3 祖父

 川沿いの土手の細道を慎重に走って行くと、俺のすぐ前のほんの1m程先に、突如として競技用のユニフォームを身に着けた小柄な老人がすっと俺を追い越して来たかのように現れた。

 実際に追い越して来たんじゃない。すっと現れたんだ。


「よう、直人なおと。大きくなったな。なかなか良い走りじゃねえか。でもな、日頃のお前は、ちょいと運動不足だな。急いでるんだろ。ワシの脚力を貸してやるから、動かし方をよく覚えておけ。隔世遺伝ていうのがあるが、あれは本当だなあ」

 衰えを感じさせない各尺とした痩身の体躯は、かつてオリンピック出場候補と言われた長距離選手の俺の祖父、その人であった。

 いや、その幽霊と言うべきか。もう何年も前に他界した、俺のじいちゃんだった。


「じいちゃん、何でこんな所で走ってるんだ、よく俺だってわかったね」

 俺は、妖怪も幽霊も出会ったばかりだったから、もうそんなに驚くこともなく、寧ろ、じいちゃんとの再会が懐かしくて、嬉しかった。

「そりゃあ、可愛い自慢の孫を見間違えるわけがないさ」

「可愛いはまあわかるけど、自慢にはならないだろ」

 親バカっていうか、爺バカにも程がある。

「何言ってんだ。保育園の駆けっこではいつだって一等だったし、お前は気持ちが真っ直ぐで優しい子だ。ほれ、ついさっきも、ばあちゃんを助けてくれただろ。自慢の孫さあ」

 じいちゃんは、心底自慢げに胸を張ってそう言った。ばあちゃんて、あの妖怪みたいな人か。じいちゃんから見て、祖母ばあちゃんてことは、俺の何代前なんだ? やっぱり、妖怪じゃないか。


 だけど、こんなふうに人間性を褒められたのは久しぶりだ。満更でもないな。日頃の行いってやつ。

 俺は、じいちゃんに言われた通り、そんな嬉しい気持ちのまま素直に、笑顔を返した。

 すると、じいちゃんの姿が、現れた時と同じく、すっと消えて、走る俺のフォームが格段に良くなった気がした。

 これか。オリンピックでも通用する達人の走り方。

 ありがとう。これなら間に合う。

 任務遂行まで、あと少し。俺はスピードを上げて、走った。


 ◇


 土手の細道から、再び町の入り組んだ路地に来ると、弊社別館は目前だった。

 少しへしゃげた封筒を確かに抱えて、俺はラストスパートを決めたんだ。

 それらしき建物が見えてくる。エントランスを抜け、エレベーターに乗り込んだ。最上階。

 指定された部屋に向かって、上昇するエレベーターの狭い箱の中で身だしなみを整える。

 やがて、音もなく到着して、扉が開いた。


 ノックをして入室すると、広い部屋の奥のほうに社長らしき後光を纏った人物がデスクの向こうに座って一人で待っていた。

「失礼致します」

「ご苦労様」

 社長は、俺なんかに丁寧にお辞儀をして、挨拶した。

「こちらをお持ちするようにと預かって参りました」

 社長は例の封筒を受け取り、未開封のままデスクに、俺の目の前に置いた。

東野直人ひがしの なおとくんだね。この度は本当にありがとう。娘を助けてくれたそうじゃないか。君は、私らの恩人だ」


「えっと、あの……」

 そうか。素子もとこが言っていた。あなたが父の会社に就職したとかどうのこうのと。

 俺は、その時になってやっと、勤務先の会社の社長の名前をはっきりと思い出した。

西沼にしぬま社長、素子さんは、ご無事なのですか」

「ああ、意識が戻ってから、順調に回復している。君のことを真っ先に話しだして、お礼を言いたいから、私らにも是非、会ってほしいと言ってね」


 数年前には、妊娠が親に知れて、当時新入社員だった俺が相手だとわかれば、社長、いや父上の逆鱗に触れると考えて怖くなったんだろう。全世界を敵に回して、たった一人で子供を育てようとか壮大すぎるだろ、彼女の考えそうなことだ。

 学生時代にも、彼女は何度か家出していた。反抗というより、様々な現実から逃げていたんだ。

 名の知れた金持ちの家ってのも、いろいろとプレッシャーみたいなのがあるんだろうな。

 俺ん家は貧乏だけど、気楽でのんびりしてたな。それは、とても幸せだったのかもしれない。

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