、自分と世界をつなぎとめておける手段は一つしかない。「自分が世界に存在する」。世界はどうしようもないから、自分を消せば世界と自分のリンクは切れる。けれども、自分を愛し続ける限り、自分が自分により消されることはない。

 いわば、「必然的な」「本能的な」「無意識的な」愛が、自分から自分へと注がれている。

 そして、それに相反するものとして、「他人への愛」が存在している。これはどういうことか? 乃ち、「自分自身がコントロールすべきもの」であり、「自分自身が間違いなく生み出しているもの」である。誰かを好きに思う、これは間違いなく自分自身と他人がいることが条件であり、且つ、自分自身がその心情を抱いているというのだから、これは偶然でも何でもなく、間違いなく自分自身の<芸術>である。自分自身が作る。インスパイアされるものは何でもいい。画家が更に昔の画家に影響を受けたり、音楽家が日常の音にヒントを得たり、小説家が誰かとの会話を作品に取り入れたり、そういうことだ。結局、「愛」に至るまでには多種多様のプロセスがある。けれども最終的な「愛」は誰も同じ言葉で語られる。

 自分と他人の存在によって、かなりその「愛」の形態は変わるが、創作にも「印象派」「自然主義」「ナビ派」「ロマン主義」「新戯作派」等々、様々なジャンルがあり、或いはそれらが複雑に絡み合っている。しかしやはりそれらはすべて「創作」の域を超えることは出来ない。「泉」にせよ「4分33秒」にせよ、最終的な所は皆「創作」に回帰する。

 そういう点で見れば、「愛」も間違いなく「愛」に回帰することわりであり、確実的な、正当な、最善の自分と相手がいる場では、そこで必ず「愛」は生まれる。語らずも愛は(もし自分と相手が本当に最善の相手であると感じているならば)生れる。もちろんこの世界ではそんなことなど出来るわけがない。「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」ではないのだ。そんなことはそうそうあるわけがない。そのために結局何かしら妥協のようなものがそこに存在しているわけだが、それが、我々が愛を見つけるがために、或いは生み出すがために行動しなくてはならない理由である。

 ならば、その<愛>というものが、間違いなく存在しうる、言い換えれば、存在することができるにもかかわらず、うまく見つけられない人はどうすればいいのだろう?

 私にはわからない。

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