竹内緋色迷作劇場

竹内緋色

HandG

1 金色のバカ

 例えば、願ったことが叶う魔法の何かがあったとする。何かって何かって?じゃあ、ポケットくらいにしておこう。何でも叶うドラえもんの四次元ポケット。でも、そんなもの、今の俺には必要ないんだ。どうしてかって?現在に十分満足しているからだよ。


「明。今日は学校行かないの?」


 俺の扉の前で母親がそう言ってくる。でもその言葉は間違いだ。何故なら、今日も、学校に行かないからだ。俺は寝たふりをして返事をしないと、諦めて母親は下の階に降りて行く。それと入れ替わりで階段を上ってくる音がする。


「明。さあ、学校にいくぞう!」


 朝から無駄に元気な声。でも、俺は返事をしない。するととぼとぼと湿った足音を立てながら、父親は階段を降りて行く。そして、またも入れ替わりで階段を上がってくる音。今度は芯の通った、堅い足音。


「おい、クソ弟。出てこいや。」


 ボコスカと扉を壊さんばかりに連打しまくる。なんとか名人顔負けだ。噂によるとあれはコントローラにバネを仕込んでいたとか。でも、バレなきゃいかさまじゃないってジョジョで言ってたな。


 俺の姉は床を踏み抜かんばかりの音を立てて去っていく。階段が揺れるのが容易に想像できる。そして、姉の足音の後、またも階段を上る音。これで最後だ。


「おにぃちゃぁぁぁぁん!朝だよ!立ってるの?」


「じゃかましいわ!」


 俺は妹の下ネタに思わず返事をしてしまった。少し面倒なことになる。


「起きてんじゃん。学校行くよ!」


 今度は返事をしないと誓い、布団をさらに被る。寝不足なのだから、放っておいてほしい。妹はたっぷり三十分ほどペタペタと扉を叩き、声をかけ続けた後、諦めて階段を降りて行く。ペンギンみたいな足音だ。


 俺はこんな生活を始めてから、人の足音には個性があるのだということを知った。それは俺だけが知っていることで、とても優越感がある。


 これはこの部屋で一生を過ごすつまらない男の話だ。




 俺は父と母を持ち、一つ上の姉を持ち、一つ下の妹を持っている。姉妹の年齢が近いというだけで他に変わったところのない家族だ。唯一のイレギュラーとして、部屋から出てこないヒキコモリの長男がいるけど、それは俺のことだから、別に俺は迷惑したりしない。


 太陽はギラギラとしていた。昼から元気なものである。俺は日光を嫌う蛭のようにそろそろとベットから這いずる。家族総出の儀式が終了した後、たっぷりと睡眠をとって、今は正午近くだ。尿意を催して、俺は下の階に向かう。


 さっき、部屋から出ないとか言わなかったって?流石に俺は部屋でピーなものを排泄するタレラーではない。トイレくらいはきちんと行くさ。


「あら。起きてきたの。明。お昼できてるわよ。」


「いつもと同じように。」


 俺はぼそぼそっと呟いてトイレに入る。別に男の排泄の描写なんて要らないだろ?


 スッキリしてそそくさと二階に戻ると、部屋の前に食事が置かれていた。いつもと同じ炒飯だ。母親の手際がいいわけではなく、ひっそりと、それでも俺の存在以上に威圧的な炒飯はさっさと食べなさい、食器洗えないじゃないという母親の言葉をそっくり代弁していた。俺は嫌なものをつまむように炒飯を部屋に運びながら、部屋の時計を見る。そろそろお待ちかねの時間だ。俺はまず炒飯を置いて、部屋の鍵を閉める。閉めないと外の世界の雑菌がこの部屋に入ってきて、俺の理想の世界を侵食する。そして、スリープ状態のパソコンに活を入れた。


 うぃー、と気のない返事をしながら顔を明るく照らす。アオイホノオが俺の顔面で揺らめく。


 ともかく難解な表現で辟易した俺は炒飯を掻き込む。部屋から出なくなった俺は少食になったので、きっと炒飯は半分くらいしか食べられない。スプーンを左手に持ち換えながら、パソコンに指示を出す。さあ、いつものを頼むぜ。パソコンは俺ほとんど寝てないんすよ、みたいなことを言いながらうぃー、と返事をして動き出す。スリープ状態なんだか寝てただろうと思いながら俺は長すぎる時間をイライラしている。そのうちに炒飯を掻きこむ。


 パソコンはゲーム画面を写す。『ツウィンクルスターオンライン』。イベント開始の時間にギリギリ間に合う。時間は正午。


 俺はイベントフィールドを駆け巡る。俺は世界を救うのだ。走りながら炒飯。モンスターを倒しながら炒飯。走りながら攻撃。炒飯、炒飯。


「炒飯いらないな。」


 そう思って右に左に持ち替えていたスプーンを放り出す。そして、さらなる冒険へと一歩踏み出すのだ。


 『ツウィンクルスターオンライン』のストーリーはこうだ。


 主人公は宇宙を巡る旅人。そんな旅人の下にある日SOSが舞い降りる。それはある星の姫君で、主人公はその姫を助けるために星を巡っていく。その姫は宇宙を破壊せんほどの超兵器のカギで、それは大変なので助けるが、でも、俺はただ純粋に可愛いお姫様を助けたい。姫の名前は『クローズ』。なんだか女の子らしい名前じゃないので、ゲーム愛好者からは『クロちゃん』とか『クロ姫』とか、ただ単に『姫』とか言われていたりする。


