四月四日(木)

20.喫煙者

 と、いうこともなかった。

 次の日の朝、羽子さんは普通に通勤して来て「おはよー! 侑ちゃん」と、軽快な挨拶をしてくれた。そんな彼女に私も「おはようございます、羽子さん」と返した。その後も色々と会話をしたが、彼女から『もうお前はクビだから最大限の皮肉を込めて親切にしてやるよ後輩』といったような、どす黒い憎悪の波動は感じ取れなかった。普通に私を許したか、大して気にしていないか、忘れたか、無かったことにしたかのどれかだろう。

 昼頃になると城崎社長も事務室に来た。スーツに、巨大なグラサンはそのままで、口には煙草をくわえていた。

 煙もくもく。

 煙ふわっ。

 ……。

「いや……いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや! ちょっとちょっと社長⁉ 何吸ってるんですか⁉」

「何って……煙草だけど」

 何を訊いてるんだこいつはどこからどう見ても煙草だろうが……とでも言いたげに、右手の人差し指と中指で煙草を挟んで、「ふい~」と口から煙を吐き出す城崎きずき。

「え? え? え? いやいや、そうじゃないですよ! 未成年は煙草吸っちゃダメでしょうが!」

「未成年じゃねえよ。あたしは二十歳だ」

「……? どういうことですか?」

「今日、四月四日は、あたしの二十回目のバースデイだっつうことだよ。合法だ合法。二十歳の大人がヤニ吸って何がまずいよ?」

「ヤニって……」

「モク吸って何が悪いよ?」

「モク……」

 もくもくと煙を口から吐き出す社長。

「いや……どこからどう見ても今日から煙草を吸い始めた女子には見えないんですが」

 貫禄がすごい。絶対初めてじゃないだろ。

「何だよ、有馬。あたしが未成年のときから吸ってたっつう証拠はあんのか? 仮にあったとして、通報でもする気かよ?」

「いえ……別にそういうわけじゃ」

「いいかよく聞け有馬侑。違法と犯罪は同義じゃねえ。法に縛られる者は、同時に法を縛ってるんだよ」

「意味分かりません」

「当たり前だ。適当に言ったんだから」

 そう言って社長は、地面に煙草を投げ捨て、足裏で踏みつけた。ぐりぐり。

 ……。

「で……だけどよ」

「放置⁉」

 放置した⁉

「ああん? うるせえな有馬、さっきから。こんなときだけ年長者ずらしてんじゃねえぞ」

 ギロンと私を睨みつけてきた。

「いや……社長なら、もう少し社長っぽい行動しましょうよ。社員の模範になるような」

「別に社長だからって煙草ポイ捨てしちゃいけねえ理由にはなんねえだろうが」

 言ってることが無茶苦茶だ。何と返したらいいか分からない。

「……」

「……」

「……」

 私と城崎社長と羽子さんの三人は、同様に押し黙った。ピリピリした気まずい空気が流れ、その後しばらくしてから、社長が、

「……ま、いいだろ。そんなこと。これで、てめえとあたし、お互い二十歳だ。同い年同士仲良くしようや」

 と言い、ポンと私の肩を強めに叩いた。同い年同士って、年齢がたまたま同じになっただけで、学年は私の方が一個上なのだが。

「で、あたしのイスはどこよ?」

 ……。

「あ」

 そうだった。事務室にイスは二つしかない。私と羽子さんが着席していて、社長が一人立っているという状況だった。麻雀台にでも座らないのかな座りそうなキャラなのに……と思ったが、台の強度的にそれは無理なのだろう。ぼろいし。てか、何で新しいの調達しないんだろう、この会社。

