3 銀色の少女

 俺は子どもの頃からバカだった。いや、バカなんて言葉で言えないほどにバカというより人としてクズだったと思う。俺は姉妹の中で育ったということもあって、今一同性との付き合い方が分からなかった。だから、幼なじみも女の子だった。その女の子は二人いて、一人は乃木、もう一人は土居という少女だった。俺は別にいじめるつもりではなかったけど、何故かいつも乃木をいじめていた。陰湿かと言われればそうではないはずなのだが、当の本人からすればひどいものだったのだろう。それを見て土居がいつも俺に制裁を加えていた。


「明くん。どうしたの?」


 そんな乃木が何故か俺の隣で歩いているのは不思議なことだった。


「いや、長い夢を見ていたような気がしてな。」


「バカじゃないの?」


 その横を俺を監視するように土居が歩いている。


「俺はバカだったんだ。金色に光っているはずのバカ。」


 でも、そのバカはある少女との別れを通して色あせて行った。どこか空白を抱えたまま、俺は普通の人生を普通に歩いていく。


「もう私たちも三年生だね。受験だよ。」


「天先輩はどこに進学したんだっけ。」


「国立だな。東京の。」


 それだけ言えばどこだかわかる。天姉は私立の方に行きたがっていたが、どうも経済事情を考えて国立に決めたみたいだった。結局いつも家族のことを見ていて、家族のことを思った行動をするのはいつも天姉だった。そんな役割だと思った。


 ヒキコモリを脱出した俺たちは普通の家族になっていた。俺がひきこもっていたことなんてすっかり忘れてしまっていた。そして、俺もすっかり、あの部屋に囚われていた少女のことを忘れてしまっている。今はもう、名前も姿も定かではなくて、本当にそんな少女がいたのかさえ怪しい。


 きっとあれは俺の妄想なのだ。俺は俺の力で俺のためにヒキコモリをやめた。それは子どもが大人になるための通過儀礼だったに違いない。ただ、俺の力だけでは不足なので、勝手に俺の頭で誰かを創り出して、そいつのために頑張っていたと思いたかったのだ。


 結果が初めで、その後の理由やら過程は全て後付けである。つまりは、謎の少女も俺がヒキコモリを脱出してからでっち上げた存在かもしれなかったし、それでいい気がした。過去のことなんか、勝手に自前で整理して作り上げるものなんだ。


「入学式シーズンだね。」


 目の前には小学校があり、背が小さくて踏んずけてしまいそうな子どもたちが俺たちの脇を通り過ぎて行く。


 ふと、そこに銀色が目に入り、俺は小学生を振り返った。


 赤いランドセルを背負った銀髪の少女。小さくか弱い。肌は汚れを知らぬ白い色をしていた。


「どうしたの?」


 土居が怪訝な目で俺を見る。


「いいや、なんでもない。」


 俺はそう言って学校までの道のりを歩いていった。




「キミはそれでいいのかい?」


 ふと気が付くと、俺の隣からは誰もいなくなっていた。さっきまで聞こえていた子どもの声も耳に入ってこない。辺りを静寂が包んでいて、その静寂をぶち壊したのは、俺の目の前に立っている少女だった。全身黒い衣装で身を包んだ、俺と同じ年頃の少女。髪は銀色で、目は青い。透き通るほど白い肌をしている。


「お前は、いや、あなたは・・・」


「ボクは死神さ。何かを破壊するだけの存在。ありしものをありしままに戻す役割を負っている。でも、ボクはこの役割が大っ嫌いでね。なにせ、死神だから人を殺さないといけない。でも、そんなボクでも、今のキミには心底苛立っているんだ。」


 全くの無表情で死神は言った。死神と聞いて俺は怖がらずにはいられないはずなのに、その浮世離れした美貌に俺は見とれていた。そして、この世のものではない美しさゆえに、それが死神であると信じられずにいた。


「人は簡単に可能性を捨てようとする。特に若者はそうだ。若いうちは世界の敵にも、はかなげな少女の味方にもなれるというのに、キミはそれを放棄した。人は何者かになるために可能性を捨てなければならない時が出てくる。でもね、捨てなくてもいい可能性まで捨ててどうするんだい。キミは何を願ったんだ。キミはその願いを簡単に捨ててしまったんだぞ。世界を敵に回しても守りたいものをあっさりと手放したんだ。ボクはそんなキミを認めない。だから今、ボクは何者にもなれなかった何者であるキミを、殺す。」


