ある日、この館から退去することになった。

おじさんは揉めている様子で、兄さんたちは見守るしかないようで、お姉ちゃんの腕の中で、これからどうなるのだろう、と思う。

一通りの礼儀作法も知らない食事もお風呂も、人との交流も慣れてきたのに。そんな矢先のことだった。

異を唱えるおじさんの声が食堂まで響く。訓練以外の時に声を張り上げる人ではないから、兄さんたちの顔も強張り、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。

おそらく、誰もが結果を知っている。

僕は、ここから出ていくのだろう。誰の下へ行くのか分からない。

けれども、ここでおじさんや兄さん、美味しいご飯を教えてくれた――さん、お手伝いの仕方を教えてくれたお姉ちゃんのことは忘れないでいようと思う。どんなことがあろうとも。

お母さんのような人が僕を連れて行こうとも。

何度かの怒号の後、不意に玄関ドアの鐘が鳴る。

誰もが顔をあげて誰々だと口々に囁いた。

――ああ、そういえば『任務』とやらで居ない兄さんたちにお別れを言いたかったなあ、ベルが鳴っても僕は、ぼんやりと考える。きっと僕を引き取りに来た人だ。そう思ったからだ。

僕の近くに座っていた――さんが腰を上げて出迎えに行こうとしたが、その前に執務室の方からがちゃり、と扉が開く音がした。おじさんの補佐をやっている――さんだろう。

しばしの静寂。――さんはくれた手袋をつけた僕の手を握りながら弱々しく笑った。

一緒に、この食堂で待つ人たちは全員、いや、おじさんの部下の人たちは本当に僕を大切にしてくれた。生きてきた中で一番生きていると感じさせてくれる場所になった。

この時の僕は半場諦めている。絵本で読んだ通り幸せは長く続かない。

お姉ちゃんの腕の中で顔を擦り付ける。いい匂いがする。それに答えるよう抱きしめる力が強くなった。

手を繋ぐことも、抱きしめ抱き上げてくれることも、教えてくれることも笑いかけてくれることも、もう十分だ。呪われている僕は、きっと人生で一番の幸せな時なのだから。

帽子もマフラーもつけている。今日中には出ていくことになるのだろうか、荷物は少ないし、すぐに出ていける。その方が兄さんたちを困らせないだろう。

沈黙が重かった。場を明るくしてくれる――さんだって押し黙ったままだ。

少しして食堂の扉が開かれた。そこにいたのは――さんだった。あとから知ったことだけれど、――さんは土地神みたいな者で、この土地を見守りつつ悠久の時を生きる人、だという。

後ろで控えていたおじさんは、まだ何か言いたげそうだが、僕の行き先は決まった。


最低限の荷物―元々少ないから――さんから旅行鞄を貸してもらい―早々と詰め込んで、僕の荷物は簡単に出来上がる。それを見た――さんは少しだけ哀愁を残した笑顔で「行きましょうか」と言い、僕の鞄を持ち上げた。

おじさんは、まだ何かを言いたげな顔をしている。僕は何となく、ずっと暮らしていこうとしてくれていたのかもしれない、そんな風に思った。

身長の高いおじさんを見上げる。おじさんは不機嫌そうな顔をしながらも僕の身長に合わせて、跪いて「――様の下なら大丈夫だ」と言ってくれた。

僕がこくりと頷くと乱暴に頭を撫でられる。そういえばおじさんは兄さんたちよりも背が高くて前に肩車をしてもらったことがある。怖さもあったけれども丘の上に建つ館から見る城下町は、とても色彩豊かで知らない感情が心を埋め尽くした。あれが『感動する』『綺麗だと思う』なんだろう。

ここで色々なモノを貰った。これ以上の我儘は要らない。

おじさんに、ここで覚えた礼儀作法として「お世話になりました」と頭を下げた。

すると下げた頭の下に白い箱が、ずいっと視界に入る。

顔を上げると差し出していたのは、おじさんだった。困り顔で笑い「ずっと同じ靴だったからな、新しいのをやりたかったんだ」そう言って手提げ袋を――さんに渡し「――をお願いします」とおじさんは――さんに頭を下げた。

おじさんは、この館で一番トップ? な人だったから誰かに頭を下げるなんて僕は吃驚した。

――さんは頷き、袋を受け取ると僕に手を伸ばしてくれる。

「――、ここでの思い出は大切にしてください。何度も思い出してください。そして私の下で色々と学んで欲しいことが沢山あります。大丈夫です、――が心配しないくらいに私が貴方を守りますから」

その手を僕は、おじさんが母の下から連れ出してくれた時を思い出す。

伸ばされた掌、助けに来た、という声。――さんの言葉はおじさんと一緒の声音だった。

僕は「はい」と答える。すれば――さんは笑い、伸ばした手を握ってくれた。

そのあとはトントン拍子で事が進み、急いで帰ってきた兄さんたち、待ってくれた兄さんたち、お姉ちゃんと――さんと別れの言葉を告げて、僕は屋敷から去っていった。

――さんが持つ、僕の靴が入った袋。帽子、マフラー、手袋、用意してくれた服。僕は、この屋敷の住人だ。その思い出が詰まった匂いを嗅ぎながら――さんに連れられて坂を下って行った。

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