2 一緒に飯を食ってくれ


 遠い昔のことだった。


 俺はまだ記憶もおぼろげな子どもで、その時がいつなのかも分からない。俺たち家族は地元の小さな、今は閉鎖されている遊園地に来ていた。何度も所有する会社が変わって開園されるけど、数年後には閉園する、ある意味幻の遊園地だった。


 そんな遊園地で俺は迷子になった。


 辺りを見渡すと、今まで一緒にいた父親も、母親も、天姉も、大地もいない。それどころか、人一人消えてしまっていた。


 俺は広い世界の中、独りぼっちになってしまった。俺はずっとずっとここで暮らさなきゃいけない。それが恐ろしくて泣きながら歩いていた。すると、誰かに出会った。俺は誰でもいいから、その人に抱きついた。すると、その人は言った。


「こんなところに迷い込んで、一体どうしたんだい?」


 俺は誰かがいるということだけで安心して、涙が止まらなかった。声で、その人が今の天姉くらいの年齢であることが分かった。俺は何か言わないと家族を探してくれないとわかってはいるけど、言葉は出てこなくって、出てくるのは嗚咽だけだった。


「どうして泣いてるんだい?ここにボクとキミしかいないのが怖いのかい?」


 言葉にされるとより一層怖くなって、お姉さんの短いスカートを引っ張った。


「いや、ちょっと、止めて。分かった、分かったから、泣くのは止めようよ。うん。キミの望みはなんだい?」


「家族のところに行きたい。」


「そうか。でも、それは現実に戻るということだよ。ボクと関わらなければ、キミはずっとこの世界に一人でいられる。それは嫌かい?みんながいる世界がいいのかな?」


「うん。」


 俺ははっきりとそう言った。今にして思えば、それはとても魅力的な話だった。俺は自分で迷子になった。遊園地が楽しくて、帰りたくなかった。ずっと遊園地にいたくて、俺は願いの叶った世界にいたのだ。


「人間だれしも願いを叶えるだけ叶えて、その後は簡単に捨ててしまうものなのさ。ここはそんな流星の集まった空間。でも、キミが出たいと思うのなら協力しないとね。」


 俺とお姉さんは手を繋いで歩き出した。遊園地のアトラクションは誰も乗っていないのに動き出していた。俺はお姉さんの顔をはっきりと見た。でも、もやがかかっているように思い出せない。ただ、今でも手に取るように思いだせるのは、子どもの俺よりも冷たい手と、お日様と花々の香り。クロと同じ匂いだった。


「お姉さんはどうしてここにいるの?」


「それは、外の世界が怖いからさ。だからこうして永遠の中に逃れた。」


「じゃあ、僕と一緒に出てもいいの?」


「もし嫌だと言ったらどうする?」


 そんなことを言われると不安になってしょうがない。俺は再び泣き出しそうだった。


「だから、引っ張らないでってば。ボクが悪かったよ。嘘だよ。ボクはキミとともにこの世界から出るよ。」


「いいの?」


「キミはキミの心配をすればいいのに、優しい子だね。でも、かまわないさ。子どもはいつも、自分だけの世界を持っていて、でも、現実はその世界を侵食するから、いつか、自分だけの世界から出なければならない。それは儀式の一つさ。そうやって、子どもは大人になっていく。何者でもない何者から、何者かである何者かになって、そして、その人自身になっていく。そして、その人が何者でもない何者かを生んでいく。全てはずっとずっと昔から繰り返されていた流れなんだ。」


「お姉さんの名前は?」


「ボクの名前かい?ボクの名前は――」


 そんな時、俺の目の前に光が差した。そして、気が付けば、俺の耳には遊園地の騒音が聞こえてきていた。その騒音のせいで俺はお姉さんの名前を聞くことができなかった。


 俺はもう一度お姉さんに名前を聞こうと手を握った。でも、もうそこにはお姉さんはいなかった。


 白昼夢というやつなのだろう。でも、その夢は今の俺に大きな影響力を及ぼしている気もした。




「なあ、クロ。お前の正体を教えてくれないか。」


 俺の体に真っ直ぐな棒が突き刺さったような感覚だった。俺は少しだけ、現実に挑もうと思い始めていた。


「どうしたの?金色のバカ。急に。」


 あくまでもお道化ようとするクロを俺は真剣に睨んだ。


「なあ、一緒にこの部屋から出よう。俺たちはずっとこのままじゃいけない。だから、お前も一緒に出られる方法を――」


「一人で出れば?」


 突き放したような言い方だった。でも、俺はクロを置いて出て行くつもりなど毛頭なかった。


「嫌だ。俺はお前が一緒じゃないと絶対に出て行かない。」


「わがままが過ぎるよ。」


「姫様にそう言われると、俺も落ちるところまで落ちたな。」


 でも、俺はクロを一人にできそうもなかった。クロは俺がいないと、とても寂しそうな顔をした。そんな顔の女の子を俺は放っておけない。なんだかイケメンみたいなことを言っているが、俺は友達がずっとこの部屋に閉じ込められたままでいるのが辛かったのだ。もし俺が普通に学校に行けるようになって、普通の人間になってしまったら、ある日俺の目にはクロは見えなくなるだろう。ずっとそこにいるはずなのに、もう見えなくなってしまっている。クロはずっとずっと独りぼっちだ。クロと出会うまでの俺みたいに独りぼっち。そんなのは嫌だ。わがままでもなんでもいいから、ずっとクロと一緒に俺は生きてゆきたい。もう、あの日掴んだ手を離さない。


