坂道
この坂道を上手く歩けないのは、いつぶりだろう。
初めて来た時は、おじさんに抱えられ意識朦朧と館に入り傷を治す為、すぐさまベッドの中に押し込まれた。
そこから幾日、外に出れるようになり、兄さんたちと出かけるようになり、――さんとお姉ちゃんと買い物にいくようになり、おじさんとお祭りにいったり、そのうちに一人でお使いまで出来るようになったのだ。
町にいる甘味処のおばちゃんや本屋のおじいさん、ああ、服屋の旦那さんにも別れの挨拶が出来なかった。
僕の手を握る――さんの手は、こんなにも暖かく、おじさんのように固い。兄さんたちも、そうだったなあ、一歩一歩が重く後ろ髪を引かれている。
我儘を言えない僕は大声をあげたかった。今すぐ手を振り切り館に籠り「いやだ」と叫びたい。
どうして叫べないのか、叫ばないのか。この時の僕は――さんが悪い人に見えない、見えないと言うよりも、僕を無理やり庇護下に置いたおじさんが「お願いします」と頼んだ人なのだから、悪い人ではないのだ。分かるから叫ばない。不安だけれど叫べない。
ここで我儘を言ったら、きっとおじさんはあの手この手で助けてくれるだろう。自分の立場が悪くなろうとも助けてくれる。一緒にいてくれる。分かっているから苦しい。
「――」
僕は顔を上げた。足元ばかり見ていたから、先ほど会ったばかりの――さんの顔を見るのは久しぶりに思える。
「今は、そうですね、ここは――が生まれた場所です。色々なことを学び、色々な人たちに会えたでしょう? でも――は、このままで良いと思いますか?」
「……」
できれば、ここに居たかった。
「振り向いて御覧なさい」
ゆっくりと振り返る。門は見えないけれど館の窓は見える。そこに兄さんたちが、そっとこちらを窺い、僕と目を合わせると小さく手を振ってくれた。
おじさんは、おじさんはどこだろう。
「……――は、きっとですが玄関でしょうね。――の後ろ姿を、ずっと見てましたから」
僕は――さんを見上げる。
「ここに戻って来れますよ」
「戻って……?」
「もう帰れないと思っていましたか?」
こくりと頷くと――さんは微笑んだ。
「大丈夫、とは言いずらいですが、大丈夫にしましょう。――が、ここで生まれたのであれば、私の家で成長すればいいのです。その為に私は――を迎えに来たのですから。その力を制御し、誰も文句を言われないようにしましょう」
「ちから」
「ええ」と――さんは頷いて微笑む。
僕の力。他者の生命力を奪う力。死の力。誰も彼もが不幸になる力。
――さんの手を繋ぐ間には手袋がある。これがないと僕は生き物に触れない。
僕の目の向く所に気づいた――さんは優しく手を握ってくれた。
「帰ってきましょう。またここに」
ね、と笑いかけてくれた。
僕は頷こうとしたけれども、止めて「はい」と口に出す。前を向くと大きな町が見える。僕を、孵化させてくれた町。そこはまた訪れたいと思える場所。帰りたいと思えた場所。
「……さようなら、て言えなかった」
町の人にも、――さんとお姉ちゃんにも、兄さんたちにも、おじさん、にも。
「さようなら、ではないですから」
「……あ」
――さんは「そうですよ」と言う。
僕はもう一度振り返った。館の窓は二階部分しか見えない。でも見ているとしたなら言わなきゃないことがある。初めて泥と血と腐った臭いがしない場所。清涼な空気が漂う育った町の空気を大きく吸い込んで、人生で初めて大声を出す。
「いってきます!」
この声が、どこまで届いたか分からない。人生初の大声だったから。
反応はない。でも、僕は――さんを見上げて「できました」と言う。そうすると――さんは一層微笑みを深くして、
「行きましょう、――」
僕は足元を見ずに歩き出した。
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