 死神の背後から大きな腕が伸びてくる。それは大きすぎて、右腕なのか左腕なのかさえ分からない。もしかしたらそのどちらでもないのかもしれなかった。


 その腕はありんこを押しつぶすように、何者でもない何者である俺を殺した。




「例えば、願ったことが叶う魔法の何かがあったとする。何かって何かって?じゃあ、ポケットくらいにしておこう。何でも叶うドラえもんの四次元ポケット。でも、そんなもの、今の俺には必要ないんだ。どうしてかって?現在に十分満足しているからだよ。」


 部屋にうずくまっている俺は立ちあがった。俺は長い夢を見ていた。全てを諦めた人間の辿る末路を。


「そんな俺でも、どうしても叶えたい夢があった。それは俺の目の前で嘲笑うかのように溶けてなくなってしまった。」


 俺はクロが消えてしまった窓に近寄る。そこには憎いほど大きな満月が顔を出していた。


「でもよ!諦められるわけないだろ!簡単に捨てちまっていいはずがないだろ!あんな顔して永遠の別れだなんて、そんなことをしやがるカミサマを俺は絶対に許さない!」


 俺は近所迷惑を顧みず、月夜に吼えた。


「お前が俺をこの部屋から出したがってるのは分かってたんだ。銀色のバカ!でも、お前は寂しそうだったじゃねえか!そんなお前を置いては俺はいけなかったんだよ!初めからこんな気持ちになるんなら、お前なんかに出会わなかったら良かった!」


 俺は怒っていたんだ。クロに、世界に。どうでもいい奇跡をどうでもいい俺なんかに見せやがったバカどもを一発殴らないと気が済まなかった。


「じゃあ、そんなところで吼えたままでいるなよ。」


 開け放たれた扉の前には天姉がいた。バカを見るような目で俺を見て、大きくため息をつく。


「青春ドラマみたいなことをしている暇があったら、やることがあるんじゃないか?」


 天姉は一体どこまで知っているのか分からない。きっと何も知らないけど、色々と知っているんだ。


「こういうのは雰囲気が大事なんだよ。」


「童貞的発言だな。」


 なんだか叫ぶのが恥ずかしくなって、俺は部屋を出る。


「ありがとう。天姉。」


 俺は急いで下の階に降りた。




 やるべきことは多分分かっている。俺はクロを取り戻す。クロは自分の本名を名乗った。それが何を意味するのかは分からない。でも、一つでも手がかりがあるんだ。それをあてにするほかない。


