第7話  変化 -1-

 あの日逢来と話をしてから早一ヶ月、僕の生活にはほんの少しだけ変化が訪れていた。といっても、それは言葉通りで微々たるもの。一週間の内に二、三度はあのカフェで話をするようになっていた。

 他人と話をする事が不得手な僕だったが、不思議と逢来ならばすんなり話す事ができた。同じ趣味を持っていたからなのか、彼女特有の雰囲気がそうさせたのか。これまで音楽の話を深く話す事ができていなかった反動なのか、自分でも驚いている。

 カフェで必ず会う日は決まっていて、月曜日と金曜日。その間の三日間は気が向いたらの程度だった。

 今日は金曜日、逢来と会う日だ。すっかり慣れてしまった足取りで、『クレセント』へと向かった。先に到着するのは決まって僕の方で、その度にカフェの店長から訝しげな視線を送られていた。


「いいかげん慣れてよ、お互いにさ……」


 聞こえない程度の大きさで、自嘲気味に呟いた。先に注文しているのは何故か躊躇われたので、彼女が到着するまで定位置となった窓際の席で外を眺める。

 それから十分が経った頃、朗らかな声と共に店内へと入ってきた彼女は、それだけで店の雰囲気を明るくさせた。迷いのない動きで僕の元へと歩いてくる逢来は「やぁ」と言って小さく手を振った。


「お待たせ、鞍嶋君。確か今日は君の番だったよね?」

「あぁ、ちゃんと持って来てるよ。今鞄から出す」


 僕と彼女がこうやってカフェで会い、普段何をしているのかといえばこれだ。


「先週貸したバンドのファーストシングルだよ。今と比べると、どうしても荒っぽさが見えてしまうんだけれど、それが良かったりする」


 音楽の趣味が合う者同士、お勧めの曲を聞かせ合おうという話になったのだ。これでCDの貸し借りは何度目になるか、数えるのが面倒になってからは覚えていない。


「ありがと、月曜日に返すね」


 その後は、前回貸したCDの感想について話し合った。ここが良い、あそこが良い、互いに思いの丈をぶつけ合っていく。流石に全ての意見が一致する訳が無く、時として全ての好みがずれてしまう事もあった。しかしそれが興醒めだと感じずに、そんな考えもあるのか、と思える自分がいた。


 かれこれ一時間は話しただろうか。たった一枚のCDでこれだけ話す事ができる僕らは、きっと周りから見れば異質に見えるだろう。

 ずっと誰かと、こうやって話してみたかったんだ。我慢し続けて数年、溜まりに溜まったものが溢れてしまった影響なのかもしれない。僕がこれ程話せるのも、それが原因なのかもしれない。となれば、そんな僕に対して話を完璧に合わせられる逢来に興味が沸く。どうして彼女は音楽を聴くのか、そのきっかけは何だったのか。


「逢来さんはさ、どうして音楽を聴くようになったの?」

「私? 話した事無かったかな? 兄さんが音楽活動をやってて、その影響だと思う」


 窮屈な現実から目を背けている内に音楽にはまった僕と比べると、とても正当な理由だと思った。


「え、お兄さんバンドやってるの? どんな名前で活動してるの?」

「いやぁ、知名度低いからさ、きっと君でも知らないよ」


 そう言って誤魔化されてしまう。そういった身内の話が恥ずかしいのだろう、逢来は少し困った顔をしていた。家族の事に関しては、僕もあまり触れられたくは無い。ここはお互い様だな、と思ってそれ以上聞くのを止めた。