 ゲームはイベント以外はフリー戦闘で、素材集めとか経験値を上げるためのものである。だから、イベントを必死に進めて姫を助けなければならない。俺みたいに一日中ゲームをやっているバカが多いせいか、イベントは難易度が高い。一秒でも逃せばストーリーが解放できない。そして、俺は20あるサーバーの内の一つで最も強い。無課金だが最強。何故なら、睡眠時間を削って、学校にも行っていない。運営側としては課金しないクソはクソ迷惑なのだろうが、課金せずに楽しめるゲームを作ったクソがクソなんだ。


「明。食器は?」


「うるせえ。クソババア。」


 後が怖いけど、今はそんな状況じゃない。ストーリーも佳境なのだ。もしかしたら、今度で姫を救いだせるかもしれない。イベントがあるたびに最後は別の組織が姫を連れ去って、「またさらわれたのかよ」とか「まるで景品だなクロ姫」などと批判のような感謝のような言葉が掲示板に書かれているが、俺は姫しか見えていない。小さくて、すらりとした、妹のような姫。いつも悲しそうな顔をしているのが美しいが、でも、俺がその涙にぬれた顔を笑顔にしてやる。


 小一時間ほどフィールドを進み続けると、ラスボスが現れた。


「コイツが姫をぉぉぉぉ!許さん!」


 毎回敵がイケメンなので俺は闘志を燃やす。イケメンをぶち殺すのは最高だ。俺は低レベルの装備で挑む。低レベルの装備は威力やなんやらがとても弱いが、使える回数が多い。攻撃はあまり通らないが、地道にやっていけばいい。それにこのくらいなら容易く倒せる。


「お前ら、行くぞ!」


 オンラインゲームは複数の人間と協力して敵を倒す。この真昼間からゲームをしているのは廃人たちなので、至極やりやすい。時には課金厨もいて、そいつは高レベルで回数制限のあるやつをバンバン使う。俺はそいつを支援することにする。俺は最強なのかと疑問に思うやつはいるだろうが、俺は最強だ。そのうち分かるさ。


 ボスの攻撃力は強く、最終ステージまで進んだ仲間の半分は倒れた。でも、ボスは倒した。


 倒したボスはモンスターになって復活。これも毎回同じだ。


 モンスターは強力で範囲の広い攻撃を繰り出す。俺は鍛えたボードテクニックで難なく避ける。だが、課金厨が倒れた。課金厨ほど金に頼りやすいから、装備を強化してなかったりするし、操作も弱い。


「残念だが、後は俺に任せろ。」


 俺はブラインドタッチで装備をひと段階上に切り替える。残ったのは熟練の戦士ばかり。そいつらも俺が強い装備に切り替えたのを見て、ひと段階装備を上げる。ここからが俺たち廃人の境地だ。今度は俺が前に出る。残っているのは常連なので安心して背中を任せられる。さあ、俺の剣で切り刻まれろ。


 本気を出し始めた俺たちはあっという間に第二段階をぶっ倒す。敵を倒すのは時間制で、今回は案外早く倒せた。まだ時間は半分残っている。すると、敵は最終段階へ。さらに巨大なモンスターへと変わっていく。


 俺たちはとうとう来たか、と現状で最強の装備に切り替える。回数制限に加え、時間制限もある装備。基本的に課金しなければ手に入らないが、時々フリーミッションでドロップする。天文学的な確率らしいが、俺は確率も塗り替える男だ。


「一気に肩をつける!」


 最終段階は毎回不可避の瞬殺攻撃を繰り出す。それを耐えられるのは最強装備だけ。そして、ダメージを負わせることができるのは最強武器だけ。そんな鬼畜のなか、俺たちは限られた時間で奮闘する。そして、ラストアタックを決めた。全てをかけた一撃。ほとんど何も残っていない。これから必死で周回だな、と気を抜いていると、急に画面が暗くなる。


 もしかして落ちた?


 パソコンに無理をさせ過ぎたか、と思うとそうではないらしい。暗い中から変な奴が現れて抗弁を垂れる。つまり、こいつが本当のラスボスか。じゃあ、物語は終わるのか?


 そう思うと体から火が噴き出す。


 いいぜぇ。やってやらあ。


 と、敵は俺のキャラに姿を変える。


 え?どうして?


 そして、今まで戦ってきた同志はどこにもいない。つまり、これはそれぞれが各々で戦わなければならないというやつか。鬼畜だな。


 そして、装備は初期装備で、変更できない。


 最終決戦が幕を開ける。仰々しいクラシックがラストバトルを劇的に彩っていた。


「なんだと!?」


 敵は物凄く早い。同じ装備であるのにそれは反則だ。


「むぎぎぎぎ。ひいいいい。」


 俺は手が攣りそうなほどキーボードを叩きまくる。そのくらいしないと避けられない。


 なるほど。これのためにラスボスは難易度が低めだったのか。


 違和感の謎を解いたと同時に運営の鬼畜感は半端ないと思った。


「ひやあああああ。ひゃふううううう。」


 俺は悲鳴なのかなんなのか分からない言葉をひねり出す。所詮はPCだと侮っていた。相手の攻撃はそのどれもが一定の動きをしない。全てが流れる水のようにとらえどころがない。つまり、隙など微塵もない。どんな名刀でも流れる水を切ることなどできぬように。


「がっ。ががっ。ががががが!」


 どんどんとダメージを食らっていく。もう、ダメだ。諦めよう。そう思った時であった。


「アキラ。」


 俺のキャラ名を呼ぶ声が聞こえる。それはクローズの声だ。


「ああ、姫。俺はキミを助けられなかった。」


 俺は姫から目を背けるように俯く。


「かまわないの。私のために今まで頑張ってくれたのだから。もう、私のために傷付くあなたの顔なんて見たくない。だから、もう、私のことは――」


「こんなところで!諦めてたまるか!」


 俺の体を奇跡が覆う。そう。俺は姫を助けて幸せになるんだ!