 俺は電話帳をめくって、高嶋という家を探した。ありきたりな苗字だけど、この辺りには数軒しかない。それをしらみつぶしに当たっていく他に俺ができることはなかった。


 俺が玄関で靴を履いている時、


「お兄ちゃあぁぁぁぁん!」


 妹が激しく後ろから俺に抱きついてきた。


「なんだ、俺は急がないといけないんだ。」


「外に出たらお兄ちゃんが死んじゃう。」


 妹は俺を止めようとしているようだった。


「確かに死んじゃうな。」


 外に出た瞬間、俺は俺ではなくなるだろう。でもきっと新しい俺も俺で、すなわち――


「ああ、もう。訳が分からん。難しいことはいい。とにかく離せ。俺は外に出る。大航海時代なんだぁぁぁぁぁ!」


 訳が分からず叫んだ。


「お兄ちゃん、これを持っていって!」


 おお、お役立ちキャラだったのだな、妹は、と思い、妹が差し出してきたものを見る。それはお守りだった。安産祈願の。


「鉄板過ぎるぞ、妹よ。もっとなんか役に立つものをくれよ。」


「お札もあるよ。」


「安産祈願のだろ?」


「うん?いや、なんか家に貼ってあったやつ。」


「それ、すごく危なくないか。とんでもない幽霊とか出てきたりしないか?」


「嫌だなあ、もう。お兄ちゃん、目の前にいるじゃない、もう。ほら。」


「え?」


 俺は玄関の方を見るが、何も見えない。


「冗談だろ。もう。不思議なことは懲り懲りだって。」


「え、あ、うん。お兄ちゃんには見えないんだね。そうか。なら、気にしなくてもいいよ。」


「物凄く気にするよ!」


「どうも長い髪の女の人がお兄ちゃんについていくって。今背中に乗ったよ。」


「いや、それは憑りつかれたっていうんじゃ・・・」


 俺は安産祈願のお守りを握りしめ、帰ってくださいと願いながらお経を唱えた。


「ま、とにかく、お兄ちゃん。行ってらっしゃい。お土産も忘れずにね。」


「あ、ああ。善処します。」


 俺の背後の女の人が物凄く気になって仕方がないのだけれど、俺は急いで玄関を飛び出すことにした。




 最初の高嶋家は走って十分のところにあった。もともと無茶し続けた体にさらに無茶をし続けたのだから、本当にどうしようもない。そのくせ、自分の体のことなんか考えずに邁進したものだから、ますますバカである。


 俺は高嶋家を見つめた。深夜ということもあり、物すごく静かであった。まるで中に誰もいないようなそんな雰囲気。


「すいません。高嶋さん。おられますか?」


 おられますか、とは結構な言葉だと思った。言ってからいらっしゃいますかだと自分の間違いに気が付いたけれど、もうどうしようもない。返事は案の定、なかった。俺は明日にするべきかなと考えた。それにしても、なんだか異様な家だった。草は何年も放置してあるようにぼうぼうであるし、表札もかすれてほとんど見えない。そして、玄関にはものが散乱している。


 俺はこんなところにクロが住んでいるのかと考えた。


 考えて、俺はとんでもないことに気が付いた。


 どんどんとクロのことを思い出せなくなっている。どんな声だったのかが思い出せない。顔もうっすらともやがかかっている。


 急がなければならないと思い、俺は無理矢理柵を乗り越えようと俺の腹くらいの柵に触った。すると、いとも簡単に柵は空いてしまったので、いよいよおかしいぞと思った。俺は玄関に進んで扉を叩く。でも、返事はない。もしかしたら空き家かもしれないと思って引き返すかと視線をずらすと、足元に薄汚れたノートが落ちていた。ノートだけではない。庭の方を見てみると、子どものいた痕跡のようなものばかりが無造作に投げ捨てられていた。


 嫌な予感しかしなかった。


 俺は落ちていたノートを開いた。


 そこにはクレヨンで絵が描かれていた。


 黒い髪に高い背の美しい少女。クレヨンでどうやって書いたのかはわからない。もしかしたらクーピーかもしれない。ノートを開いたらクレヨン独特の匂いがした。


 これはクロの家ではないのか。


 そんなはずはなかった。


 描かれた絵と似たような姿を俺は見たことがある。黒いショートカット。大人のようにすらっとした体型。それはクロが作ったゲームのアバターの姿そのものだった。


 俺は急いで玄関を開ける。だが、鍵がかかっていた。


 庭に回る。そこの扉も閉まっていて、俺は庭に転がっている意思を窓ガラスに向かって投げた。ふと、重石を投げて家の窓を割ってしまったことを思い出したけど、今はどうでもいいことだった。


 ギザギザに空いた穴から手を伸ばして窓のカギを開ける。もっと鍵に近いところに当てればよかったと思った。少し、腕が切れて血が出た。


「クロ!」


 俺は勢いよく窓を開けて足を運ぶ。土足のまま入った。


 そこは真っ暗で、唯一の明かりは月明りだけだった。家には誰もいない。誰かが住んでいた痕跡はあるのに誰もいないのは異様としか言えなかった。不気味にもほどがある。


 俺は恐る恐る部屋の中に入って行く。部屋は荒れ放題で、茶色いアイツやら、すばしっこいあの人が俺が来たことを悟ってどこかに逃げて行った。カップ麵やら酒瓶やらが転がっている。ひどい異臭がした。それは異臭というより刺激臭に近い。授業で昔かがされたアンモニアを思い出した。あれと一緒だった。鼻は匂いを拒絶して痛みを訴え、大量の水を出す。目はこれ以上ここにいてはならないと警告の涙を流した。それでも一歩一歩、歩き出す。異臭のする方へと、一歩ずつ。