「それじゃあ、何か楽器とか弾けるの?」

「いや、私は聞く事しか出来ないよ。あ、でも歌にはちょっと自信があるから、ボーカルならやれるかもしれないね」


 おどけた仕草でマイクを握る振りをする。そんな彼女を見ていると、じわじわ笑いが込み上げてくる。そんな僕の様子を見て満足したのか、彼女も得意げな顔をしている。


「君はいつも、そうやって楽しそうに振る舞うよね。羨ましいよ」

「えー、何それ。そっちは楽しくないって言うの?」


 膨れた顔でそう言う彼女は、「私と話しているのに失礼じゃない?」とでも言いたげな様子だった。


「今は勿論、楽しいよ。でも、普段はそうでもないかな。ほら、逢来さんの前でこういう話を持ち出して悪いんだけど……人間関係とかさ、そういうのって面倒だと思わない?」

「そうかな。人間らしくて私は良いと思うけど」


 想像とは違う返事に、少し驚いてしまった。それも迷い無く言われたものだから尚更だ。

 虐められている彼女にとって、これが一番分かりやすい例になると思っていたのだが、そうでも無いらしい。思い返してみると、以前彼女が火傷を負った際、何とも無いと言う表情でいた事があった。あれは見栄なんかではなくて、本当にそう思っていたんだなと再確認する。


「そっか……僕にこの人生は不向きとしか感じられないけど、逢来さんみたいに前向きでいられたら少しは変わっていたのかな」


 愚痴のように零してしまった言葉は、自分でも意図したものではなかった。友人の佐武にも高津にも話していなかった部分だ。余計な気を遣わせるまいと避けていたのだが、学外でしか会わない彼女には気が緩んでいたのかもしれない。正直な所、もしも自分がそんな愚痴を吐かれたとしたら面倒でしかない。

 やってしまったと、恐る恐る逢来の方を向いてみれば「はぁー」と肺の中の空気を全て吐き出す勢いで溜息をついていた。呆れた表情をした彼女を見て、コロコロと顔を変える人だなと思った。


「鞍嶋君、あなたの人生に向きも不向きもありはしないわ。向いていないと感じるって事は、あなたが何も行動を起こしていない証拠になるんだよ」


 説教じみたその言葉に、少しだけ苛立ちを覚える。冷静になろうと思って、先程頼んでおいたアイスコーヒーを喉の奥に流し込んだ。


「不向きだ、理不尽だ、そう思った時にあなたは、それを覆してやろうって何か行動をした? そういう時何もしてこなかった人に限って文句を言うものよ」

「随分な物言いだね。中学生の僕らが何か行動を起こしたって、どうにもならない時だってあるんだ。個人の物差しで他人を計れるだなんて、そんな単純な話でもないだろう」

「そういう常識が付きまとっている内は駄目だよ。生きる環境とかは勿論、影響あると思うし、君の言う通り偏見が混じっているのかもしれない。でも、それだけで諦めてしまうのは勿体無いじゃない? 君はそう思わない? たった一回の人生だよ、いつ死ぬかわからないんだから、躊躇っている内に終わってしまうよ?」


 お互いに一歩も譲らない。そうだ、彼女はこういう性格だった。自分の中に真っ直ぐな信念を持ち、思った事ははっきりと口にする。彼女が虐められるようになったのは、それも原因の一つだったなと思い出す。


「……勿体無いなんて、思えないよ。いつだって僕は脇役で、僕の目の前には常に越えられない存在が立ち塞がっているんだ。僕の人生に、意味なんて無い」


 自然と壱哉の顔が頭に浮かんだ。尊敬と、嫉妬の対象。いつも憧れている筈なのに、心のどこかでひがみの対象になっている存在。


「あなた、その人を理由に逃げているんだね」


 図星でしかないその言葉を、僕は黙って聞く事しかできなかった。


「……わかった。それじゃあ、こうしましょう。私がその、意味ってやつを鞍嶋君と考えてあげる」


 そういって彼女は人差し指をピンと伸ばして顎先に宛がう。考える素振りを見せたかと思えば、何か思いついたようで、手をパンと打ち鳴らした。


「それじゃあ、君を脇役に貶めているその人を超えてみて」

「それは……無理だろう……」


 思い浮かべている相手はあの壱哉だ。きっと名前を出せば逢来も知っている筈だが、今ここで話題にあげてしまうとその関係に勘付かれる可能性がある。僕と壱哉が兄弟である事は、逢来にだって秘密にしてきた。