「ちびらぷぱねえら!」


 何を言っているのか分からないが、現実の戻ってきた俺は鬼神の如くキーボードをたたく。敵が画面の死角に入る。だが、画面移動をしている暇はない。俺は直感でどこから来るのか探る。そして見事逃げた。


「ここだ!」


 画面の死角に向かって俺は渾身の一撃を食らわせる。


「まだまだまだまだ!」


 ここからは一方的虐殺ワンサイドキル。連打ラッシュを憎き面に浴びせる。


 そして、気付いたときには戦いは終わっていた。


 画面にはクローズの姿が映る。今まで通信でしか会えなかった姫。今は半透明でなく、しっかりと色のついた、実物だ。


「ありがとう。」


 姫は涙ながら俺に抱きついてくる。その顔は俺が見たかった笑顔だ。


「ああ、生きていてよかったな。」


 俺はキーボードを投げ出し、椅子にもたれかかる。その瞬間、力が抜けて、椅子に全体重を載せることになった結果、俺は勢いよく後ろに椅子ごと倒れることになった。もう、立ち上がれない。


「でも、俺は今最高の幸せに包まれている。」


 そうして俺は力尽きたように眠った。




 目が覚めた途端、夢から醒めたように急に冷静になる。


 姫助けたらストーリー終わりじゃん→サービス終了!


「待て待て待て。」


 それは流石にないだろうと俺はネットで検索する。すると、公式にはサービス終了の告知はないが、ネットの掲示板では「おわりじゃね」とか「いや、新章くるっしょ。新しい姫助けるんでしょ」「新景品ワロタ」などと書き込まれている。確かに、そこそこ人気のコンテンツである『ツウィンクルスターオンライン』はそう簡単に終わるはずがない。だが、新しいストーリーの告知もないのが少し気がかりだった。


 そして、もっとも問題なのが、俺のモチベーションだった。クローズを助けた今、俺は完全に燃え尽きている。もう、パソコンに向かう気もしない。


「ああ。ああ。」


 きっとそのうちやる気が戻ってくるさと思いつつも、胸の中の暗澹とした不安をぬぐい切れずにいた。




「いやあ、嫌な夢見てさ。」


 俺は嫌な夢を見たことを語っていた。


「ムカデが俺の体を張っててさ。それがデカくって気持ち悪くって。」


「うんうん。」


「あ、炒飯の皿返さなくっちゃ。」


 俺は部屋の外に炒飯の皿を置く。そして、俺は部屋の中にいる人物に話しかける。


「で、どちらさん?」


 部屋の中には銀の髪をした背の小さい少女がまるで自分の城かのように俺の永遠に居座っている。


「まろはクロ。パライソス星の姫じゃ。」


 全くない胸を張って少女は宣言する。白い肌に白いワンピース姿はどちらかというと白という名前の方が似あっている気がする。


「まろが名乗ったのじゃ。ぬしも名のれい。」


「・・・」


 ああ、俺はまだ夢を見ているのだろうと思った。目の前にクローズに似た少女がいる。でも、話し方は全く違って、性格も全く違う。きっと悪い夢なのだ。


「すまんな。俺はネトゲをやらなくちゃいけない。」


 俺は謎の銀髪の謎少女など放っておいてパソコンを呼び覚ます。


「さっきので道具を消費したからな。頑張らないと。」


「こら!私をかまえよ!」


 一人称が私に変わってるじゃねえかとか言いたかった俺だが、誰かにかまっている暇などない。ずっと無視しているとなんだか銀髪の様子がおかしかった。そして、気が付いたときには銀髪は俺に飛びついていた。


「やめろって!ああ、操作が!」


 キーボードから手を放してしまい、俺のキャラはデッドエンドする。こんなところで負けるなんて。なんて恥ずかしい。そして、極めつけは少女から花のようないいにおいがするのだ。これは毒だ。きっとリリスか何かが俺からネトゲを奪おうとしている。それは許せない。そんなことでちょっと心が揺れている俺もなんだかやるせない!


「いい加減にしろ!」


 俺は拳を振り上げ、部屋に響くほど怒鳴る。


「ううぅ。」


 すると少女は過剰なまでに俺を恐れた。俺はすごく悪いことをした気分になって拳を戻す。


「とにかく俺の部屋に入らないでくれ。ここは俺だけの宝船なんだ。」


 俺は扉を開け、まだ顔に恐怖を張り付けたままの少女を無理矢理部屋に出そうとする。


「むぎゅわああ。」


 外に出るという折になって少女は抵抗する。


「早く出てくれよ。」


 俺は無理矢理出そうとするが、少女は出ようとしない。


「うう。やめてけれ。」


 少女が悲痛な叫びをあげた時になって、俺は違和感に気付く。少女は全く抵抗していない。だが、扉の開け放たれた空間に壁があるように少女は動かないのだ。


「どういうことだ。」


 俺は自分が外に出る。だが、普通に出れる。


「なあ、お前。」


「まろはクロだ。」


「猫みたいだな。」


「悪いか。」


「とりあえず、クロ。出てみろよ。」


 だが、クロはそこに壁があるように部屋から出ることができなかった。その姿はまるでパントマイムをしているようで面白くって仕方がない。


「むむ。笑ったな。」


 クロは怒ったように俺に向かって突進する。だが、やはり部屋には結界みたいのものがあって、クロは外に出られないようだった。思いっきり目に見えない壁にぶつかったクロは目を回して俺の部屋をグルグル回っている。


