貧乏くじ男、東奔西走

青い向日葵

1 妖怪

 新年早々、俺は、人通り疎らな寒空の下をコートを翻し革靴で走っていた。

 腕時計の針は正午を指す一歩手前で、真昼の太陽が冬らしく薄ぼんやりと寂しげな光を注いでいる。

 洗いたてのスーツを着ているから、暑いよりは数段マシだと思い、かじかむ指先を握り込んで走っていると、目の前でパッと信号が赤に変わった。

 青がダラダラと点滅しているうちに走り抜けようと目論んでいたのに、まるで俺を拒むように瞬時に切り替わって煌々と光る赤いLEDの人型を睨んで、待つ。既に息が弾んでいた。


 そいつは顔のないただの記号であり、直立不動の姿勢で佇んでいる人の形に見えるだけの点の集合体だとわかっているのに、はっきりとしない様がかえってあの無能な社員の面影をチラつかせて、俺は余計に苛々した。

 さっさと変われ……!

 短距離走の如くスタートを強く意識して構えていたところへ、何処からともなく押し車を携えた老婆がゆっくりゆっくりと近づき、信号待ちの俺に並んだ。

 なんとなく嫌な予感がした。関係ない、俺には関係ない、青になったら走るぞ。


 ──ガタンッ。


「あららららら」

 老婆は、歩道と車道との段差に躓き、主の導きを失った押し車が、単独で道路をぐんぐん滑って行った。

「待って頂戴、ああああ……」

 俺は仕方なく、逃げ出した押し車に追いついて捕まえると、婆さんの所まで戻って、元通りに持ち手を握らせてやった。

「あらまあ、親切なお兄ちゃん。ありがとねえ」

 スローモーションのような仕草で礼を言われ、そのまま走り去ろうとしたが、そこで問題が起きた。またもや信号が点滅してやがる。


「お婆ちゃん、早く渡らないと危ないよ」

「あれまあ、大変」

 押し車を持って蝸牛カタツムリみたいによちよち歩いていたら間に合うはずがない。

 俺は、婆さんをおんぶして片手で押し車をひょいと持ち上げ、まだ数歩しか進んでいない横断歩道を前進した。全力で走っているつもりなのだが、思いのほかスピードが出ない。何なんだ。婆さんは、妖怪なのか。

「悪いねえ、お兄ちゃん」

「いいえ。何たって、こう見えて若いですから」

 息を切らしつつ矛盾めいた返答をしながら、ようやくぎりぎりで渡り切った。


「気を付けてくださいね」

「はいよ。本当にまあ、ありがとうねえ」

 婆さんは、俺の手をシワシワのカサついた両手でがっしと掴み、肉のない頬をほんのり桃色に染めたりしていつまでも離さないものだから、俺は、真冬の空気で冷えた顔に愛想笑いを貼り付かせたまま、白い息にけぶる骸骨のように痩せた老婆は、やっぱり妖怪に違いないと確信した。

 ようやく解放され、一息つく間もなく、再び走り始めた。

 何がなんでも、この書類を届けなければならぬのだ。小脇に抱えた封筒をしっかりと持ち直して、俺は、再び走った。

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