「ねえ。どうして私にそこまで構うの?私はこの部屋にいる邪魔ものじゃなかったの?」


 確かに、小さな六畳間の邪魔ものだった。でもただの邪魔ものではないのだ。


「それは俺がクロのことを・・・」


 ここで勇気を振り絞らなければならない。きっとこれからの人生これ以上に勇気というものを絞り出すことはないだろう。


「俺がクロのことを友達だと思っているからだ!」


 途端、クロは時計を投げてきた。おいおい、それはきっちりと合わせられた時計で、投げて壊れてもらっちゃ困るんだが。


「バカ!死ね!」


「あんだけ死ぬなとか言ってたやつがなんでそんなこと。」


「バカバカバカ!私だって死ねなんて言いたくないけど、うん。これだけは言える。金色のバカは一回死んで人生をやり直した方がいい!」


「なんでそんなに怒ってるんだよ・・・」


 照れ隠しなのだろうか。それにしては、本気で怒っているように見える。時計を物凄い速さで俺に投げつけてきた。俺はなんとか手で防いだけど、手が物凄く痛い。


「友達がそんなに嫌なのかよ。」


「そうじゃない。そうじゃないけど。もう!」


 クロはベッドをガシガシ叩く。ホコリが舞うのでやめてほしい。


「ねえ、明。私の秘密、知りたい?」


 急に真剣な顔つきになってクロは言った。俺は息を飲む。なんだかそういう雰囲気だった。


「ああ、知りたい。」


 クロの顔は決意に満ちていた。それはクロにとってとっても勇気のいることなのだと俺は思った。


「分かった。じゃあ、一つだけ教えてあげる。私の本当の名前。」


 何もかも崩れて行く気がした。でも、俺たちがこの部屋を出るにはその儀式は必ず必要なのだ。この部屋から出るためにはこの部屋を一度壊してしまわないといけない。


「でも、条件があります。」


「なんだよ、焦らすなよ。」


「お互い様じゃない。」


 何がお互い様なのか俺にはよく分からなかったけれど、クロがそういうならそうなのだろう。


「なんだ、その条件って。」


「家族みんなで一緒に食事を食べること。ただ、それだけ。」


「そんなの、無理だ。」


 今の俺にはとても難しい事だった。何せ、俺は家族全員と喧嘩しているようなものなのだから。


「できるよ。だって、明は金色のバカなんだもん。家族のみんなだって、本当は明が一緒に家族にもどることを望んでる。でも、今はちょっと戸惑ってるだけなんだよ。」


「他の条件じゃダメか?」


「ダメ。じゃないと何も教えてあげないもんね。」


 そう言ってクロはベッドに潜った。気が付けばもういい時間だった。


 俺は今日も寝られないのか、と肩を落とす。でも、外で寝てクロを独りぼっちにすると、どこかに行ってしまいそうで嫌だった。


 俺はいよいよ腹を決めないといけないぞ、と思って、それは怖いはずなのに、どこかワクワクするような、そんな変な気分でもあった。




「おい、金色のバカ。学校はどうする?」


 天姉の声に目を覚ます。俺は寝られないとばかり思っていたが気が付いたら床に大の字に寝ていたようだった。その床に、ちゃっかり俺に寄り添うようにクロが寝ているが、見なかったことにする。


 俺は起きて勢いよくカーテンを開けた。ついでに窓も開ける。顔に吹き付ける風が心地よかった。


「天姉。ちょっと話があるんだ。入って来てくれないか。」


 扉が開く。天姉は警戒したように部屋の中には入ってこない。


「どうした。また脳内妹でも増えたのか。」


「俺さ、みんなで食事がしたいんだ。」


 少し気取った風に俺は言った。ぴっちり、ポーズも決めている。どうみてもバカだった。でも、俺は金色のバカなのだ。今さら気にしたって意味がない。


「私は嫌だ。じゃあ。」


「待ってくれよぉ。」


 俺は天姉の足にしがみつく。お肌がスベスベだった。天姉は容赦なく俺を蹴り飛ばす。俺は土下座した。


「お願いします。」


「どういう風の吹き回しなんだ。それに、私が了承したところで、他のみんながどうなるのか分かったもんじゃない。」


「じゃあ、天姉も協力してくれないかな。」


「甘ったれんなよ?」


 別に怒っているわけではなく、天姉はいつもこんな感じだった。きっと甘えん坊の弟を甘やかさないようにこんな態度を取っているのだと思いたい。


「お願いします。」


「土下座しても意味がねえんだよ。やるなら自分の力でやらねえとどうしようもねえんだっつーの。」


「ああ。俺は俺のできることをやる。だから、天姉も一緒にご飯を食べてくれないか。」


「どうしてそんなに飯を食うことにこだわるんだ。」


 俺はちらと後ろを見て、クロがまだ涎を垂らしていることを確認する。


「俺はこの部屋を出たい。クロと一緒に。そのためにはクロの秘密を知る必要があるんだ。その条件が家族みんなで飯を食うことなんだ。」


 天姉は困った顔で溜息をついた。


「私は別に構わねえが、手は貸さねえぞ。あくまで自分でなんとかしな。後、説得する時にクロのことは言わない方がいい。私だってお前の妄想だと思ってるし、それに、自分が出たいってそういう方がいい。誰かのために出たいだなんて、傲慢だ。あくまで情けない自分を変えたいくらいがいい。ちょっとイラッと来たからな。」


「ありがとう。天姉!」


 俺は天姉の手を握ろうとするが、天姉は素早く逃げた。


「お前臭いんだよ。よし、私も条件を付ける。しっかりと風呂に入れ。その臭いにおいをなんとかしろ。麻婆豆腐をぐちゃぐちゃにしてさらにメイプルシロップを混ぜてぐちゃぐちゃにしたような匂いがする。」


 麻婆豆腐もメイプルシロップも天姉の嫌いなものだった。つまりは匂いを嗅ぐまでもなく臭すぎて敵わないということなのだろう。


「約束するぜ!」


「ほんと、変わったよな。明は。それもクロのおかげか?」


「そうかもしれないけど、天姉のおかげでもあるさ。なんだかんだで天姉は俺のこと心配してくれてるから。」


「甘ったれんじゃねえぞ。」


「ああ。頑張るよ。」


 確かに、今の俺は自分でも気持ち悪いと思う。こんなに前向きなのは俺じゃない。でも、今の俺はキンキンのピカピカだ。


「ううん?朝?」


 クロが目を覚ました。


「あれ?私、ベッドにいたのに。転げた?」


「おはよう。クロ。」


「きしょ!」


 笑顔で挨拶するとクロにきしょいと言われた。俺、そんなにきしょいかなぁ。


「どうしたの。朝から。変なものでも食べたの?」


「お前は俺の食い物を横取りするだろうが。お前も一緒に変なもの食ってるぞ。」


 俺の的確な指摘に、なるほどなー、とクロは納得していた。どういう方向に納得しているのかは少しも分からない。


 俺はしばらく扉を開けたままで誰かが来るのを待ったが、誰も来なかった。昨日のことを気にしているのだろう。思った以上に状況は悪い事だけは分かった。




「金色のバカ。ゲームはやらないの?」


「そうだな。」


「大丈夫?」


「そうだな。」


「メロンクリーム。」


「そうだな。」


 そこで俺は噴き出してしまった。


「何言ってるんだよ。」


「金色のバカ。どうしちゃったのさ。ぼーっとして。」


「どうやったらみんなで飯が食えるようになるのか考えてるんだよ。」


 ただ、考えて考えてをしたところで、少しも思いつきはしないのだった。


「よし。グーグル先生に相談だ。」


「やっぱり明は金色のバカだ。」


「それは褒めてるんだろ?」


「バカって呼ばれて嬉しいの?ごめん。ちょっと理解できない。」


 ともかく、グーグル先生に聞くのは止めた。家庭の個人情報を漏らすのはよくないと思うし、そもそも、平日の昼から回答している人は一体何をしているのだろうと思うわけである。