「クロ。クロ!」


 口から息をするたび喉が痛くなった。そして、吐き気を覚える。どうしたらこんな匂いが出るのか分からなかった。


 少なくともゴミだけでこんな匂いは出ない。


 俺は恐らくリビングがあったのではないかと思われる広い部屋に出た。そこには、色々な、クレヨンで書かれた絵が散乱していた。小さな子が書いたような絵もあれば、芸術家が描いたような心を奪われる風景画もある。


 そして、一番目を背けたかったのは、リビングの床がはがされていることだった。


 リングを作ろうと床を剥がしたわけではないことだけは分かった。


 俺は剥がされた床にできた空洞に降りる。下は土だった。そして、一か所だけが柔らかそうで、そこに虫がうじゃうじゃいる。そして、そこに墓標のようにスコップが刺さっていた。


 何もかも嘘だと思いたかった。


 俺はスコップを持って柔らかい土を掘る。異臭とともに、普段は見ることのない細かな虫が蠢いた。


 外の世界なんて、現実なんて、碌なことがないじゃないか。


 ザクザクとスコップは小気味のいい音を立てた。


 俺はクロがどこかにいるものだと考えていた。会いに来て欲しいから俺に名前を告げたものとばかり思っていた。


 土埃が舞い上がる。


 なのに、どうして俺たちは幸せになれないんだ。


 体は悲鳴を上げていた。


 現実を見るなと言っている。


 それでも俺は友達に会いたい。


 たとえどんな姿でも。


 嘘だと信じたい気持ちがあった。だから、掘って掘って、掘りまくった。


 そして、とうとう俺はクロにであった。


 皮膚も何もかもがなくなって、目が合った場所には空洞しかない。頭頂部はまだつながっていなくって、でも、歯は俺なんかより小さいけれど永久歯で。骸を持ち上げると、土に絡まった銀色の髪がずるりと落ちた。


「なんで。なんで。なんでなんでなんで!」


 俺はクロに似つかぬ骸を胸に押し付け抱きしめながら、止まることのない涙を呪った。辺りにはクロに似つかぬ、あの春の花園そのもののような匂いに似つかぬ、命が終わった異臭が立ち込めていた。


「なんでお前が死ななきゃいけない。俺じゃなくて、なんでお前が、なんで、なんでなんだよ!」


 俺の叫びは家中に響いて、嘲笑うかのように溶けていった。残るのは静寂のみ。


「お前だったら、きっと、みんなと仲良くなれて、幸せに暮らせただろう。誰からも愛されて、変わり映えのしない退屈な毎日がいつも遊園地みたいに楽しそうに過ごせただろ。なのに、なんで!」


 クロは驚くほど外の知識がなかった。時々変なことにだけ詳しいのに、ローマ字も知らない。パソコンの使い方も知らない。市販のレトルトパウチのカレーをとても美味しそうに食べていた。そして、俺がいないと寂しそうな顔をして、外の世界を怖がった。俺がしくじって覆いかぶさると、パニックになって殴りまくった。


「誰だぁ!」


 俺のことを覗く人間がいた。それは影になって顔はよく見ないけれど、髪はぼさぼさで、ひげは何年も沿っていないように伸びきって、それで、異臭に負けないくらい酒の匂いがしていた。


「お前がクロをこんなところにずっと閉じ込めて、それで殺した!お前が、お前がやったんだ!」


 怪物のようなシルエットに俺は叫んだ。


「それが何だってんだよ。」


 俺は持っていたスコップを握りしめる。


「あいつは俺の娘だ!どうしようと俺の勝手だろう。」


 クロは俺の家族が俺のことをとても大事にしていると言っていた。でも、クロには家族なんていなかったんだ。こんなやつがクロの家族だなんて思いたくない。


 しん、と俺の心が急に静まった。何もかも感覚がなくなる。今まで世界を覆っていた異臭も重力もなくなった。体の痛みさえもない。熱も失っていた。


「あいつが外に出たいって聞かなかったから、押さえつけて黙らせようとしたんだ。そしてたら喚くから、殴り倒した。そしたら泡吹いて動かなくなるじゃねえか。だんだんと体も冷たくなってよ。ったく、臭くなってきたらからそこに埋めたんだよ。死んでからも迷惑かけやがって。」


