第30話 ミズハさま

  紅蓮は清流が口にしていた言葉に違和感を抱いていた。

 (清流は何かがこちらに向かって来る、と言っていたけれど)

 一体彼は何を感じ取ったのだろう?

 紅蓮が格子越しを見つめていると、誰かの足音が聞こえてきた。

 緊張した面持ちでそちらを凝視していると、突然、

 「紅蓮さま!」

 「寿? どうしたの、こんな夜更けに」

 こちらに駆けて来る寿に紅蓮は驚いて、目を丸くした。

 「何かがそちらにいたと思うのですが、大事はありませんか?」

 「何か?」

 不思議そうな表情を見せる主に、浅い呼吸を繰り返しながら寿が答える。

 「私にもよく分からないのですが、妖気のようなものを感じました。塊のようなものがこちらに迫って来たんです。水の塊が」

 「水の塊……」

 紅蓮の脳裏に初めて清流に会った時の出来事が蘇る。自分の着物のそでに火が移った時、清流がみずから出した水でそれを消してくれた。

 子どもの頃の思い出に浸っていた紅蓮だが、はっと我に返って寿を見る。彼女は不安そうな顔でこちらを見上げている。

 「そんなに不安な顔をしなくても大丈夫よ。私も何もなかったし、怪しい者もこちらに来ていないから」

 「そ、そうですか」

 「ええ」

 「あの、私こちらに来た日も奇妙なものを感じたんです。他の女中の方たちに話しても、そんなものは感じなかったと言われてしまって」

 「奇妙なものを?」

 「何かが確実にこの屋敷の中にいるという感覚です。人間や獣とは違いました」

 それを聞いた紅蓮の動きが止まる。

 (清流は以前、妖気を消していると言っていたけれど……)

 改めて目の前にいる寿を見る。

 以前、悩みがあるのかと尋ねた時は、まだ仕事に慣れていないからだと話していた。

 きっと、あの時から清流の気配に気付いていたのだろう。けれど、誰にも相談出来ないので、一人で悩んでいたのかもしれない。

 「それは幽霊とはまた違うの?」

 「たぶん、違うと思います。幽霊は見たことはありませんが」

 「そう。ねえ、その奇妙なものはあなたにとって怖いと感じるものなの?」

 「特に何かをされるということも今までありませんでしたが、やはり得体の知れないものは恐ろしいと思います」

 顔を伏せてそう答えた後、沈黙が流れた。

 「寿、ミズハさまの話は知っている?」

 「はい。山に住むと言われている水の神さまですよね?」

 「ミズハさまは普通、人間の目には見えないと言われているの。人間に見つからない場所でひっそりと暮らしているからだと。私ね、この国には別の世界があるような気がするのよ」

 「別の世界、ですか?」

 「ええ。人間とは違う生き物たちがすぐ近くで暮らしているような気がするの。ミズハさまもそのたぐいだと思ってる。

 でも、ミズハさまは神さまだから、生き物ではないかもしれないけれど」

 「ミズハさまも……」

 「だから、そんなに悪い方に考えなくても大丈夫よ。それより、ごめんなさい。引き止めてしまって。もう戻った方がいいわ、明日もお勤めでしょう?」

  「はい。あの、それでは失礼します」

 寿は頭を下げると、屋敷の方へと戻って行った。

 庭園とこちら側を隔てていた木々を抜けて橋を渡っていた時、ふと気になって池を見下ろした。

 (さっきのはミズハさまだったのかしら?)

 見下ろした池には先程見た鯉の姿はもうなかった。

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