「どうして明はそんなに頑張るの?私と一緒に部屋を出たいから?」


 そんなの、当たり前に決まっている。


「お前は出たくないのかよ。」


「私は・・・」


 クロは答えなかった。それに、クロは俺と一緒に出たいと言ってはいないことに気が付く。もし、クロがここから出たくないのなら、俺はどうするのか。それは、後で考えればいい。クロがこの部屋から出られるようになってから、この部屋から出るかどうかを決めてくれればいい。俺はそれまで気長に待とう。少なくとも俺は、クロを独りぼっちのままにはしたくはない。


「ああ、そういえば、風呂に入らないといけないんだった。」


 気が付けば、もうすぐ昼だった。そろそろイベントが始まる。イベントストーリーは終わってもイベントのクエストは終わっていない。イベント限定の装備もあるから、参加するべきなのだろう。でも、今は、家庭の事情というのが最優先だ。もう動き出してしまったのだから、止まることは許されない。きっとこのチャンスを逃せば、俺は一生ヒキコモリのままだ。


「ちなみに、どのくらいお風呂に入ってないの?」


「一年。」


「早く入ってきて!」


 クロは腕を組んで自分を守るような恰好をした。目には涙を浮かべている。他の人間が見たら、激しく誤解を生みそうだった。


 実際は一週間なのだが、一年も一週間も変わらない。そろそろ体がかゆくなってきたからちょうどよかった。


 着替えを持って下の階に行く。どうせ湯は張ってないので、シャワーを浴びるくらいだった。


 天姉はきっと毎日入れという意味で言ったのだろう。よくも毎日毎日風呂なんかに入っていたなという気分になる。そもそも女性の比率が高い赤嶺家では、早めに入らないと深夜近くまで風呂が空かないのである。女性の入った後に入るのはひどく気が引けるのであるが、女性陣は後に入れという。俺はそんなことを無視していつも先に入っていた。


「ふぅ。さっぱりした。男に磨きがかかったぜ。」


「何言ってんの、あんた。」


 がははは、と馬鹿笑いしているところに母親が通りかかった。すごく恥ずかしい。


「母さん。ご飯はまだ?」


「あのね、あんた、部屋から出てきたと思ったらずうずうしくなって。そんなに食べたかったら自分で作りなさい。」


 俺に料理スキルなんてラノベの主人公みたいな隠れ属性はない。ならば、諦めるか。いいや、バカは、金色のバカは諦めが悪いんだ。


「母さんはご飯食べた?」


「まだだけど。」


「じゃあさ、俺が作るから、一緒に食べようよ。いえ、ぜひご賞味いただければうれぴーです。」


「のりぴー語、久々に聞いたわ。でも、食材はないわよ。どうするのかしら。」


 つまり、買って来るほかないわけで、でも、俺にとって家の外に出るのは宇宙に出るよりも難しいことだった。ならば、どうするか。俺はくじけそうになっていた。


「いいことだけ、いいことだけ、おっもいだぁせっ!」


 アンパンマンよ俺に力を、少しずつ、分けてくれぇ。


「お茶漬けでいい?」


 すごく控えめだった。でも、俺にできるのはご飯を炊いてお茶を沸かす程度しかない。包丁なんてもう一世紀近く持ってはないのだ。


「いい。私が作るから。」


 はあ、と憂鬱な溜息をついて母親は言った。


「何か手伝おうか?」


「ヒキコモリに何ができるっていうのよ。」


「確かに。」


 確かに俺は何もできなかった。何かをできるように努力もしてこなかった。


「一緒に食べてくれる?」


「いいわよ。勝手に料理されるよりはマシだから。」


 それもそうだった。


「でも、一体どうしたの?昨日といい、今日といい。頭がおかしくなった?」


「頭がおかしいのはいつものことだろう?」


「それもそうか。」


 俺たちは食事をとりながら話した。こうやって食事をしながら話すのは本当に久々だった。


「なあ、俺、みんなと一緒に食べたいんだ。」


「はあ。好きにすれば。」


 母親は淡白だった。


「怒ってる?」


「怒らない訳ないでしょう?昨日だって私もあんたを殴ってやりたかったわよ。お父さん、もっとボコボコにしてしまえばいいのに。」


「怒ってた?」


「さあ。昨日はすぐ寝ちゃったみたいだし。でも、今朝は何も言わなかったから、怒ってるんでしょうね。」


「ちなみに、母さんはご飯を一緒に食べてくれるかな。」


「なんでそんなにご飯に固執するの?毒でも盛る気?」


 ひどい言われようである。確かに、昨日までヒキコモリだった息子が急にご飯ご飯というのは頭がおかしいとしか言いようのない。


「俺はヒキコモリを止めたいんだ。だから、みんなと飯を食いたい。」


「いや、理由になってないけど。」


「俺は変わるんだ。だから――」


「あんたが変わっても、周りは変わらないわよ。みんなが食べてくれるかは分からない。私だって、気まずいから嫌だもん。それに、ヒキコモリを止めて、学校に行ったって、どうせまたひきこもることになるんでしょう?それなら、ずっとひきこもっていてくれた方がよかったわ。」


 きっとみんなそう思っているのだろう。だから、昨日の惨劇が起こった。俺が変わっても周りが変わらない。なら、無理にでも変えないといけない。


「わがままなのも分かってる。急に変なことを言ってるのも分かってる。でも、俺は一緒に飯を食いたい。そうすればきっと一歩踏み出せる。じゃないと、このチャンスを逃すと、俺はきっとずっと、ひきこもったままなんだ。」