「なるほど。面倒臭い。」


 俺は物事の理解ができていなくって、頭を冷やそうと下の階に降りた。




「あら。珍しい。」


 母親が珍獣でも見たような顔をして俺に言う。そんなパンダかコアラを見たような目で見られても。


 リビングの様子はすっかり変わってしまったように見える。だが、きっと何も変わってはいない。久々過ぎて、どうにも自分の居場所という実感はない。それに、実際俺の居場所ではないのだろう。


「もうすぐお姉ちゃんたちが帰ってくるけど、何食べたい?そうだ、お赤飯炊きましょうか。」


「そんな初潮を迎えたあれこれを・・・」


 ともあれ、姉たちが帰ってくると面倒なので、俺は致し方なく部屋に戻ることにした。


 部屋に戻るとクロはさっきまでの騒ぎようが嘘のように俺のベッドに腰かけてぼうっとしていた。その姿はとても悲し気だった。その姿はクローズによく似ていた。


「あ、お帰り。」


 寂しげな顔は変わらない。俺の前でそんな顔をされるとなんだか癪なので俺は何か話そうとする。


「お前は何者なんだ。どうして俺の部屋から出られないのか。」


「知らないよ、そんなもん。」


 はあ、と俺は溜息をつく。俺はこれが夢だとは思えなくなっていた。夢ならすぐ冷めるだろうからそれならそれでいいとも思ったりもする。


「じゃあ、お前は何がしたい。」


「お前じゃなくてクロ。」


「じゃあ、クロは何かしたいことはあるのか。」


「質問ばっかりじゃモテないよ。バカ。」


 ああ、人が少しくらい優しくしてやろうと思っているのに。これだから、三次元?ってやつは。


 俺は何もかも面倒になってパソコンに向かう。ゲームの中なら友達はいっぱいいる。わざわざ現実で作る意味もない。


「ねえ、何やってるの?」


「ゲーム。」


 俺は再び周回を始める。早く素材を集めないと次のイベントに間に合わない。


「面白いの、それ。」


「・・・」


 俺はゲームに集中したいのでクロの話を聞かない。


「そう言えば私、バカの名前を聞いてないんだけど。」


「明。」


「アカリ?」


 俺は自分の名前を言うのが嫌だった。明と書いてアカリ。でも、それは女につける名前だろう。せめてアキラだろう。だが、どうしようもなくアカリで、それはまるで親の定めた運命から逃れられないような気がして、この名前を発するたび親を憎む羽目になった。それは俺に姉と妹がいるということも関係があるように思う。


「ねえ、明。あなた、強いの?」


「ああ、物凄く強いさ。伝説級だね。」


 俺は得意になって、手をずっと動かしながら明に俺がいかにすごいのか自慢する。


 そして一言クロは言った。


「金色のバカ?」


「なんだ、それは。」


 周回が一段落したので俺はクロに向き直り、睨む。こんなにバカバカ言われると腹が立つ。


「だって、ゲームでしょう?ゲームって現実では役に立たないじゃない。」


「自称宇宙人に言われたくないな。」


 すると宇宙人は自分がいかに凄いのか語り始める。自分の星は星雲の中で一番潤ってるだの、それは自分のおかげだの、自分は銀河一の美少女だの。


「お前こそバカじゃん。」


「なにを?まろは銀河一の権力者だぞ。」


「ここ、その銀河じゃないし。」


 クロは口で俺に勝てないと分かると実力行使に出る。つまり、俺に飛びつく。


「バカバカバカ。」


「バカバカバカバカ。」


「バカバカバカバカバカ。」


 どっちがバカと言い合っているのか分からなくなってきたときに部屋の外から声が聞こえた。


「あんた、何やってんの?」


 気が付くと、部屋の扉が開いていて、ずっと開けたままだったことを思い出した。そしてその空いた扉から姉がバカを見ているような目で俺を見ている。


「天姉。」


 俺はこの状況をどう説明すればいいのか分からなかった。俺の部屋に見知らぬ少女がいるのだ。


「ええっと、これはですね。どこかの星のお姫様が・・・」


「一人で何やってんの。またゲームの話?みっともないからやめてよね。ヒキコモリのくせして。」


 そう言って姉は俺の部屋の扉を勢いよく閉めた。その風圧で俺の顔に風が当たり、俺の背後のカーテンが揺れる。


「天姉にはクロは見えてないのか・・・」


「そうみたいだね。」


 ふと、俺は見たことがあるアニメを思い出す。確か似たような恰好の少女が幽霊となって出てくる話。確か、あの夏で待ってる・・・じゃなくて、上から見るか下から見るかでもなくて・・・


「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない?」


「そう、それ。」


 とクロが言った瞬間、俺は耐えられなくて言った。


「どうして宇宙人のお姫様がそんな日本のサブカルを知ってるんだよ。」


「教養ですから。」


 初めから全て信じていたわけではないけど、ますます信用ならないやつだな、と俺は思った。




 パタパタという足音。ああ、妹が帰ってきたのだな、と思った。そうして、俺は部屋の扉の鍵をかけ忘れていたことに気付いてどうにかしようと思ったけど、やっぱり間に合うことはなかった。


