2 幽霊
俺の名は、
ひょんなきっかけで、とある入り組んだ土地の中程にある弊社別館まで、大至急重要な書類を手渡しで届けてくれと上の人から内密に指示を受け、断る理由もなかったので従い、任務を遂行する途上なのだ。
車や自転車では、かえって入りづらい路地が多いとのことで、徒歩。制限時間を考えれば、つまりは走れということだ。
──なんで、俺なんだよ。
いつだって、こういう損な役回りばっかり。
運勢とか
絶対に何か俺に取り憑いてるだろ、貧乏神か、何かそんな奴が。
それはさておき、
ふと視線の先の川原の土手に目を遣ると、ベビーカーを押して歩くほっそりとした女性の後ろ姿が見えた。さっきまで誰も居なかったと思ったのだが、はっきりと見える。
しかも何だか、彼女の足元が覚束ない。
ふわふわと不安定で、一体どうしてまたそんな危なっかしい土手なんかを少女趣味なコテコテのベビーカーを押して歩いてるんだろう。あの中には赤ちゃんが乗っているのか……?
そんなことを考えたところで、恐れていた事が目の前で起きた。
女性が足を滑らせて、ベビーカー諸とも崖を転落しそうになったのだ。
「はっ! ストーップ!」
ゆっくり進んでいた女性に、急速に距離を詰めていた俺は、彼女の二の腕をがっしりと掴み、ベビーカーを水平に保ったまま押さえ、土手の細道に引き寄せて戻した。あと一秒遅れていたら、多分間に合わなかった。
「危なかった……大丈夫ですか? すみません、痛かったでしょう」
俺は、力任せに引いた腕を緩め、ふらふらと頼りない彼女をそっと支えながら、恐る恐るベビーカーの中を覗いた。
中身は、空っぽだった。何かがあった形跡も見られない。どういうことだ……。
確かに転落は阻止したはずだ。鳴き声も聴こえない。赤ちゃんは、はじめから存在しなかったのか。
そこで初めて女性の顔をはっきりと見た俺は、心臓を掴まれたように驚いた。彼女は、目に涙を浮かべて俺を見つめていた。
「
「直人さん……また会えたね。急に居なくなったりして……あの時は、ごめんなさい。私、助かったのね……ありがとう」
だったと過去形なのは、彼女がある日突然、俺の前から姿を消したからだ。さよならも言わず、風のように消えてしまって、それきりだった。あれから何年目になるだろう。
いつか戻って来るだろうかと思ってみたり、何らかの事故にでも巻き込まれたのではないかと心配してみたり、家族や警察も消息を掴めずにいた。結局そのうちに俺も探すのを諦めて、彼女の気持ちもわからないまま、一人残されていた。どれくらい時が経ったのかさえ、よくわからない。俺の中で、彼女との時間は止まっていた。自覚していたよりもずっと、愛していたんだろう。
「私、死んでしまった赤ちゃんの所へ行こうと思っていた。馬鹿みたい。私を生かす為にあの子は天国へ行ったのに、そんな精一杯の生への期待さえ叶えてやれないところだった。なんて頼りない母親なの……失格ね」
母親……。
──もしかして、死んだっていうのは、俺の子なのか?
「そうよ……黙っていてごめんなさい。どうしても、産んで育てたかった。あなたが父の会社に就職したと知った時だった。私は身の周りのすべてから逃げ出したのよ。でもね、すぐに体調を崩して、流産だったわ。天罰だと思った。でも時間が経つにつれて、そうじゃないって、私は生かされたんだって思えるようになった。そんな時にね、また命が危うくなっちゃって」
どうやら今、目の前で話している素子は、幽霊のような存在らしい。本人というか本体は、病床で生死の境を彷徨っているのだという。
「あなたに会えるなんて、あの子の導きとしか思えないもの。私、生きていたい。あと少し、生きてみたい」
素子の身体は、痩せているにしても異常に軽く、言われてみるとどことなく透けているようで儚い。
「生きてるよ。しっかり生きようとしてる。こっちにおいで」
俺は彼女の両手を握り、より安全な土手の中央に引き寄せて、生きたいという彼女の意思が消えてしまわないように、万感の思いを込めて抱きしめた。
「戻っておいで、素子」
「はい……ありがとう、直人さん」
腕の中で、素子の幽霊は温かな感触を残して消えた。
「素子……!」
本体は病院に居ると言ったよな。助かったってことだよな……。
周りを見渡すと、二次元みたいなラブリーなベビーカーも消えていて、書類を抱えた俺だけが、川原に佇んでいた。
「いけねえ、時間が迫ってる」
俺は、本来の任務を思い出し、足元に注意しながら目的地へ向かって、走った。
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