「それよ、私が変だと思うのは。どうして飯にこだわるの?それに、なんだか焦ってる。ちゃんと説明しないと私も納得できない。」


 天姉にはクロのことを話すなと言われていた。それはきっと俺が傷付くことになるからで、そうでなくとも、誰も納得しないことが分かっていたからだ。でも、会話することを怠ってきた俺はもう言うほかなかった。


「俺はクロと一緒に部屋の外に出たい。そのためにはクロの秘密を知らないといけないんだ。その条件が家族と一緒に飯を食うこと。だから、俺はみんなと飯を食いたい。いや、食わなくちゃいけないんだ。」


 母親はキョトンとしていた。クロが誰なのか分からないのだろうし、そもそも話しについてはこられないだろう。


「その、クロってのは俺だけに見える友だちで・・・」


「病院に行きましょうか。」


 母親の顔は無表情だった。それは怒りが噴火する寸前に見えた。


「飯を食ってからなら、いつでも病院に行く。だから、まずは飯を食いたいんだ。その後なら何でも言うことに従う。学校にも行く。勉強もする。パソコンだって捨ててしまってもかまわない。」


 俺はどうしてそれほどまでに真剣なのか理解できなかった。今まで命より大切だったパソコンをいとも簡単に捨てるだなんて言ってしまったのだ。


「ああ、もう。わけわかんない。好きにしなさい。」


「じゃあ、飯を食ってくれるのか?」


「そうね。食べてあげるわよ。でも、その前に父さんを何とかしなさいよ。仲直りくらいはしなさい。」


「ありがとう。」


 俺は嬉しくって、その場で跳ね上がった。


「猿?」


 母親は呆れたようにそう言っていた。




 二階に戻ると、クロはパソコンでゲームをしていた。


「ねえ、金色のバカ。隠しファイルってどこ?」


「なんのこっちゃ。」


 ゲームの仕方しか教えていないので、クロはゲームの中で必死に隠しファイルを探しているようだった。


「年頃の男の子はエッチな画像を隠しファイルに保存していると聞いたことがある。」


「とんだお姫様だな。」


 だが、生憎、そんなものを保存してはいないし、エッチなゲームでさえインストールしていない。アダルティなサイトにもアクセスしたことはない。


「残念ながらそんなものはない。」


「もしかして、アッチ系なの?」


「一体そんな知識をどこで仕入れたんだ。」


 溜息をつく。だが、そう思うと、俺は一年近くの間、ずっとゲームしかしてこなかったことに気が付いた。最近の話題も知らない。アニメとかも実はよく知らなかったりするのだ。


「ねえ、なんだか文字が出てるんだけど。」


「そう言えば、クロは文字が読めるんだったな。」


「まろは幼児じゃない。」


 へいへい、と適当に返事をして俺はパソコンのモニタを覗く。


「チャットだな。」


「チャット?」


「つまり、ゲームしている人同士で文字の会話をするんだ。」


「メールってこと?」


「まあ、開けっ広げになってるメールかな。」


 フレンド登録すれば、お互いの内密なチャットができるし、チームのチャットでチーム同士話すことができる。


「何を言ってきてるんだ?」


 俺はチャットを覗く。


「ふむ?初心者の勧誘、だな。」


 だが、女性キャラということで少し内容がねちっこいように思えた。実際は女であるかも分からないというのに。なんだか俺は嫌な気分になった。クロに俺以外の友達ができるというのはいいことだ。でも、なんだか嫌だった。


「ほら、ここをクリックすれば後はキーボードで会話できるぞ。」


「これ?」


 クロは馬鹿正直に、ひらがなで書いてあるキーを押していった。


「なんで英語になってるの?」


「ローマ字うちだよ。」


 たしか、キーボードに書いてあるひらがなで何とかなる方法もあったように思うが、俺は全くと言っていいほど分かりはしない。


「ローマ字ってなに?」


「それからか。」


 それは途方もなく時間のかかることのように思えた。俺自身がローマ字が苦手だった。たしか、初めてキーボードを触った時も、このひらがなが書いてある奴を打てばいいじゃんと思ったり、何故アルファベット順で並んでないんだと憤慨したりした覚えがある。


「うーん、これは勉強が必要だな。」


 ともかく、俺は単語リストによく使うであろう単語を記録しておく。これは戦闘時に即座に指令などを出せるように単語を記録しておくものだった。


「指がカタカタしてる。」


「ほとんど一本指だけどな。」


 俺はブラインドタッチなんて芸当はできないから、かなりの単語を記録していた。いつか必要になるんだろうけど、でも、今は十分だと思っている。


「何か返事を書くか?」


「ええっとね。お友達になってくれるととても嬉しいです。私にいっぱい貢いでください。」


「調子に乗るな。」


「でも、そんなことを書いてる人がいるよ。」


「それは悪い例だ。そして、絶対ネカマだ。」


「ネカマ?」


 こういうことを教えるのは教育によくないのだろうが、無菌状態では社会に出るときっと後悔すると思う俺であった。


「つまりはネットのオカマだ。詳しく言うと、男のくせに女に成りすますやつだ。」


「おお!なんかすごいね。」


「感心しちゃダメなんだろうけど。」


 クロがローマ字を教えて欲しいと言うので、ゲームを中断してローマ字を教えることにした。


 クロは案外すんなりとローマ字を理解した。


「うぅ。覚えるのが難しい。」


 でも、流石に何もかもできるのは無理そうだった。


「それなら、実際書いてみて練習するか?」


 俺はパソコンのメモ帳を開く。


「これで適当に何か書けばいいんじゃないか?」


「おお!」


 クロは目を光らせた。


「楽しそう!」


 クロは画用紙に絵を描く子ども用にはしゃいでいた。


 と、ここで俺はクロに食事を与えてないことに気が付いた。


「そう言えばお前、腹減ってないか?」


「減ってないよ。」


 朝から何も食っていないはずである。それはつまり・・・


「もしかして、お前、食い物を食う必要がなかったんじゃないか?そうだよな!トイレにも行ってないもんな!ということは俺は腹も減らないやつに食い物を横取りされたのか!」