「お兄ちゃん!部屋から出たんだって!?」


 喧しい声で俺の頭はくらくらする。一方の俺は騒ぐクロをなんとか抑えていたところなので、すごく焦る。


「ああ、お帰り。大地。」


 俺よりも男らしい名前の妹は珍獣を見たような顔をする。


「お兄ちゃんと久々に会話した!?どう?腰の方は元気?ムスコは?」


「女の子が下ネタを言うなよ。」


 俺は溜息をつく。とりあえず謎の宇宙人をベットの方に突き飛ばして妹に聞いた。


「ちなみに、この部屋には俺しかいないよな。」


「何言ってるの?やりすぎたの?」


 とりあえず、下ネタは無視する。


「銀髪の美少女なんていないよな。」


「ママぁ!お兄ちゃんが変になった!」


 妹は階下に向かってそう叫ぶ。俺はとてもひやひやする。今の俺が銀髪の美少女が部屋にいるなどと言ったら絶対に病院行きだ。


「明が変なのはいつものことでしょー。」


 そんなことを言われるとすごく心外だ。


「そうだったね。」


 ああ、なんてことだ。


「じゃあ、明日は学校に行けるね。」


「行かない。」


 急に冷めてしまう。学校に行くのか行かないのかは別なのだ。


「なんで?」


「行かないったら行かないの。」


 すると、クロが俺の頬をツンツンとして注意を向ける。


「あのリア充は誰?」


「確かにリア充だな。キラキラしてやがる。」


 別にケバイ妹ではない。どちらかといえばスポーツ系で、髪は短い。そして童顔なのできっと学校では愛され系なのだろう。


「うわあ。お兄ちゃん、誰かと話してる。お化け?お化けでもいるの?」


「確かにお化けと言えばお化けか。」


「失敬な!まろはパライソス星の姫、クロじゃ!」


「その設定、そろそろ無理があるんじゃないか?そもそもどうして俺にしか見えない。」


「ごめん、お兄ちゃん。ちょっとどころじゃなくてすっごくキモいの。」


 ああ、唯一慕ってくれてるっぽい妹に嫌われている。


「パライソス星の超科学により、金色のバカにしか見え無くしてあるのだ。」


 俺は色々立場があるので、クロの声は聞こえないようにする。少なくとも返事をしてはいけない。


「ごめんな。ちょっとお兄ちゃん、やり過ぎちゃってさ。」


「そうだと思った!」


 いやいやいや、納得しないで欲しい。でも、この状況を詳細に語ると俺はこの部屋から閉め出される。だが、クロは不満なようで俺に襲いかかってくる。そんなクロの腕を掴んで俺はクロを止めた。


「まろはここにいる!」


「聞こえないんだってばさ。」


「お兄ちゃん、本当にどうしちゃったの?」


 ああ、とっても面倒なことになってきた予感がする。


「その、あれだ。思春期独特のあれなわけだ。だから、お前も鍵がかかってないからって勝手に入ったらだめだぞ。」


 物凄く恥ずかしいことを言っている自覚はある。だが、クロに襲いかかられた方が変な気分になりそうだから、俺はこっちの一大事で大変なわけで。


「そ、そうだね。新しいプレイなんだね。でも、お兄ちゃん。脳内妹で遊ぶのはダメだと思うよ。」


 ぎくり、と俺の胸は軋む。どうして妹であることが分かったのか。いや、恐らくクロは大地よりも年下だ。これで俺より年上だと言われたときには天地がひっくり返ってしまうだろう。太陽も東から上ってくる。


「太陽は東から上ってくるよ。」


「随分と日の出を見てないからな。って、どうして俺の考えていることがわかるんだ!?」


「明の顔に書いてある。」


 そんなバカな、と思い俺はクロの腕を解いて顔を触る。でも、触っても何も分からないじゃないか。


「ごめん、お兄ちゃん。ちょっと吐いてくるね。」


 妹は扉をバタンと閉めて駆け足で階段を降りていった。あれは本当に吐きに行ったんだろう。


「お前なあ。」


 俺はいたずらっぽく笑うクロを睨む。でも、悪びれる素振りさえ見せず、クロは俺に無邪気な笑みを見せる。


「あの子、妹?」


「ああ。」


「ちっ。キャラ被りか。今のうちに殺っておかないとな。」


「冗談だよな。お前が言うと冗談には思えないんだが。」


「お兄ちゃん!遊んで!」


 俺はクロの飛び込みを回転いすの脅威のローラーを使って避ける。


「ぶべへぇ。」


「くくく。ネトゲ廃人をなめるなよ!?」


「少しも自慢になってない!?」


 急に騒がしくなって疲れはするけど、なんだか友達ができた気分でもあった。ただ、年下と言うことは俺の精神年齢がクロと同程度ということで、とどのつまり、俺はクロの言う通りの金色のバカということなのかもしれない。認めたくはないけど!




