特急わかしお十二号
【上総一ノ宮駅 12:30】
初めて降りたこの駅は、どことなく潮の香りが漂う静かな趣だった。このまま九十九里浜までのんびりと歩いてみたい、そんな思いを振り払って高架を渡り、特急の発車ホームへと急ぐ。
(東京着が十三時三十五分か。上手くいけばプレゼンにも間に合うかもしれないな)
ここからは、今来た経路を東京へと戻ることになる。
さすがに、そういった行動をとる乗客は俺しかいない。
つまり、警察の尾行がないことも相手には確認できる。と言うことは、俺を見張っている奴もここで交代しているはずだ。
(今なら連絡できるかも)
スマホを取り出し、通話を――いや、やっぱりできない。
どこかで見られていたら、子どもの命が……。
再びバッグへと戻し、電源も切った。
【上総一ノ宮~茂原間 12:35】
特急わかしお十二号は定刻通りに上総一ノ宮駅を出発した。
六号車の自由席へ乗り込むと、思っていたより空席が多い。
犯人からの指示にすぐ対応できるよう、通路側の席に座った。
俺が推理した金の受け渡し方法は、指定された駅で発車間際にトートバッグをホームへ投げ落とす、というものだ。
何も遠くへ投げる必要はない。
扉が閉まる直前にホームへ落とすようにすればいい。
犯人は何食わぬ顔で拾い上げて立ち去ることが出来る。
ホーム側から投げ入れられたのであれば、爆弾や薬剤によるテロを考慮して緊急停止するかもしれないが、車内から投げ出されたならば車掌も気には留めないだろう。
すぐに当該駅へ連絡を入れたとしても、駅員が確認する頃には犯人も逃げ去った後で何も残っていないはずだ。
問題は、どの駅か。
東京までの停車駅は順に茂原、大網、蘇我、海浜幕張の四つ。
万が一、金の受け渡し後すぐに俺が通報した場合を想定すれば、次の駅までの到着時間が長いほど、犯人側にとっては有利になる。
そう考えると、発車後は二十分以上も停車しない海浜幕張が第一候補か。
ただ、乗降客も多いから受け渡し時のトラブルも予測される。
その点では大網の方がいいかもしれない。
【茂原駅 12:41】
二十分ほど前に見たばかりの景色を巻き戻すように、特急わかしおがホームへと入っていく。
犯人からの連絡はまだない。
緊張しているせいか、喉がひりついている。
西船橋で買ったコーヒーは、とっくに飲み干してしまった。
車内販売って、この列車でもやっているのだろうか。
【大網駅 手前 12:48】
もうすぐ大網駅へ到着すると車内アナウンスがあった。
やはりここではなく、海浜幕張なのか。
手の中の振動しないガラケーを見つめた。
【大網~蘇我間 12:55】
少しずつ乗客が増え、俺の隣にも四十代半ばといった感じの痩せたスーツ姿の男性が座った。
かなり着古しているし、革靴にも艶がない。
この事件とは関係ない人なのだろうけれど、緊張と不安のせいか誰もが怪しく見えてしまう。
(両親も不安で一杯なんだろう――あっ!)
彼らの立場になってみたら、より大きな不安があることを忘れていた。
どこの誰とも分からないヤツ、つまり俺にお金を持ち逃げされてしまうことだ。
大切な息子だけでなく、せっかく用意したお金まで失うリスクがあるのに、見ず知らずの俺に任せてくれたのか……。
プレゼン担当とは重みが違う。
最後まで、無事に金を届ける。
今はそれだけを考えよう。
【蘇我駅 13:02】
扉が閉まり、速度を上げてホームから遠ざかっていく。
いよいよ次の駅が海浜幕張だ。
十分ほどで着くので、そろそろショートメールが届くのだろう。
ヤバい、緊張のあまりトイレに行きたくなってきた。
「すいません、ちょっとトイレへ行くので荷物を見ていてくれますか?」
隣の男性に声を掛けた。
七号車のトイレへ向かう途中、連結部の所で車掌とすれ違う。
*
「あっ!」
座席へ戻ると男性と一緒にバッグがなくなっていた。
大きな声に気付いた検札中の車掌が歩いてくる。
「どうかしましたか?」
「隣に座っていた男にバッグを取られました!」
「グレーのスーツを着た痩せ型の男性ですか?」
「そうです」
「私がこの車両へ入ってきた時に、前方車両へ移動していきましたから、恐らく特急券を持っていないのでしょう。すぐに探します」
「一緒に行きます」
幸いというか、肝心のトートバッグは離さずに持っていたから金の受け渡しには支障がない。犯人の一味ではなく、単なる置き引きなのだろう。
「ここから先、二号車までは指定席なので、恐らく先頭の一号車にいるはずです。よくいるんですよ、検札が来ると移動して次の駅で降りてしまう輩が」
その言葉通り、五号車から順に通路を歩いていったが見当たらない。
そして、先頭の一号車へ入ってすぐ左側の席に、窓の方を向いて座っている男を見つけた。
車掌が声を掛けると、すぐに観念してバッグを差し出してくる。
「被害届を出しますか?」
「いえ、いいです。こうして何も取られずに戻ったので」
「そうですか。それでは、後は私の方で対処します」
車掌に御礼を言って、六号車へ戻った。
時刻は既に十三時十分になろうとしている。
胸ポケットのガラケーには何も反応がない。
(そんな……。今の騒ぎで取りやめたのか?)
焦る俺には構わず、電車は減速を始め、海浜幕張駅のホームへと入っていった。
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