「明のお母さん、お料理上手だね。寝取っちゃおうかな。」


「だから、どこでそんなネタを仕入れるんだか。」


 自称異星人と暮らすのも色々と大変だということが身に染みて分かった。でも、手抜き料理を美味しそうに食べているのだから、時々は持っていってあげようと思うのであった。




 俺は物凄く暇であった。クロはずっとメモ帳に没頭している。俺が何を書いているのかと覗き見ようとすると、蹴る殴るなどの暴行を加え、全治二か月の重傷を負わせた。


「そんなにひどくないもん。」


「だから、なんで俺の心が読めるんだよ。」


「ハンドソープです。」


 クロは仰々しく開いた両手を見せる。


「ハンドパワーか。」


「もしくはあるはーふぁ。」


「アルファ波ね。」


 変な知識を持ったお姫様であった。


 それでもやはり暇で、俺は開け放たれた扉ばかり見ていた。初夏の風が吹き抜ける。夏近くにしては涼しい日で、少しひんやりとした風が頬を撫でた。


 そろそろ日が傾き始めている。妹が帰ってくる。


 そう思ったころ、


「ただいま。」


 少し元気のなさげな声で妹は帰ってきた。俺たち子どもの部屋は二階にある。だから、妹は必ずここを通るはずだった。そして、案の定通ったが、いつも世話を焼くのとは違い、俺のことなど見ずに通り過ぎていった。


「つまりは物凄く怒っている訳なのだな。」


 後二戦。とても体力のいる日だった。ぶっちゃけ明日に回したいけど、もうここまでくればやるほかにない。


 俺は部屋を出て、妹の部屋の前に立つ。部屋を出るという行為に今さらながら興奮を覚える。それは恐怖から来るものだった。でも、やると決めたんだ、と無理矢理自分を奮い立たせる。


「なあ、大地。ちょっと話があるんだ。」


 俺はノックして扉に言った。その扉は木製なのに、俺には鋼鉄の監獄のように思えて仕方がない。


「なあ、大地。開けてくれないか。」


 俺は開かない扉にしつこく食い下がった。俺はどうしてもやらなければならないのだ。


 どんどんと扉を叩き続けていると、妹が顔を出した。


「なんなの?」


 今まで類を見ないほどに不機嫌な顔だった。


「実はさ、大地にお願いがあって。」


「なに?」


 大地の気迫に俺はためらいそうになる。


「その、さ。俺、みんなと一緒に飯を食いたいんだ。だからさ。」


「今さら何言ってるの?」


 やっぱりそういう反応だった。


「俺が悪かった。俺が身勝手にひきこもってみんなに迷惑をかけたのは分かってる。だから、これを機に俺はヒキコモリをやめようと思ってるんだ。」


 すると。妹は思いっきり扉を開け、俺の襟首をつかんで壁に打ち付けた。


「何処の口がそんなこと言ってんのか聞いてんだよ!」


 普段声が大きい大地が怒鳴ると、鼓膜が破けそうなほどの大声になった。俺は怯んでしまう。


「迷惑をかけたのは分かってる?ふざけんじゃねえぞ!お前は何も分かっていない。なのに、今さらなんでそんな口がきけんだよ。え?なんか言ってみろよ。」


 妹に怒鳴られる兄など俺は見たくはなかった。世界で一番惨めな存在だと思った。


「お前のせいで家族はバラバラになったんだよ!やっと平和になったのに、またお前が家族をバラバラにしやがった。今度は一緒に飯を食いたいだ?少しくらい優しくしてやってたからって、調子づくんじゃねえ!」


「お前だって俺の気持ちなんかわかんねえくせに!」


 もう、怒鳴り返すほかなかった。これはとても悪い事だと思う。でも、こうしないと俺の気持ちも、妹の気持ちも互いに置き去りのままだと思った。


「わかるかよ!どうしてひきこもったのかも言わずに冬眠中の熊みたいな生活しやがって。お前はな、バカ中のバカなんだよ。バカ。」


 俺は土下座するほかなかった。全ては俺の身勝手が引き起こしたことだった。言い訳もできない。ただ、俺が悪いだけなんだ。


「土下座したって過去は変わんねえんだよ。私がどれだけ学校で過ごしにくかったか考えてみたのか!兄貴がヒキコモリってだけで私は何にも悪くないのに腫れものに触るような態度をされてよ!」


 妹は俺の頭を踏んだ。踏んで、踏んで、踏みつけた。


「痛い。」


「お前の痛みは一瞬だろうが。でもな、私たちは一年間ずっとそんな痛みに耐えてきたんだよ。なんの苦しみも負わないお前が今さらヒキコモリをやめました、なんて言って、受け入れられるかよ!」


 痛くて、痛くて、涙が出てしまった。でも、ずっとずっと、これ以上の心の痛みをみんな耐えてきたんだ。俺は間違っているのかもしれない。俺は出てきてはいけなかったのかもしれない。


「でも俺は変わるんだ!クロと一緒に部屋を出て、真っ当に生きて行くんだ。邪魔するんじゃねえ。言うことを聞いて、俺と一緒に飯を食え!」


 すると、妹は再び俺の襟首をつかむ。今度はお互い床に座ったままだ。


「何を偉そうに言ってるんだ。何がクロだ。脳内妹にうつつをぬかしやがって。なんでそんな訳分からないやつなんだよ。お前には私がいるだろう。ちゃんとした妹がいるだろう?なのに、なんで何にも言ってくれないの。私はお兄ちゃんの妹じゃなかったの?」


 妹は泣いていた。子どもの頃のように鼻水を垂らして。


「俺は間違ってた。反省してる。それだけじゃダメだってことも分かってる。これからは現実の妹とちゃんと向き合う。家族と向き合う。だから、一緒に飯を食ってくれ。」


「ふん。下手なプロポーズ。」


「違うからな!大いに誤解だからな!」


 一体どうやったらそんな誤解が生まれるのか分からなかった。でも、妹はガキみたいに鼻水を垂らしながら笑っていた。


「って、鼻水を俺の服で拭くなよ。」


「へーんだ。お兄ちゃんのバカ。バカバカバカ。」


「うっさい。俺はバカだ。なにせ、金色のバカだからな。」


「なにそれ。」


「クロが俺につけてくれた称号だ。」


「いつまで脳内妹と遊んでるの?現実見た方がいいよ。」


「うるさい。俺にとってクロは紛れもない現実なんだ。」


「じゃあさ、お兄ちゃん。私と脳内妹、どっちが大事?」


「どっちも。」


「どっちか選べよ。」


「選べん。」


「じゃあ、どっちかの命しか助からないってなったら、どっちをとる?」


「どっちも取る。」


「うわあ、バカだ。」


「バカで結構!」


 俺たちは険しい顔で睨み合った後、大いに笑った。


「まあ、いいよ。お兄ちゃんをサンドバックにしてすごく気持ちよくなったし。でも、またそのクロって子を紹介してよ。妹王座決定戦をするから。」


「そう言えばクロも似たようなことを言ってたな。キャラ被りするから今のうちに殺っとくかって。」


「ほほう。楽しみだね。」


 一瞬恐ろしい笑みを浮かべた後、妹は鼻歌を歌って部屋に入って行った。ばたりと扉が閉まる。俺は態度がころころ変わる妹が恐ろしくって仕方がなかった。


「そんなところで何してんの?邪魔。」


「なあ、天姉。俺はやっぱり脳内妹だけでいいと思うんだ。」


「きしょい。」


 二次元の妹に入れ込むオタクの気持ちが物凄くよく分かった。




 俺たちは食卓に座っていた。会話はない。気まずい。でも、俺は会話をしていられる気分でもなかった。まだ帰ってきていないのは父親だけ。そして、後は父親を説得するのみだった。