「ご飯食べないの?」


「ゲームで忙しい。」


 俺はクロにそう言った。


「でも、みんな待ってるんじゃないの?」


「待ってるもんかよ。」


 今さら家族に合わせる顔なんて俺は持っていなかった。それは俺が単にビビりというだけなのだろうけど。


「家族で食べるとご飯は美味しいんじゃないの?」


「むしろマズくなるね。」


 きっと張りぼての笑顔を作りながら俺に優しくするだろう。天姉以外は。でも、それはお互いに気分が悪いだけで、きっと飯の味なんてしやしない。だったら、一人で食べている方がよっぽどいい。


「お前は家族と食べたことあるのか?」


「・・・まろは姫だから、お父様とお母様は忙しいんだ。一緒に食べている暇はない。」


「ああ、そう。」


 そのうちご飯を部屋の外に置いてくれる。今、俺はゲームに集中しなければならなかった。


「ねえ、ねえ。何か遊ぶものないの?」


 ここでないと言ってしまうとまたゲームの邪魔をされる。なので、俺は本棚からマンガを取り出して、クロに投げる。クロはそれを華麗にキャッチする。


「少年漫画?少女漫画はないの?」


「パンタソス星にはあったのかよ。」


「パライソス星!まろは姫だからそんな下賤な文化は知らないの。」


「日本のサブカルは教養じゃなかったのかよ。」


 ザルのような設定だな、と俺はガバガバの異星人設定について思った。


「でも、俺以外にクロが見えないってことは、本が宙に浮いてるように見えるのかな。」


「お兄ちゃん!ご飯!」


「うわあ。」


 何の脈絡もなく妹が俺の部屋の扉を開ける。手には夕食の乗ったお盆。階段を上がる音が聞こえなかったから、さてはこいつ、忍び足を身に着けやがったな。


「脳内妹と夜のプロレスごっこもいいけど、ご飯だよ。」


「うるせえ。」


 そんな時、ばさりと物が落ちる音が聞こえる。なんだろうと見ると、床にマンガ本が落ちていた。クロは固まってしまっている。物凄く驚いているようだ。クロはマンガ本をとろうとするが、クロの手はマンガ本をすり抜けてしまう。


「もう。散らかして。」


 妹はお盆を俺に渡すと、マンガ本を手に取り、本棚に持っていこうとする。


「待って。読みたい。」


 クロは妹の手を引っ張ってマンガ本を取り返そうとする。だが、クロの体は妹の体をすり抜け転んでしまう。


「なんで?」


 クロは俺が悪いかのように俺を見る。


「知るかよ。」


 俺はクロを触る。すると、人のような温かみのある感覚がする。とどのつまり、俺だけが今の状況でクロを触れる。


「汚い手で触るな。金色のバカ。」


 クロは俺の手をはたく。物凄く痛い。小さな手でよくもこんな攻撃ができる。


「お兄ちゃん。ここに本物の妹がいるよ。体はちょっと触らせられないけど、寝ている間ずっとお兄ちゃんって言い続けてあげられるよ。」


「変態だ。明、変態。」


「大地。お前の気持ちはありがたいが、それはヤンデレだ。」


「だって、お兄ちゃん、すごく病んでるみたいだから。」


「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ。」


 それに俺が変態じゃなくて、妹が変態なだけだからな。


「脳内妹で楽しんでばかりいないで、早く食べてね。ママ、怒るから。」


「そうだな、そうするよ。」


 俺が食事に手をつけないところを見て、妹は部屋を去っていく。妹が部屋を去っていった瞬間、俺は扉を閉めた。そして、食事を始める。


「美味しそうだな。私も食べたい。」


「宇宙人は宇宙食でも食べてろよ。」


 クロは無理矢理俺の手からお盆をひったくる。


「飯だ、飯。」


「今は普通に持てるんだな。」


「おうよ。私はモテモテだ。」


「自分でいうとすごく痛いということだけは分かった。」


 クロはもう俺の言葉など耳に入っていないようだった。ひたすらかぐわしい匂いのカレーライスを食べている。


「これ、美味しいよ。すごくおいしい。」


「まるで初めて食べたような感想だな。」


「初めてだけど。」


 なるほど。宇宙人だからなのね。だが、俺の目にはクロが演技をしているようには見えない。口の周りを汚しながらおいしそうに食べている。


「お前は外国人の幽霊なんだな。でも、外国にビーフシチューとかなかったのか?って、俺の分残しておけよ。」


「ええ?仕方ないなあ。」


 クロはカレーをすくい、カレーの乗ったスプーンを俺の口に近づける。だが、それは間接キスというやつで、俺は童貞なのでごにょごにょ。


「全部食え。残さず食え。」


「要らないならそう言えばいいのに。」


 カレーのいい匂いのせいで俺の腹は結構ピンチだった。でも、流石に女の子が使ったスプーンを使う気にはなれない。うちの姉と妹はそこらへんが大雑把で、自分が使ったコップを薦めてきたりするので俺は肩身が狭い。


「美味いか?」


「めちゃうま!」


 姫がそんな言葉を使うかよ、と思いつつ、俺はカレーのライスが赤飯であることが気になった。


 結局赤飯炊いたのね。




 クロはカレーを全て平らげた後、眠ってしまった。俺は時計を見る。しっかり一秒の狂いもない時計。その時計はイベント開始を告げている。だが、俺は部屋の電気を消す。消して余計にヤバい状況になっていることに気が付く。そのままゲームをしてクロを起こしてしまえばよかったのだろうか。でも、眠っていてくれた方が俺もありがたいし、クロの間抜けな寝顔を見ると起こすのが可哀想に思えてくる。俺もこんな顔をして寝ていたのだろうか。いいや、そんなはずはない。俺はこの部屋が快適であると感じながら、密かに迫る部屋の外の現実に襲われていたんだ。時々寝ていると嫌な夢を見る。ただでさえ寝付けない時がある。朝が来るのが怖くて、朝を過ぎてしまえば嫌な現実が去ってくれるような気がするから、だからゲームに無理矢理熱中していた節もあった。でも、ゲームは好きだ。好きだからこそ続けられた。


