第2話     -2-

 こんなに学校から離れた場所で出くわすという事は、きっと相手の家もこの近くなんだろう。そんな人間に僕という存在が見つかれば、これまで必死に空気を演じてきた意味が無くなってしまう。

 頼む、願わくば他学年の生徒であって欲しい。後輩であれば尚良し、上級生だった時が一番困る。

 幸いにも、相手は頭にヘッドホンを着けて集中しきっている。遠くから様子を伺って、立ち去るのを待つしかないだろう。

 そう思い女子の死角になる位置を選んで回り込み、スカーフの色を確認する。クリーム色なら同級生、えんじ色なら下級生、赤色なら上級生だ。

 CDを手に取り、顔を伏せながら盗み見ると、その女子のスカーフはクリーム色、つまり同級生だった。誰だ、どっち側のやつだ。虐める側なのか、それとも見てみぬ振りを貫く調子の良いやつらか。見てみると、小動物のような愛らしさに品性を兼ね備えた顔があった。


「あれは……逢来ほうらい……か?」


 つい数十分前、僕は面倒ごとに巻き込まれたくないという思いだけでその場から逃げた。その時、女子数人に取り囲まれても尚強くあろうとしていた女子、名前は逢来。下の名前は覚えていなかった。

 先程まで虐められていただなんて想像もつかないような顔で、彼女はそこに立っている。

 その時自分がした行いを思い返すと、この場にいるのが段々といたたまれなくなってくるが……せっかく楽しみにしていた新譜だ、できれば今日の内には買ってしまいたい。

 少し待てば居なくなるだろう。そう思って、逢来に意識を傾けたまま店内をふらついてみる。棚にあるCDを片っ端から手にとって眺め、あくまでも自分は客としてこの場所にいるんだというアピールをした。途中で便所に行く振りも挟んでは、その時が来るのを待つ。


 それから二時間は経過しただろうか、逢来に動く気配は未だ感じられない。

 なんだこいつは、暇なのか? 流石にこれだけ待てば去ると思っていたが、なかなかどうして思うように事が進んでくれない。時間を確認すると、もうそろそろ十八時になりそうだ。帰宅部の僕が遅い時間に家に帰るのは、あまりよろしくない。親には良い顔をしておくものだ……まあ、既に手遅れかもしれないが。

 諦め――いや、半ば自暴自棄になって彼女との距離を詰めていった。不思議と足取りは軽く、自分の足に躊躇いは見られなかった。きっと、これ以上我慢するのが耐えられないという欲が勝ったのだと、後になって思う。

 それが吉と出るのか、凶と出るのか……その時は深く考えなかった。

 全く、一体何が逢来をこの場所に惹き付けて放さないというのか。今までは見つかってしまう事を恐れて確認できていなかったのだが、それはもう止めだ。僕の目当てである、今週の新譜が売られている棚。何十人と並ぶアーティスト達の中から、逢来は一体誰を目当てにしているのか。

 むくれた顔で後ろから近付いていく僕の姿は、きっと不審人物に違いなかっただろう。それでも構わないと思いながら進み、彼女が手にしていた物を盗み見る。

 するとそこには、何度もネットの告知で目にしてきた、決して見間違える事などないデザインの……そう、『LunaLessルナレス』のCDがあったのだ。殺風景な教室に置かれた一つの机。プリーツスカートの、恐らく制服を着た女性がそれを荒々しく蹴り飛ばし、倒された机にはバンド名がペンキ文字で無骨に書かれている。そんな一瞬を切り取ったデザインだ。


 まさか、そのバンドを知っているのか?

 まさか、逢来は、僕と同じ趣味の人間なのか? 

 まさか、そのCDパッケージをずっと見続けていたのか?

 まさか、それだけの為に僕はずっと待たされていたというのか?


 様々な疑問が頭の中を一瞬で駆け巡った。その動揺が頭の中で大人しくしてくれず声になって溢れてしまったのかは分からないが、思わず「嘘だろ」と声を漏らしてしまう。そうやって狼狽する僕に逢来は振り返り、冷たい声で短く言い放った。


「痴漢の人?」

「違う!」


 同級生にこんな所で見つかってしまったのもそうだが、そのCDを手にしていた事も気になって仕方が無い。それに、チクリと刺してくる冷ややかな視線も心臓によくない。

 普段から必要以上に人との会話を避けてきた僕は、こんな状況に相応しい言葉を見つけられずに冷や汗をかき始めていた。全く役に立たない脳みそを恨んでも、時間の流れは変わらない。だというのに一秒一秒がやけに長く感じられたのは何故なのか。

 あぁ、情けないな……そして、困ったな。明日にでもこの出来事がクラスに広まってみろ、きっと虐めの標的は逢来から僕に変わる。僕ならそうする。

 劣悪な環境から逃げ出す為に人は、時に酷く残酷な存在になる。他人の不幸にはてんで無頓着な、醜い生き物なのだ。

 虐められる事が分かっているのならば、一層の事、登校拒否をして未然に防いでしまうのはどうだろう? いや、それは駄目だ。家の中にずっと引き篭るだなんてそれこそ地獄に違いない。

 血の気が引いていって、段々と頭がぼんやりとしていた。きっと酸素を上手く取り込めていないのだろう。そんな僕の事を黙ってみていた逢来は、遂に堪えきれなかった、といった風に笑いを吹き出した。