「ただいま。」


 いつものように父親は帰ってきた。


「おや?」


 俺が食卓に座っているのを見てそんな声を上げた。


「これまたどういう風の吹き回しで。」


「みんなとご飯が食べたい。ただ、それだけなんだ。」


 俺は床にひざをつく。そして、頭を下げようとした。だが、それを止めるように父親は言った。


「やめなさい。明。男が土下座をしていいのは会社の中と、娘さんを私にくださいと言う時だけだ。」


 父親は母親に視線を注ぐ。


「母さん。例のものを。」


「本当にやるの?」


「ああ。これは男同士の問題だ。そうなれば、解決する手段はたった一つしかない。」


 母親は諦めたように大きくため息をついた。そして、何もない壁をコツンと叩く。すると、そこは蝶番の小さな扉になっていて、見たこともない機械が壁に埋め込まれていた。


「一体何が起こるんだ。」


 驚いているのは俺だけの様だった。天姉も大地もお茶をすすってくつろいでいる。俺だけ知らない秘密がこの家族にはあるのだ。


 母親はもう一度確認するように父親を見た。父親は無言で頷く。それを見て母親は機械を弄りだした。


「明。少し離れていろよ。」


 父親はリビングから離れる。俺も立ち上がって事の顛末を窺う。


 大きな音を立てて、リビングの床が大きく割れた。まるで特撮のマシンが発射される時のシークエンスのように床が開き、中から何かがそそりだってくる。


「リング?」


 指輪ではない。格闘技で使われるあれだった。


「なんでこんなものが家に?というか、なにがなんだか。」


「パパはな、昔ボクシングをやっていたんだ。」


 父親はおもむろにビジネスバッグからボクシンググローブを取り出す。常備していたのか?


「だから家にリングを作ったんだが、使う時がなくてね。」


 父親はロングのロープに頬を摺り寄せる。


「だからこの子は処女なんだ。今日はこの子の処女試合。」


 気持ち悪いのなんの、もう訳が分からない。スーツにグローブをつけたおっさんがリングを見てうっとりしているのだ。


「さあ、明。リングに上れ。」


「いや、ちょっと待てよ。」


「そうやって、悩んだってどうにもならないぞ。目の前に敵がいる。目の前にリングがある。戦う理由はそれだけで十分だろう。」


「お兄ちゃん。頑張って。」


 妹は俺にヘッドギアをつける。


「一ラウンド三分。KOした方が勝ち。判定はなしだ。それでどうだ。」


「デスマッチじゃねえかよ。」


「現実は死ぬか生きるかだ。会社でもそうだ。会社の生き残りはもちろん、自分の生き残りさえかけなければならない。そのためにはどんな手段も択ばなかった。ボクシングとは全く違う。パパは今までの自分の生き方を考えなければならなかった。でも、今日は正々堂々と戦える。この喜びが分かるか。」


「分かんねえよ。」


 現実から逃げてた俺には微塵も分かりはしない。でも、勝てるかどうかは別にして、俺は戦わなければならないことだけは分かった。


 俺はリングに立つ。ボクシング経験者に勝てるわけがない。足が震える。リングに慣れていない俺は足を滑らせてしまいそうだった。


「さて、始まりました。親子デスマッチ。実況は私、赤嶺誠の妻、定と。」


「ねえ、なんで私がこんなところに。」


 天姉と母親はテーブルで何やら実況らしきことをしていた。


「天。あんた、少しは乗りなさいよ。」


「バカじゃないの、この家族。」


「うおぉぉぉ!」


 バカという言葉に俺は過剰に反応する。それは俺にとっての褒め言葉であり、応援でもあるのだ。


「やる気を出したか、明。」


 父親は涼し気に笑った。そんな笑い方をする父親は初めてだった。


「では試合開始と行きましょう。ちなみに、明の方はハンデとして反則オッケー。どんな手を使ってでも父さんを殺してね。では、スタート。」


 母親はゴングの代わりに箸で茶碗を叩いた。


「いや、待ってくれよ。そういうことは先に――!」


 父親は開始早々俺に突っ込んでくる。顔面を狙った一撃。これで即座に決めるつもりなのだろう。俺はどうにか避けようとして、避けられなかった。


 膝ががくんとなる。もう、痛さとかどうでもいい。昨日殴られまくったせいで痛みなんかなくなっていた。


 父親は一発で済ませるつまりはないらしく、何発も何発も俺に打ち込む。衝撃で首が嫌な音ばかり立てている。父親は本気で俺を殺すつもりだった。


 父親が満足したところで、ラッシュは終わった。俺は無様にリングに倒れる。


「いーち、にー。」


 カウントが始まった。何カウントで終わるのか分からない。でも、そんなこと俺にはどうでもいい。もう勝てないのは分かった。こんなのいくらやったところで無駄なんだ。


「さーん、しー。」


 俺は無様なまま、ヒキコモリのままでいいんだ。ずっと部屋から出られないまま、年下の少女と暮らしていけばいい。


「いいわけないだろ!」


 俺は膝をついて立ち上がる。まだ立ち上がれるのなら、立ち上がらなきゃいけないだろ。


「俺の願いは、そう簡単に諦められるもんじゃねえんだよ!」


 きっとこの一ラウンドの中で勝負は決まる。なら、三分間くらい、命を懸けてやってみてもいいじゃないか。


「明。お前はどんな気持ちでリングに立った。」


「んなもん、どうでもいいだろう!」


 俺は遅くてか弱い拳を父親に向ける。だが、簡単に躱され、腹に一発、重い一撃を食らう。体中の臓器がぐちゃぐちゃになった。


「お前は勝つ気で勝負に臨んでいないだろう。その時点で勝負はついている。勝負に勝つのはな、いつだって最後まであきらめなかったやつなんだよ!」


 父親は大振りの右フックを仕掛ける。これならぎりぎり躱せる。おっさん、腕がなまってるんじゃねえのか?俺は前に出る。そして、父親の顎に一発くれてやろうとして、左アッパーを食らった。俗に言うフェイントというやつなのだろう。


