第1話 逢瀬 ③

 名を呼ばれ、一瞬身体が強張る。

 けれど、身体の緊張はすぐに取れた。再びそちらに歩いて行くと、今度は清流が口を開く。

 「よく俺だと分かったな。気配も足音も消していたのに」

 驚いてそう言うと、目の前の蔵からかすかな笑い声が聞こえた。続けて、

 「もちろん。そろそろ来る頃だと思っていたもの」

 蔵に取り付けられた格子越しに彼女が微笑む。

 女性は顔を上げてまっすぐ清流を見つめた。

 陽の光をほとんど浴びていない真っ白な顔は、その半分が髪で隠されている。

 闇と同化したまっすぐな黒髪は床に付くほどに伸びきっていて、先端が少々傷んでいるようだった。

 格子越しに目をやれば、小さな箪笥たんすと四角形の行灯、その近くに一組布団が敷かれているだけ。他に目立った物は確認出来ない。

 なんて殺風景なんだろう。

 これがいつも彼女の蔵を訪れた清流が思うこと。

 人里の一帯に構える立派な屋敷と丁寧に手入れされた広い庭園に比べたら、ここだけが異常な空間に感じられた。

 この場所は屋敷の外からも、屋敷に招かれた客からも決して見えない。

 彼女の存在を徹底的に隠したいという屋敷に住む者の意図が伝わってくる。

 「ここに来る前、木の枝に蕾がついているのを見つけた」

 「蕾? どんな花?」

 「桃の花だ。山でも他の花の蕾が付いているのを見つけたし、これからどんどん開花していくだろう。花が咲いたら持って来る」

 清流が微笑んでそう口にすると、彼女も口元に笑みを浮かべた。

 「それは楽しみね。この前持って来てくれた梅の花も綺麗だった。香りもとてもよくて」

 そう言うと、着物の懐から綺麗に折りたたまれた布を取り出した。それを捲っていく。包まれていたのは、梅の花。

 花びらはとっくにしぼみ色も茶色く変色していて、本来の丸く可愛らしい花びらも、その綺麗な桃色も今となっては面影を失くしている。

 「まだ、そんなもの持っていたのか?」

 呆れたように清流がそう尋ねると、女性はふふっと笑ってから、

 「せっかくあなたが持って来てくれたんだもの。それに、この辺りでは梅の木は植えられていないから、見たくても見れないのよ。あなただって知っているでしょう?」

 清流は困り顔で頷いた後、周りに植えられている木々に目をやった。

 この敷地内には数え切れない程の木々が植えられているが、これらは全て桜の木だ。

 そのため梅の花を付けることはない。

 「梅の花が好きなのか?」

 顔を戻した清流が尋ねる。

 「他の花も好きよ。季節の移り変わりを感じられて、心も和むから。そういったことを感じられるのが、ただ楽しい」

 色褪せた花に向けられた視線は、どこか優し気だ。微笑みを浮かべたまま、顔を上げて、

 「ねぇ、清流?」

 声をかけると、持っていた布を彼の顔に近付ける。その瞬間、かすかに梅の香りが漂った。

 「香りが……」

 「まだするでしょう?」

 彼女はまたふふっと笑ってみせる。

 「こんな風に桃の花も良い香りがするのかしら?」

 「桃の花は梅とは違って香りはしないよ」

 清流が苦笑して言うと、女性は少し残念そうな表情を浮かべた。

 「あら、そうなの? 桃の甘い香りがするものだとばかり思っていたのに」

 「香りはなくても充分楽しめる。花びらの形も梅とはまた違うし、花の付き方も違うんだ」

 「前から思っていたんだけど、清流は自分でも花を育てているの?」

 「え?」

 「だって、とても花に詳しいでしょう?」

 そう尋ねられて、思わず清流の脳裏にある少女の姿が浮かんだ。

 いつも何輪もの花を手にした少女の姿。自分に向かって微笑むその顔は、いつもほころんでいる。

 自分と同じ赤黒い髪と真っ赤な目を持つ魍魎の少女。

 「清流、どうしたの?」

 「ん? 何がだ?」

 名を呼ばれ、我に返った清流は慌てて聞き返す。

 「ぼーっとしていたわ。もし、疲れているなら無理してここに来なくても……」

 「いやっ、違う!」

 女性の言いかけたことを遮ってから、その声が思ったよりも大きかったことに気付いて、慌てて口を塞ぐ。

 彼女も驚いて、そのまま動かない。

 彼が急いで周りを見回すも、清流と女性以外に他の者の姿は見えない。

 そのまま、しばらくじっとしていたが、誰かが来る気配も感じられない。

 二人でほっと胸を撫で下ろしてから、声を潜めて清流が続けた。

 「俺は疲れていないし、無理もしていない」

 「本当?」

 「ああ。俺はただ、あんたに会いたくてここに来てるんだ」

 「清流……」

 その時、清流の背後が白み始めた。

 はっとした彼女の顔を見て、彼が振り返るとちょうど朝日が昇り始めたところだった。

 「俺はそろそろ山へ戻るよ」

 「ええ。いつもありがとう。楽しかったわ」

 「俺もだ。またな、

 清流は微笑みを浮かべた後、再び元来た道へと歩いて行った。

 紅蓮ぐれんはそんな彼の後ろ姿が木々の奥へ消えるまで見送っているのだった。

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