「おい、羽子。膝の上に座れ」

「うん。分かった」

 ぴょこんと立ち上がる羽子さん。空いたイスに座る社長。そしてそんな城崎社長の膝の上にちょこんと座る羽子さん。

「おい」

「ん? 何?」

「何? じゃねえよ。有馬の方が体でけえんだから、そっちの膝の上座れよ」

「……やだ」

 羽子さんは社長のスーツの袖をぎゅっと握りしめた。今さらだが、羽子さん、社長といるときだけ妙に退行するというか、動作や口調が子供っぽくなるような感じがする。

 ……。

 羽子さんは……昨日のことを、覚えているのかもしれない。いや、覚えているに違いない。昨日の今日だ。冷静になって考えてみれば、忘れるはずがないのは明らかだ。言いつけられることはないだろうけど、若干壁ができてしまったかのような、そんな気がした。

 私は心の中でため息を吐いた。

 ガタン、ガタンと、社長がイスを前後に揺らし始めた。イスの四脚のうち、後ろ二つを地面に接しさせて、前二つを宙に浮かしてグラグラやるアレだ。小学生男子がよくやるアレ。「あぐっ、あぐっ」と、羽子さんが何ともいえない絶妙な表情をして、声を上げる。

「で? どうよ、有馬。いいキャラはできたか?」

「ぼちぼち作成中です。舞台設定とか周囲のキャラとかも決める必要が出てきたんで、そこら辺がまだ決まってないんですが」

「舞台設定? ああ、下に行ったってことか」

「はい。羽子さんと一緒に」

 その羽子さんは、イスの衝撃をもろに受けて目を回している。気絶はしていないようだけど……。

「で? 周囲のキャラっつうのは? てめえ、キャラを複数作ってるのか?」

「はい。ええと……主要キャラクターの魅力を引き立てるために、そのキャラクターに対しての囮といいますか、対になる存在といいますか……」

 何と言えばいいのだろう。あるキャラの魅力を引き立てるための別キャラ。名シーンを演出するための舞台装置としての別キャラ。

「かませ……ってことか」

「ああ、はい。それですそれ」

 かませ、だ。

「なるほどねえ……まあ、あたしとしてはキャラ一体を見せてくれれば、それでよかったんだけどな……てめえが舞台とかシーンでこだわりたいって言うんなら、こだわったらいいんじゃねえか?」

「え?」

 何というか……意外にも適当だった、社長。私はてっきり『最高のキャラを最高の演出で見せろ』と、命令されたとばかり思っていたから。

 確かに。そう言えば、彼女は初日、私に対してきつく当たりはしたものの、仕事にどれくらいの力を注ぎこむようにとか、どれくらいのパフォーマンスを見せないとクビだとかは言わなかった。ただ『有馬侑の考える最高のキャラを見せろ』と、それしか言っていない。どの程度までキャラクターを作り込むか、どの程度までそのキャラを見せるかは、私のやる気具合に任されていたということだ。

 しかし、社長は、

「ま、あたしはてめえがそういう奴だってことは分かってたんだけどな」

 と、付け加えて、にやりと笑った。

「そういう奴……ですか」

「てめえはそういう『キャラクター』だっつうことだよ。基本面倒くさがりだけど、やると決めたらとことんやり込む。やり抜く。そういう『キャラ』なんだよ、てめえは」

 ……そう、だろうか。

 確かに、私は真面目で勤勉な優等生……なんてことは決してない。そうではないと、自分では思っている。しかし……確かに、やる気になったら、それなりに『凝る』タイプかもしれない。昔も今も、そして、これからも。

 でも、何で社長はそんなことまで知っているのだろう? 履歴書にそこまで書いた覚えはないし、面接の際にそんな話をしたかといえば、そうでもない。というか、面接会場に城崎社長はいなかった。いや、そもそも私はこんな会社に入社するつもりはなかったのだ。こんな無人島であれこれやるような会社には。普通の会社……都内に本社を構えるベンチャー企業『ヒロインワークス株式会社』に就職したはずだったのだが……。

 ……ダメだ。

 冷静になると発狂しそうになる。それほどにまで、今の私の状況は常軌を逸している。主観的に見ても、客観的に見ても。

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