「ふっ、あはは。冗談だよ、痴漢だなんて疑ってないって。確か……くら……あ、鞍嶋君だったよね? こうして話した事は無かったから、初めましてかな?」


 いつも学校にいる時に見せているような、取り繕った笑顔で彼女はそう言った。いつも遠くからしか見ていなかったが、こうして真直で見ると確かに整った顔だと思う。

 背はやや高く、この年頃の平均的な身長を持つ僕から見ても、それほど下を向くのに苦労はしない。右眉の上辺りから分けられたセミロングの髪は綺麗に伸び、よく手入れされているのが分かる。その下から覗く表情は、自信に満ち溢れた凛々しく大きな目で、真っ直ぐに僕を見据えている。桜色に染まった唇や、柔らかく漂う彼女の雰囲気が愛嬌をそこに付け足している。

 なるほど、納得だ。これは男子の視線を釘付けにするだろうし、女子からは目の敵にされるだろう。顔の良さは時として仇になる事が、例として良く分かる。


「あれ、同級生だよね? 私って変な意味で目立つから、名前くらいは覚えてくれてると思ってたけれど、もしかして私の事知らない?」

「いや、ごめん。少しどうしたら良いのか分からなくなってた。勿論知ってる」


 逢来に見惚れていた部分もあってか、痴漢だとからかわれた事実を忘れかけていた。ふざけてみせたのに、これといって反応を示さなかった所為なのか、少しだけ不服そうな表情をみせる彼女。それすらも愛らしく見えるのだから卑怯だと思う。


「ああ、良かった。それじゃあ自己紹介とかは別にいらないよね?」

「逢来さんの方はいらないと思うけど、僕の事分かるの?」


 先程まで明日からの学校での身振りを考えていたが、彼女の様子を見ていても僕を売ってしまおうだとかそんな様子は感じられない。だからなのか、少し位話してみても良いだろうと自分を誤魔化した。どうせ今この瞬間しか僕と彼女の時間が交わる事は無いのだから、別に構わない。

 ――そう、思っていた。


「わかるよ。クラスメイトなんだもん。まあ確かに、あなたって目立つタイプじゃないから名前が出てくるまでほんの少し躓いたけれど、ちゃんと覚えてるよ」

「それは、どうもありがとう」


 空気である事を常に意識して生活してきたというのに、実際はそう上手くいかないらしい。顔も名前も思い出せない、卒業アルバムを開いた時に「こんなやついただろうか?」と思われる位で丁度良かったのに。

 何ともいえない苦い表情をしている僕に、彼女は試すような口振りで質問を投げかけた。


「ところで、私のクラスでの立ち位置ってわかるよね? いいの? そんな子と一緒に話をしていても」

「別に……大丈夫だよ。それは結局、この場面を誰かに見られてから危惧する内容だからね。こんなに学校から離れたCDショップで同級生に遭遇するなんて、そうそう無いと思うし」


 くすくすと笑う逢来は、意地悪そうに言葉を返す。


「私とは遭遇しちゃってるけどねぇ?」

「これは、例外という事にしておくよ」


 そっかそっかと納得しながら笑う逢来を見ていると、今度の笑顔は学校じゃなかなか見れないものだなと思った。いや、見られなくなったと言う方が正しいのかもしれない。それこそ、中学一年生のまだ虐めも無い頃は今のような表情をよくみせていたと思う。


「それで、私に何か用だった? さっきからずっとこっちを見ていたよね?」

「え、気付いてたの?」


 当たり前でしょう? という感じで「うん」と返された。しっかりと弁明しておかなければ、ただのストーカー行為でしかない。


「ち、違うんだ。僕はただCDを買いに来ただけで、他意は無いんだ。本当に。それだけは信じて欲しい」

「へぇ。CDを買いに……あ、この棚? もしかして邪魔しちゃってたかな?」


 それならそうと言ってくれればいいのに――と彼女は言うが、クラスの日陰者である僕のような人間の事も考えて欲しい。それが出来たらとっくにしている。空気である為には徹底しなければだめなんだ。それは学校の中でも外でも変わらない。しかし、日陰者という括りにしてしまうと、現に虐めを受けている彼女も日陰者に当たるのだろうか? そんな事を一瞬考えたが、すぐに頭の片隅へと消えていった。


「ちなみに、何ていうバンド?」

「あぁ、今君が手にしてるCD、僕が買いに来たのはそれだよ」


 それ、と言って僕は彼女の手元を指差す。その動きに合わせて彼女も「これ?」と言って指を差す。僕が小さく頷いてみせると、彼女の表情はパッと花が芽吹いていくように明るくなっていく。


「え、鞍嶋君もこのバンド好きなの? 本当に?」

「本当に。こんな所で嘘をついて何になるのさ」

「そっか……そっか! まさかこんな身近にファンがいるなんて思わなかった。うん、嬉しい」


 右の頬を掻きながら、そんなに? と思うほど彼女は喜びを露わにしていた。しかし、気持ちが分からなくも無い。『LunaLess』はまだまだ伸び盛りのバンドだ。ファンの数もまだ多くない。この出会いが貴重かどうかと言われれば勿論、ましてや同じ学校の同級生とだなんて、こんな偶然なかなか無いだろう。


「じゃあ、そろそろ買いに行きたいんだけれど、いいかな?」

「あ、ごめんね引き止めちゃって……はい、どうぞ」


 少し会話をし過ぎてしまった。今すぐにでも家に帰り、自分の部屋に篭って一人の世界に溶け込んでしまいたい。


「ありがとう。それじゃあ行くね」

「うん、さよなら」


 どうせ次に学校で顔を合わせても話す事などないだろう。そう思うと、後腐れなくこの場を立ち去れる。後ろで小さく手を振る彼女の事を、僕は一度も振り返らないまま歩いていった。

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