 ああ、外れた。最後の箍が外れた。ガシャンとという音が俺の耳だけに響いた。


 うおうあぁぁぁぁぁ。


 俺は声にならない叫びをあげた。そして、スコップを男に向かって叩きつける。


 でも、男は手に持っていた一升瓶でスコップを防いでいた。


 瓶の割れる音が響く。


「いてぇ。いてぇよう。」


 スコップは男の肩に刺さっていた。俺は泣きわめく男から容赦なくスコップを引き抜く。


 そして、とどめをさすように男に向かってスコップを打ち付けた。




「そこまでよ。」




 俺の体はその声に急停止した。もうすぐで、もうすぐでクロを殺したクソ野郎を殺せたのに。


「なんで邪魔するんだ!母さん!」


 俺は月光に染められたシルエットを睨んだ。


「当たり前でしょ。誰もあんたを犯罪者にはしたくないもの。」


「クロは俺にコイツを殺すことを望んだんだ。だから、殺す。こんな人でなし、生きている資格もない。」


 母親は俺を蹴り飛ばす。スコップが手から離れて地面に転がった。


「本当にその子は父親を殺すことを望んでいたの?」


「当たり前だ。コイツを殺すために本当の名前を言ったんだから。」


「違うでしょ。どこの誰が自分の親を殺してくれなんて頼むのよ。あんたは、そのことの思い出をこの部屋みたいに臭すぎて敵わないものにしようとしてるの。あんたの友達はあんたに仇を殺して欲しくて近づいたの?もし、あんたがこの殺人者を殺せば、友だちとも思い出は血塗られたものになる。それでその子が喜ぶの?」


「でも――」


「でもじゃない。コイツを殺して、それでその子が戻ってくるわけじゃないでしょ。あんたは憎むべき相手を見つけて、そいつを殺すことで、また逃げようとしてる。現実も、思い出も、自分自身も殺そうとしてるのよ。」


 男がスコップを拾って俺に向かってくるのが見えた。俺はなす術がない。逃げる気力も無くなってしまっていた。もう、このまま死んでいいや、と本気で思った。クロのいない世界なんて、もう、見たくもなんともない。


 母親は男に向かっていき、華麗な背負い投げを決めた。


「バカ。死ぬ気なの?」


 母親の唾が包帯だらけの顔にかかった。


「もう死んだっていい。いや、殺してくれ。」


 すると、母親は俺も背負い投げにした。


「あんたは、その子の骸の前でそんなことを言うの?どうして、その子がアンタの前に現れたのか、どうして欲しかったのか、考えはしないの?」


 クロの骸は床に転がった。俺はその骸を本当に大事に抱きしめ直した。


「俺はクロと一緒にいたいんだよ!」


 クロは俺と一緒に外に出ようと言ったとき、困った顔をした。それは、その願いは叶わないことをよく知っていたからだった。俺にずっとずっと隠してきていたのだった。それはきっと辛かっただろう。自分がすでに死んでいるなんて言えなくて、俺が出ようという度、嫌でもそのことを思い出して。


 俺は本当にバカだ。クロが言うような、金色のバカなんかじゃない。


「俺はどうすればいいんだ。」


「そんなこと、分かってるでしょ。その子の分まで生きるの。その子の分まで幸せになるの。」


 愛する人の死は誰もが通る通過儀礼だ。大切な人が死んだことが受け入れられなくて、そのことを否定して、でも、何事もなかったかのように普通に生活していかなければならない。とても辛い通過儀礼。俺は前に進めそうもなかった。でも、クロにもうこれ以上情けない姿を見せるわけにもいかない。だって、きっと、クロは今の俺をとても悲しそうな目で見ている。自分が俺の前に現れたことを後悔しているに違いない。俺はクロにそんな表情をさせているんだ。なら、少しでも前に出て、歩き出して、少しでも、笑顔にしてやりたい。