「ともかく、だ。」


 暗い部屋。そこに男女二人。女は寝ている。それはひどく魅力的で同時に吐き気も覚える。それは現実だ。俺が二次元を愛しているのは現実味がないからであって、今寝ている少女は現実に存在するのかもあやふやだけど、それでも俺にとっては現実なのだった。


 一度、部屋の外で寝てみることを考えてみた。でも、誰かに見つかるだろうし、見つかったら無理矢理ヒキコモリを卒業させられるかもしれない。快適な生活を取り上げられることは許せなかった。なので、俺はクロの寝ているベッドからできるだけ離れた場所に座っていることにする。こうして真っ暗で、時折少女の幼い吐息が聞こえる部屋で俺はぼうっとする。するとこの部屋には本当に何もないということがよく分かる。絶望はない。だからこそ、希望さえない。希望を得るためには絶望を受け入れる必要があって、それは確かパンドラの匣の話だった気がする。


「何もないところに無理矢理何かを創り出したのがパソコンだったと。」


 そう口にした瞬間おかしくなる。俺には本当にゲームしかないのだと思った。


「むにゃむにゃ。」


「本当にそんな寝言を言うやつがあるとはな。」


 この部屋にはパソコンだけじゃなくまろもいると主張するようにクロが寝言を言った。結局のところ、この少女の正体は得体が知れない。宇宙人であると言われればそうであるような気がする。でも、クロは自分に起きていることを十分に理解できていないようだった。


「お前は何故俺のところに来た。お前は何がしたいんだ。」


 俺の声はクロの寝息にかき消される。それほど消え入りそうな声だった。まるで俺の存在が薄れているようで悲しい。でも、それが現実。でも、現実と非現実との狭間に存在している少女と話している時だけ俺は俺でいられるような気がした。


「本当に何がしたいんだか。」


 今日一日のクロの行動を思い出し、俺はクロと出会ってまだ数時間しか経っていないことに気が付く。もう十年くらいクロと過ごしたような気さえしていた。どうしてそう思うのか分からないし、素直にクロの存在を受け入れ始めている俺自身が理解できない。


 その少女は外に出られなくって。


 暇だから俺と遊びたがって。


 でも、もし外に出られたら俺なんかにかまってくれなかっただろう。


 道端のありんこみたいに俺のことなんか見えなかったに違いない。


 でも、小さな少女だったから俺のような小さな風に吹き飛ばされそうなちっぽけな存在に気が付いてくれた。


 それは感謝してもしきれないことなのかもしれない。


 俺はクロに感謝している?


 遊んでくれて嬉しいのか?


「でも、今のクロは俺そのものだ。」


 外に出られないクロ。外に出たくない俺。そこには大きな違いがあるはずなのに。でも、実際問題、この部屋から出ないという点では一緒。でもきっと本当のクロは俺なんかとは違って誰とでも仲良くできるだろうし、現実を恐れもしないだろう。やっぱり俺は情けない。他人のことを気にするより、俺は俺のことを気にしないといけないのだ。でも、俺のことを考えると現実がメキメキ頭角を現してくる。ああ、もう嫌だ。




 眠られずに朝を迎えた。夜、眠らずにいることは当たり前だったはずなのに、今は自分が消し飛んでしまいそうなほど眠かった。


「明。いつまで学校を休んでるんだ。」


「ずっとだよ。」


 頭のいかれかけた俺はいつもはしない返事をしてしまう。


 ボン、と怒りを込めた一撃を扉に打ち込まれる。天姉は今日も不機嫌らしい。


 俺は天姉が去った後、扉に急ぐ。そして、しばらく扉を引っ張られないように力を込める。


「お兄ちゃん!あれ、何故開かない!」


「お取込み中なんだよ。」


 ばたばた無理矢理扉を言開けようとする妹を俺は必死で阻止する。知らない間に大地の筋力は上がったようだ。もしくは俺の筋力が低下したのか。


「学校行こうよ。」


 妹は急にしゅんとした声で言う。


「行かない。てこでも動かねえ。」


 俺はまだ扉を引っ張ったままでいた。そして案の定、妹は不意を突いて扉を開けようとする。


「くっ。今日は運び上げてでも連れて行くつもりだったのに。」


「お前の思考は読めている。」


 ちょっと気取って言ってしまったせいで、危うく扉が開いてしまうところだった。


「お兄ちゃん。出てこないと脳内妹のことをばらすからね。」


「好きにしろ。」


 どうせ誰もまともに取り合わないだろうと俺は高を括る。すると、俺はいいことを思いついた。


「でへへ。脳内妹ちゃん。お兄ちゃんとスケベしようや!」


「大丈夫?そんなこと言ったら収拾がつかなくなるよ!」


「脳内妹、脳内妹、脳内妹。」


「うわー!お兄ちゃんが脳内妹とやっちゃってるよぅ!」


 後のことがどうなろうと俺には関係ない。外の世界と俺のアヴァロンとは世界が隔離されている。だから、気にしない。俺が外に出ない限り大丈夫なのだ。


「うぅ。金色のバカ、きしょい。」


 目を覚ましたクロが俺を本気で気持ち悪がっている。クロの寝起きはロリコンの心をくすぐるものだった。ワンピースの肩ひもが片方ずれ落ちている。だが、幸いなことに俺はロリコンではなかった。


