第31話 女当主

 寿がからになった紅蓮の朝餉あさげを手に、朱色の橋を渡っていると、ふと目を向けた先に数匹の鯉が悠々と泳ぐ姿が目に入った。

 金色や黒色の他に紅いまだら模様の鯉も確認出来る。けれど、真夜中に見た鯉の姿が見えない。

 どこだろう、と思いながら探していると、こちらに気付いてか一匹の真っ赤な鯉が奥の方からやって来た。

 寿に向かって何度も口をパクパクさせている。

 その様子を見た寿は顔をむっとさせると、そっぽを向いた。

 (何よ、昨日は人を驚かせたくせに。あなたにあげる食べ物なんて何もないわよっ)

 心の中であっかんべーをして、調理場へ戻ろうと再び歩き出した時、

 「寿」

 シワがれた女性の声で名を呼ばれ、寿はそちらに顔を向けた。

 自分を呼んだ声の主が視界に入った瞬間、彼女の顔は強張った。。

 目の前にいるのは、紅蓮の祖母にしてこの屋敷の女当主。

 彼女は寿が持っていた朝餉あさげに視線を向けると、こちらに向かってゆっくりと歩いて来る。

 自分の心臓が大きく音をたてているのが分かる。本気で口から心臓が飛び出てしまいそうだ。

 「大奥様……」

 若干震える声でそれだけ口にすると、寿が緊張していることを悟ってか当主は穏やかな口調で固まったままの彼女に声を掛けた。

 「お勤めの方は慣れましたか?」

 「はっ、はい! 少しずつですが何とか。女中のみなさんが熱心に教えて下さるおかげです」 

 「そうですか。蔵の方は変わりありませんか?」

 一瞬、遠回しに紅蓮のことを聞いているのか、それとも蔵自体のことを聞かれているのか分からなかった。

 「ええと、紅蓮さまは変わらずお元気です。朝餉も完食されていますし」

 紅蓮の名を口にした時、当主の目がひときわ鋭くなった。

 寿がしまった、と思った時にはすでに遅い。

 「私の前でその名前を口にするのはおやめなさい」

 静かだが鋭い声でたしなめられ、寿は思わず身をすくめた。慌てて頭を下げた後、早口になりながら、

 「も、申し訳ありません! あの、蔵の方もいつもと変わらず」

 「そうですか、それなら結構。引き続き、次の作業に取り掛かかるように」

 「はいっ!」

 寿は返事をすると、深々と頭を下げた。当主の後ろ姿が見えなくなったのを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。

 (ん?)

 さきほどから何だか人の視線を感じて背後に目をやれば、建物の影から呆れたような面持ちで女中たちがこちらを見ているのだった。

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