 思い切って、話してしまおうか。未だ教師しか知らないこの事実を、彼女にも打ち明けてしまおうか。

 そんな考えが頭を過ぎるが、それはつまり「壱哉と僕を比べて下さい」といっているようなものだ。そればかりは、いくら相手が逢来でも嫌だ。


「無理って、一度でもその人に勝とうと努力した事はある? いろんな角度から、その人と向き合った事はある? この一ヶ月話してきて大分理解してきたけど、君の事だからそんな経験ないんでしょう?」

「確かに、そうだけど……」


 やらなくても分かってしまうのだ、何をしても壱哉には勝てないという事が。その決定的な事実が、いつも僕の足を怯ませていた。


「だから、まずは何か一つでもいいから勝つ事から始めよう。例えば音楽とか。私とこれだけ話せるんだから、すごい量の知識持ってると思うよ」

「趣味の話を、勝負事に引き出しても良いのかな……」

「良いに決まってる! きっかけは何だって良いの、深く考えちゃ駄目よ」


 はっきりとした声に、自信たっぷりの表情。やけに説得力のある話し方に、段々と傾いていく自分がいた。確かにそうかもしれない、気が付くとそんな風に考えている。「そうやって――」そこまで言って彼女は言葉を区切らせた。自然と彼女の目に、僕の視線は引き寄せられる。


「そうやって、小さな勝ちを積んでいく内に見えてくるよ、自分の人生の意味が。だからさ――君の逆転劇ってやつを、いつか私に見せてよ」


 やけに鮮明に聞こえてきたその言葉は、幾度も反射しては頭の中に響き渡る。


「――わかった」


 答えは、意外にもすんなりと言葉にする事ができた。


「いいね、一緒に頑張っていこう。楽しみにしておくよ」


 口上ではあるが、彼女との約束が結ばれた。

 彼女となら本当に実現できるんじゃないか、そう思わせてくれた。

 気が付くと外は暗く、時刻も十八時目前といった所だった。彼女とこうやって話すようになって初めて、語気の荒い会話をした気がする。それはつまり、お互いの未知の部分に触れたという事だ。冷静になってみると、少し芝居がかったようなやり取りに思えて少し恥ずかしくなる。

 そろそろ帰ろうか、という彼女の言葉に助けられて気分を紛らわす。店外に出て、別れ道に差し掛かる。


「約束、さっそく守って貰うからね。次に会う時……月曜までには、何か一つ位は行動してみてね」

「そんな早い段階でやらないといけないの?」

「いつからとは指定してない。楽しみにしてるから」


 ほとんど一方的に言い放ち、彼女は帰路へと着いた。相変わらず僕は何も言い返せずに、その背中を見つめるだけ。


「きっかけは何だって良い、か」


 その言葉で自らを奮い立たせ、その足で家へと向かった。






 そして、晩。

 年に数回しか入らない壱哉の部屋の前に、僕はいた。跳ね上がる心臓を抑える、扉を軽く叩いた。手には一枚のCD。このバンドを知っているか? という建前をぶら下げ壱哉に質問を投げ掛ける。


 ――いや、知らないな。


 その言葉を聞いて、心臓が更に跳ねるのを感じる。

 壱哉の好きなアーティストの血縁関係に当たる人がこのバンドの中にいる。きっと好みだと思うから、良かったら聞いてみて欲しいと、殆ど押し付ける形でCDを渡した。

 そうなのか、知らなかった。ありがとう、聞いてみるよ。

 その言葉を待ち焦がれていたかのように、身体の表面が泡立つ。

 なんだ、こんなに簡単な事だったのか。僕に壱哉の知らない知識があるなんて、思ってもみなかった。

 他人からみれば、それはただ日常会話をしただけだと言われるかもしれない。でも、僕はこれだけ、こんな小さなモノだけで満足できる。壱哉もきっと、僕に知識で劣っただなんて考えてもみないだろう。


 きっかけは何だって良い。


 案外順調なスタートを切れた。どうだ、見たか逢来。

 早く月曜日にならないかと、そう待ち望んでいる自分を見つけて少し可笑しくなった。

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