 俺はまたも白いマットの上に倒れた。口から血の味がする。生臭くって、酸化したリンゴのような風味。これは完全に立ち上がれないだろうと思った。視界が揺れている。


「でも、俺だって勝ちたいんだあぁぁぁぁ!」


 俺は力を振り絞って、目の前の父親の足を蹴り飛ばす。父親の体重は俺よりも重くて、体重がかかっている足はそれなりに重い。それに片足だけ蹴り飛ばしたところで、すぐに姿勢を戻されてしまった。


「なるほど。モハメドアリと猪木の決戦の再現か。」


 そんなもの知らない。とにかく勝つことだけを考えるんだ。時間が立てば解決するとかそういう問題じゃない。戦って勝たなければ、何も、何も変わることなんかないのだ。


「おらぁ!」


 俺は父親の右腕にしがみつく。左手で体中をボコボコにされる。でも、これで、通常の半分しか攻撃は食らわない。俺は何とか父親の右腕を脇に挟んで封じる。そして、自由な右腕で父親の顔めがけて拳を振るう。


「体全体を使わない拳なぞ、痛くもないぞ。」


 父親はあっさりと俺の拳を左腕でガードする。そして、俺の右腕を軽い動作で弾き飛ばした後、俺の顔面に拳を叩き込む。


 俺は後ろに倒れた。父親の腕を挟み込んでいるのだからガードのしようもない。


「ごー、ろくー、しちー、はちー。」


 大の字になった俺に、無情にもカウントが張り付けられる。


「俺の息子のくせに弱っちいな。仕方がない。一発でも俺に当てられたら――」


「ふざけんな!」


 俺はよろめきながら立ち上がる。その時、口から赤い汁が嘔吐したように流れる。でも、見なかったことにした。


「俺は勝つんだよ。勝ちたい理由が見つかったんだよ!」


 俺は勝負事が大嫌いだった。どうやったって勝てない相手というものは必ずいる。だから、初めから勝負なんてしなければいいと思っていた。そして、自分の得意な分野に逃げ込んで、ひきこもった。でも、この勝負だけは勝たないといけない。正々堂々と父親をぶっ飛ばす。俺に情けをかけるのは、俺が勝ちたい理由を侮辱することになる。少なくとも、俺自身がその理由を貶めていいはずがない。


「ちなみに私は後三回変身を残しているぞ。」


「俺なんか何十回も残してらあ!」


 何十回も変身を残しておいて、そのことに優越感を持って、結局何にも使わなかった。だから、俺は何者でもない何者のままだった。でも、俺は今、出し惜しみしている場合じゃない。本当に命を投げ出すつもりで勝たなければ一発も父親に食らわせることはできない。


 俺はロープに向かって後ろ向きに走る。そして、ロープの反動を使って、父親に突っ込む。


 父親は俺の猪突猛進を躱す。でも、まだだ。俺は体を翻して、さらなる勢いで父親に向かって行く。父親は躱す。俺はさらに突っ込む。


 いけ、いけ、いけ。父親の速さを超えるために。自分の弱さを超えるために。ツッコめ、ツッコめ、突っ込め!


「ぶごっ。」


 父親は俺の顔に拳を向けるだけで良かった。俺は自分の勢いをそのまま利用されて、勢いよく父親の拳に突っ込み、マットに転がった。


「なあ、明。お前はどうしてここまで必死なんだ。」


 父親は俺を心配そうな顔で見下ろしている。でも、俺は情けなんてかけられたくない。そんなことされたら、俺の頑張りは水の泡になっちまう。


「そんなの、俺がヒキコモリをやめるためだ!家族を取り戻すためだ!大・大・大好きな友達のためだ!」


 俺はなんとか立ち上がる。でも、体が動くことを拒んでいる。大きな屋根がのしかかってくるように俺は立っているのでやっとだった。


「はい、一ラウンド終了。一分休憩。」


 そこでやっと三分経った。俺は一ラウンド耐え抜いた。俺は妹の出した折り畳み椅子に座る。そして、差し出された水を飲む。でも、ほんのちょっぴりしか飲めなかった。


「お兄ちゃん。これ。」


 妹は俺の掌に小さくてずっしりと重いものを差し出してきた。


「これは?」


「書道の重石。これを手の中に隠しておいてこう、ずがんと目を狙って――」


 俺は思いっきり重石を投げた。投げた重石は窓に当たって、ガラスを突き破り、外に出て行く。


「何するの!」


「お前こそ何考えてやがる!」


 そんなことして勝ったって、俺はクロに胸を張れない。


「でも、お兄ちゃん、勝つんでしょ?」


「そんなことして何になるんだ。」


「死ぬつもりなの?」


 その言葉を聞いて、俺はハッとする。俺ははた目から見て、もう限界らしい。


「死んでたまるかよ。」


 俺には栄光の未来が待ってるんだ。クロと一緒に歩む未来が。胸を張って部屋を出る奇跡が。


「死んじまったらどうにもならない。だから、俺は生きるさ。生きてヒキコモリを止める。そう誓ったんだ。諦めてたまるかよ。」


 試合開始のゴングが鳴る。


 もう、限界なら、最後の一撃にかけるしかない。


 俺は再びロープの勢いで父親に襲いかかる。


「うおおおおおお!」


 右腕に全力を賭ける。俺の未来を。クロの笑顔を!


