11.軋身朱穂

 ビル内のエレベーターを降り立ったら、そこは廃墟だった。

 ……まあ、分かっていたことだけど。昨日と同じだ。灰色を基調とした、ボロボロで、人の手がかかっていなさそうな建物に、青い空、白い雲、緑の木々に、鳥の鳴き声。無人島であることは確かなのだが、どこの島かは分からない。それほど暑くないから沖縄とか南西諸島ではないと思う。となると小笠原諸島のどこかだろうか。いや、小笠原諸島もそれなりに暑いんだっけ? そもそもこの廃墟、元は何の施設だったんだろう……?

 ……。

 疑問点を挙げるときりがない。

 始業時間の十分前だ。昨日、早めに来たはいいが、その後一時間くらい誰も来なかったことを思い出した。羽子さんも城崎社長も、始業時間をきっちり守るタイプではないのだろう。まあ、社員が私を含めて三人、私を除けば二人だ。会社というより、ほとんどサークルみたいなもの。それほど厳しい規則もないのだろう。

 廃墟を歩き、事務室に向かう。昨日の午後のうちに、エレベーターのある部屋と事務室を何往復かしてその道筋を頭に入れておいたので、難なくたどり着くことができた。予想通り誰も来ていない……なんてことはなかった。

 頭の大きさを超えるほどの、巨大な赤色のお団子を後頭部に宿し、

 黒を基調とした柄の無いドレスを身にまとった、

 女の子が一人、そこに立っていた。

 私を見ている。

 知らない子だ。羽子さんでもなければ城崎社長でもない。白い肌に、赤い髪の毛に、そして赤い片目。もう片方の目は髪に隠れている。右手には軍隊で使うような巨大なナイフを持っている。そして、一番の特徴と言えるのが包帯だ。頭からドレスにかけて、所々に血が滲んだ包帯が、ゆったりと巻き付けてある。

 その子が、左手を上げる。手首が上に来るように、掌が上に来るように、腕を持ち上げて、私を指した。

「汝……有馬侑」

「あ、ええと八時五十三分です」

 スマホの画面を見て、答えた。

「……あなた」

 あ、何時じゃなくて汝か。ううむ……冷静になって考えてみれば文脈、というか雰囲気で分かったはずなのだが。私の頭の中には『出勤した』という事実が鎮座していたため、取り違えてしまった。せっかくの個性的な二人称が……申し訳ない。

「貴様に……万物の生命の叫びを」

 二人称が安定してない。『汝』なのか『あなた』なのか『貴様』なのか。

 そんな少女は、右手に持っていたナイフで、自らの左手首を切りつけた。切り口から赤黒い血があふれ出し、左掌に滴る。指を伝って地面にぽたり、ぽたりと落下する。落ちた血液は床に血だまりを作り……はしない。地面に吸い込まれていった。

 やがて。

 私は、自分の立っている場所が、床が、ひどく柔らかくなるのを感じた。それでいて生暖かくなるのを。それに続いて、上下左右、四方八方から、バクリ、バクリという一定の間隔の振動音が聞こえてきた。

 これは。

 脈動だ。

 文字通りに。

 床が、生きている。

 生命贈与(だったかな?)の力だ。箱根羽子さんが考案した異能力。主の血を浴びた非生物が生物化する。

 昨日は人形だった。人の形をした物体、それに人の形の生命が宿った。しかし、今朝は建物だ。荒廃した建造物。これに、どのような形の生命が宿ったというのだろう。歩く建物?

 足が触れる、この感覚。ぶよぶよして、まるで、そう……誰かを踏みつけているかのような感覚がある。人か、あるいは動物を足で踏みつけるような、そんな嫌な感触だ。

 廃墟が、動物化した。

 黒ドレスの少女が前へ、私の方へ、一歩足を踏み出した。見ると、ハイヒールを履いている。足と地面との接触面積が小さいがゆえに、地面が生命を持ち、柔らかくなってしまったがゆえに、ヒールのかかと部分が半分くらい地面にめり込んでしまっていた。

 歩きずらそうだ。

 両手を広げて、よたよたと、バランスを取りながら私に迫って来る。そんな彼女に、意を決して話しかけてみる。

「目的は……何ですか?」

 距離を詰めてくる少女。そんな彼女は顔を上げ、私の目を見る。私と目が合う。片方だけの、赤い目だ。

「下僕……」

「下僕?」

「そうだ。下僕……うぬを、我が下僕にしよう。我が元で、無限の生を謳歌するのだ」

『うぬ』って。また二人称が変わった。

「断ります。私には、大切な仲間がいるので」

 乗ってみることにした。それっぽい台詞を吐いてみる。

 すると、地面から何かが盛り上がって、私の右真横に現れた。生暖かい息が顔にかかる。生臭い臭い。腐乱臭ではない、純粋な『生』の臭いだ。自然界の動物たちの体臭をブレンドして濃くしたような臭い。恐る恐る、ゆっくりと首を回していき、それを見る。

 灰色はそのままだ。廃墟の床の色は変わらずで、形が変わっていた。人間の腕だった。肘から手首、掌、指にかけての巨大な腕が、地面から生えていた。

 さらに、腕の先端部、五本の指から掌、手首、肘にかけて、無数の『蟲』が生えていた。蠅にゴキブリ、蛾にゲジゲジ、百足、羽根虫……それらが蠢きながら、甲高い笑い声を上げながら、呼吸をしていた。吐いた息が吹きかかる。

 私は動かない。微動だにしない。

「……まあ、いい。下がれ」

 ぐちゃり、ぐちゃりという汚い音を発しながら蟲たちは腕の中へ戻っていき、腕も地面の中へ戻っていった。

「今回ばかりは見逃してやる。だが次はきさ……」

 言いきる時間を与えず、私は少女に素早く接近し、彼女の胸元に入り込んだ。右手のナイフを弾き飛ばし、ドレスの襟部分を掴み、少女の体を持ち上げて、背中の上に載せる。腰と脚に力を込めて、そしてそのまま「そいやっさー」と、投げ落とした。

 柔道の技だ。技名は忘れたが、とにかく昔習った技。それを黒ドレスの少女にかました。廃墟の床が柔らかくなっているということもあって、受け身を取る必要もなく、赤黒い少女は「わっ!」と悲鳴を上げながら倒れ、バウンドした。

 それを上から抑え込む。少女の胸の上に、自分の体を乗せ、全体重でがっちりと固定する。

「何をする……お主……」

 圧迫されているがゆえの、くぐもった声での抗議が、真下から聞こえてきた。

「おはようございます。羽子さん」

「くる……し……」

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