「生きるって、苦しいもんなんだなぁ。」


 俺は狂ったように笑った。バカだから笑うほかなかったのだ。


「そんなの当たり前でしょ。」


 母親は母親らしい穏やかな声で言った。


「うわあああああ。」


 気絶していたらしい男は外に向かって走り出した。


「あいつ!」


 ここで逃してしまってはいけない。殺しはしなくとも、牢でクロを殺した苦しみを味わってもらわなければ、クロが報われない。


 でも、俺の体はもう動かなかった。全身の意図が切れたように金縛りにあっていた。


「大丈夫。」


 母親がそう言った瞬間、月夜だけの部屋に赤い光が交差する。


「昔の同僚に連絡入れておいたの。」


 かくして、全てが終わった。丸くは収まらず、俺の心はクロがいなくなったぶんだけぽっかりと空洞ができてしまったけれど、それは俺が抱えていかなければならない痛みだった。




 俺は母親に肩を貸してもらって家に帰った。


「入院とかになったら、笑えないわよ。」


「いや、みんなが俺をボコボコにするからこうなったんだろうに。」


 俺の顔が元に戻るのかさえ怪しい。鼻とか、もう顔の中に埋もれてしまっているかもしれなかった。


「整形とかしたら、いまよりイケメンになるかな。」


「そんなお金、家にはありません。」


 あんたらがボコボコにしたんだろうに。まあ、どんな顔になろうとも、生きて行けるだけで感謝しなければならないのだろう。俺をボコボコにするけど、ちょっとくらいは愛してくれているみたいである家族がいるだけ感謝しなければならないのだろう。


「俺、大人の男になった気がする。」


「自分でいうととっても痛いわね。せめて、童貞を捨てなさい。」


 親が童貞を捨てることを推奨するのはどうかと思う。まあ、言いたいのはお前はまだまだ子どもだということなのだろう。


「クロはあの後どうなるんだろう。」


 俺はクロの骸をその場に置いてきた。名残惜しいけれど、でも、クロがそれを望んでいる気がした。


「あんたの入院費から出る保険でお寺に供養を頼んどくわよ。だから、病院に行ったら、とっても悪いみたいな演技しなさいよね。あと、家族にボコられたっていったら保険下りないから。飽くまで殺人者に殺されそうになった正当防衛ということにしてね。」


「いや、色々と無理があるだろ。」


 大人というのはずる賢い。でも、そのずる賢さはバカの俺には真似できない。人間には色々いるけど、子どもを殺すようなやつも、保険金をだまし取ろうとする小悪党もいるけど、でも少しだけ人間を愛せるような気がした。


「ただいま。」


「「お帰り、お兄ちゃあぁぁぁぁん!!!」」


 俺が帰ってくるなり、妹は猛烈なタックルを仕掛けてくる。


「うん?」


 今、二人分の声がしたように聞こえた。そして、俺の目には錯覚なのか、銀色が見えている。


「クロ?」


 妹は俺を抱きしめていた。死ぬほど苦しい。胴体が真っ二つになる。そして、妹ではない、妹より小さくて肌の白い少女が妹に負けじと俺を抱きしめている。


「え?え?えええ!?」


 俺はクロの頭を触る。確かにここにいて、幽霊とか幻覚ではないとわかる。


「どうしたの?お兄ちゃん。」


 妹は俺を不審な目で見つめる。でも、抱きしめる強さを弱めるつもりはない。


「そ、ろ、そ、ろ、やめてくれない、と、本、気で、死ぬ。」


「おお!」


 妹は驚いたように俺から離れる。その時、クロの体をすり抜けて離れていった。


「どうしてクロがここに?」


 俺はまだ俺の胸に顔をうずめたままの銀色の少女に尋ねた。


「分かんない。」


 クロは俺の服に顔を密着させたまま言うので、変な振動が俺の体を襲って、ひどくこそばゆかった。


「お兄ちゃん。もしかして、まだ脳内妹が?」


「うん。そのもしかしてらしい。」


 俺はクロの髪を撫でた。さらさらと砂のように滑り落ちる。


「なあ、クロ。顔を見せてくれないか。」


 これで骸骨が出てきたら、俺は一生部屋から出られないだろう。


「やだ。」


 でも、クロは頭を振って拒絶した。


「泣いているのか?」


 服から生温かい液体が染み出している。


「ふん、だ。」


 クロは俺に顔を見せずに後ろを振り向いて玄関を上がっていった。


「お帰り、金色のバカ。」


 クロは勿体ぶるように横顔を俺に見せて言った。


 その顔はほころぶ笑みを必死で我慢して、でも隠せていない表情だった

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