 俺の顔に父親の拳が突き刺さった。


 そして、俺の拳も突き刺さった。


 でも、父親がこれで終わるはずがない。ここでまた倒れるわけにはいかない。倒れたら、きっと俺は立ちあがれない。だから、さらなる拳をぶち込もうとして――


 嘘のように父親が倒れた。


「おい、演技してんじゃねえんぞ。早く立てよ。」


「俺がこんなガキに負けると思うか?」


 とはいえ、父親は大の字になって倒れたまま立ち上がる気配はない。


「おい、わざと負けるのか?ふざけんなよ。俺も死ぬ気で戦ったんだ、お前も死ぬ気で戦えよ。」


「まだ、息子に負けるわけにはいかないと思っていたが、すまん。」


 父親は素早く四つん這いになった後、口から大量の酸を吐き出した。辺りにえげつない匂いが広がる。


「うぅ。飲み過ぎた。ギブ。ギブだ。」


 結局コメディで終わるのかよ。


 呆れてしまった俺はそのまま崩れていった。




「飯は?」


 俺は飛び上がった。そこはいつものリビングだった。俺にとっては新鮮な感じだけど、少なくとも、リングが浮き上がってきてはいない。


「まさかの夢オチか?」


 そうとも思ったが、未だ部屋に立ち込める汗と胃液の酸っぱい匂いは夢でないことを巧みに物語っていた。


「お兄ちゃん、お腹減ったんだけど?」


 俺は食卓のある方に目を向ける。みんな、腹を押さえて空腹を抑えていた。


「先に食べてしまえばいいのに。」


「一緒に食べたいと泣きついてきたのはどこの誰だ?」


「別に泣きついてねえよ。」


 天姉の言葉に俺は言い返す。その時、碌に口が動かなかったので、俺はきっと元の顔には戻れないのだと確信した。


「とりあえず、言うことがあるんじゃないの?」


 母親は疲れたような顔をして言った。


「ありがとう、みんな。」


「いや、そうじゃなくて。」


 結構感動的な場面だと思ったんだが、母親が言いたいことは違うらしい。目は俺の空席に注がれていた。俺はキシキシと痛む体を押して、食卓にたどり着いた。


「いただきます。」


 手を合わせて、家族とともに食事ができることをカミサマか仏様に祈って言った。


 とりあえず、食事に箸をつける。どれもすっかり冷めきっていた。でも、そんな食事よりもあったかい気分だったと言いたいけど、やっぱり食事は冷めている。


「俺はどのくらい寝てたんだ?」


「たっぷり三時間。」


「待っててくれてありがとう。」


 なんだか心の底からあったかいものがこみ上げてくる気分だった。


「うぅ。おかゆとかにしてくれない?」


 父親は苦しそうに呟いている。


「お父さん。せっかく明が食事をしようって言ったんだから。」


「でも、これから毎日してくれるんだよな!」


 急に起き上がって父親は言ったが、すぐに気分が悪くなったのか机に突っ伏す。この人、俺より重傷じゃないだろうか。


「そう言えば、どうして家にリングなんてあったんだ?」


 俺は当然の疑問を口にした。すると、急にお通夜みたいにしんとする。聞いてはいけないことだったのだろうか。


「明。お前の名前を明にしたのはな、天と大地を繋ぐ明かりになって欲しいと願ったからなんだ。」


「急に話をそらされて。でも、大地は俺より後だろう?」


「お父さんは、三姉妹に憧れてたんだぁ!キャッツアイなんだぁ!」


 父親は情緒不安定なようで、急に泣き出した。


「リング作って若いもんなのことわちゃわちゃしたかったのに、みんな俺より強いんだもん!勝てないんだもん!だから、ずっと封印してたの!」


 とんでもなくどうでもいいし、下心満載な理由だった!


「お父さんはぁ!リング作ったローンをぉ!返済するためにぃ!頑張って働かなきゃいけなかったのぉ!」


 少し前の号泣議員のように父親は情けなく叫んだ。


「父さん。その気持ちは分かるよ。でも、だからって、俺でストレス解消はよくないと思うんだ。」


 俺は父親の肩に手を伸ばしとんとんと叩いてやる。


「でも、明。あれほどまで必死だったら、父さんの息子を攻撃すればよかったじゃないか。」


「俺は父さんの息子だぜ。弟を殴ることなんてできっかよ。」


 俺は照れ臭くなって、鼻の下に指を置く。あれ?鼻の形、変わってない?


「おお!我が息子よ!よく言ってくれた!母さん。今夜は徹夜でハッスルだ!」


 物凄い速度で俺と父さんの間に何かがすり抜けた。俺はすり抜けたものの行く末を目でたどる。そこには壁に完全に埋もれてしまった何かがあった。


「天。お箸とって。」


 天姉は母親にはしを渡す。俺は投げられたものが箸で、壁に埋まっているものも箸であることに気が付いた。




 重い体を引きずって階段を上っていく。でも、心は羽なんかよりも軽い。世界で一弁軽い元素であるヘリウムよりも軽々とした気分だった。


 ギシギシ。


 体は軋む。階段のように軋む。これは明日一日寝ていないといけないなというレベルである。例え体力的に苦しくなくても精神的につらい日々だった。


 でも、俺は一度自分をバラバラにしなくては新しく生まれ変わらなかった気がする。とんでもなく荒治療だったけど、全て収まればそれでいい。


「クロ。家族とご飯を食べてきたぞ。」


 俺は寂し気な顔のクロを喜ばせてやりたくて、少し大げさに言ってのけた。でも、クロの表情は寂し気なまま変わらなかった。


「うん。知ってる。」


 寂しげな笑顔だった。すごく大人びて、俺なんかでは手の届かないところにクロがいるかのようだった。


「どうした。もっと喜べよ。」


 でも、クロは何も変わらなかった。


「じゃあ、私の本当の名前を教えなくっちゃ。」


 クロはベッドから床に立って、さらに悲しそうな笑顔をする。


 俺の心の中にたらりと冷や汗が垂れる。それは嫌な予感ではなく、嫌な確信。


「なあ、クロ。一緒に来てくれるんだよな。」


「ごめんね。それは初めからできないんだ。」


「どうして!」


 今にも消え入りそうな少女は俺の悲痛な叫びに苦しそうな顔をする。それを見て、クロはこの結果を望んでいないことに気が付いた。なら、どうして受け入れようとするんだ。


「私の名前は、高嶋クロ。」


 そう言った瞬間、開け放たれていた窓から風が吹く。窓から見える月は地球に落ちてくるかもしれないと思うほどに大きく真ん丸だった。


 そして、その時にはもう、銀色の少女はその存在を跡形もなく消してしまっていた。


「なんで。なんでなんだよ。」


 俺はその場にうずくまった。少女が口だけ動かして言った言葉は俺にとって許しがたい言葉だった。


「なにが、『ごめんね』だ。そんなの、そんなの許せるわけないだろ!」


 俺はここで銀色の少女と金色のバカとの物語が終わったことを悟った。

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