第5話 欠けた櫛(くし) ①

 皆が寝静まったのを確認して、清流は洞窟を出た。

 前回と同じ様に山を下りて行く。

 昨日見た桃の花の蕾は随分と膨らんでいた。開花まで一週間もかからないだろう。

 昨日と同じ様に格子の隙間から敷地内に入った後、裏庭へ向かった。木々を抜ければ紅蓮が幽閉されている乳白色の蔵が見えて来る。

 格子越しにくしで髪をいている彼女の後ろ姿が目に入った。

 「紅蓮」

 「あら、清流」

 振り返ると、笑みを浮かべて歩み寄って来た。長方形の木製の櫛を傍らに置いて、彼に尋ねる。

 「本当に大丈夫? 疲れていない?」

 不安そうなその声に、清流はゆっくりと首を振ってみせる。

 「本当だ、嘘じゃない。安心してくれ」

 「昼間、随分と騒がしかったみたいだけれど、何かあったの?」

 「また火事があった。人家が燃えたんだ」

 火事と聞いた瞬間、紅蓮の身体がびくりと大きく揺れた。

 「被害はどのくらい?」

 「焼けた家は一戸いっこだけだ。火傷をした者はいたが、すぐに駆け付けた他の人間が手当てをしているようだった。死んだ者もいないはずだ」

 「そう。それならよかったわ」

 紅蓮がほっと胸を撫で下ろしたのを見て、清流が続ける。

 「ああ。風もなかったから隣の家に火が燃え移ることもなかった」

 「今でも火事は多いけれど、昔に比べてだいぶ減ったと言われているの。これもね」

 嬉しそうに笑う紅蓮に釣られて清流も同じように笑みを浮かべる。

 「ああ、そうだな」

 ふと、彼女の傍に置かれた櫛が目に入った。見ると、櫛歯の何本かが欠けている。

 「紅蓮、その櫛……」

 「え?」

 清流が見下ろすそれに彼女も視線を落とす。ああ、と呟いてから、櫛を手に取ると、

 「ずいぶんと長く使っていたから、きっとそのせいね」

 「新しい物は貰えないのか?」

 紅蓮は黙って頷く。

 「幽閉されている者に新品の櫛は必要ないから」

 清流は改めて紅蓮を凝視する。

 床に付くほどに伸びた髪、日の光を浴びることのない白い肌。色のない唇。

 いつも身に着けている着物だって、決まって無地の着物だ。彼女の肌に負けないくらいの白い着物。

 そういえば、彼女が色の付いた着物を着ているのを今まで見たことがない。

 「それに……」

 紅蓮の声で我に返った清流は顔を上げた。

 「それに、まだ櫛歯は付いているから髪はかせるし」

 そう言いかけて、彼女は思い出したようにいきなり、

 「そういえば、清流の髪っていつも綺麗ね。さらさらしていて艶もあって」

 「俺の髪が?」

 「とても触り心地がよさそうだと思っていたのよ。ねぇ、少しだけ触れてもいい?」

 「え? 俺の!?」

 「ダメかしら?」

 すっとんきょうな声を上げる清流に対して、紅蓮は興味津々だ。

 いつもと違う彼女の様子に驚きつつも、清流は首を縦に振った。

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