 トントントン。


 今度は思い体重の足音だった。父さんだ。


「おい、明。大丈夫か。」


 妹が下で大騒ぎでもしたのだろう。父親はひどく困った声をしていた。


「お前の性癖はお前だけのものだが、つまりだな、その、頑張って自家発電をだな――」


「父さん。もうすぐ俺に子どもができるんだ。」


「うっ。」


 父親は激しく咳き込む。ここまですればもう関わる気もなくなるだろう。


「何かに悩んでいるのなら、父さんたちに相談するといいぞ。だから、まずは部屋を出てだな。」


「ねえ、父さん。名付け親になってくれないかな。」


「・・・」


 俺の頭はおかしくなったらしい。父親はどう思ったのかは知らないが下の階に降りていったようだった。


「ねえ、金色のバカ。バカじゃない?」


 俺の脳内妹は、少なくとも俺には友好的ではない。


「バカバカうっさい。バカって言う方がバカだ。」


「まろにバカと申すか!まろはパライソス星の姫であるぞ。」


 設定を思い出したようにクロは憤慨する。明らかにわざとらしい。


 俺は母親が来るかと待っていたが、来なかった。なので、ほっとして椅子に腰かける。


「で、その姫様は俺に何の用なんだ。」


「そ、それは・・・」


 クロは言いよどむ。


「つまりは何も考えてなかったと。」


「なんだと?まろに限ってそんなことがあるものか。まろは重大な使命を持ってここにきたのだ。だが、何故だかこの部屋から出られん。まろの姿を見ることができるのは金色のバカだけだ。」


「なるほど。話を聞こうじゃないか。」


「ええっと・・・」


 クロの瞳は右に左に泳ぐ。


 嘘を一度吐いてしまえば、本当だとバレるかバラさない限り、嘘を重ねていく。その嘘を上から塗りたくってできた世界が今の世界だ。世界は嘘の上に成り立っている。嘘のおかげで地球は沈まない。嘘がなければ真実は成り立たないからだ。


「まろはこの地球と友好条約を結びに来た。だが、この部屋から出られなくなったのだ。まろにかかっている絶対見えなくなるバリヤーが何故か金色のバカにだけきかないのだ。」


 UFO研究家のような嘘だった。で、それはその研究家の嘘が子どものつく嘘と同じくらいのもだということでもある。


「じゃあ、証明してみろよ。そうだ、ジャンプ勝ってこい。」


「お前はヒキコモリか。」


「ヒキコモリだけど?」


 俺は悪びれもせずに言った。


「ごめん、明。私がバカだった。」


 がっくりと肩を落としてクロは言った。


「俺は寝るからそこを退いてくれ。」


 俺は蠅を追い払うようなしぐさをする。


「ええ!?明が寝ちゃったら暇だよぅ。遊んで、遊んで!」


「ガキか、貴様は。」


「レディに貴様なんて言っていいの?」


「もっと成長してから言え。」


 とはいえ、クロはてこでも動かないだろうし、俺が無理矢理どかしても、俺が寝ているところにはやし立てるだろう。つまりはどうあっても寝られないのは目に見えていた。さっきは成長してどうのと言ったけど、女の子がいるところで無防備に寝れはしない。


 俺は額を押さえる。寝不足のせいか、熱っぽく、頭は起きてからずっとずきずきしている。外からずっと押さえつけられているような痛さだった。


「ともかくだ、お姫様よ。俺は寝不足で頭が痛い。そんな奴をゆっくり寝かせるとか、そう言う配慮があってもいいんじゃないか。」


 クロのわがままなところは確かにお姫様というか箱入り娘のような気がした。


「それなら、別の部屋で寝ればいいじゃん。」


 ああ。ああ、ああ。頭を押さえ続けていた頭痛を押しのける感じで頭の中に何かが押し上げてくる。これが頭に血が上るという感情なのか。


「出て行け!」


 声が裏返った。俺は本気で怒っていた。


「ちょっと、どうしたの?」


「出て行けよ!ここは俺の居場所なんだ!ここしか俺はいる場所がない!お前とは違って俺にはここしか、もうここでしか生きて行く場所はないんだ!」


 俺は怒りながら自分の惨めさを告白していた。


「私もここにしかいられないよ。それに、明の居場所はここだけじゃない。明は外にも出られる。」


「知ったような口を聞くんじゃねえよ。」


 年下の女の子に本気で怒っていた。情けない。でも、クロは俺の気持ちなんか分かりはしない。だって、俺じゃないから。俺じゃないやつに俺の気持ちなんか分かるはずがない。


「明には家族がいるよ。」


「うるさい。」


「みんな明のことか心配だから、毎日声をかけてるんじゃないの?」


「うるさい。」


「明が思ってるほど外の世界は悪いものじゃないんじゃないかな。」


「うるさい、うるさい、うるさい!」


 目の前の少女を殴り飛ばしたくて、でも、そんなこともできなくて、このまま外に逃げ出したくても外に出る度胸なんてもっとなくて。


 俺は結局部屋の床に座って顔を覆っていることしかできなかった。


「ねえ、金色のバカ。悪かったよ。」


「俺にかまうなよ。」


「ベッドで寝たらいいじゃん。私、邪魔しないから。」


「もういい。」


「ねえ。明がそんなんだと私も悲しくなっちゃう。」


「知らない。」


 クロは俺のそばにいたようだった。クロの花のような香りがする。ずっとこの湿っぽい部屋にいるはずなのに、太陽のような香りを体に纏っていた。


「本当にごめん。」


 クロの声は急に小さくなった。


「私も出られるのなら出たい。だって、明がそうして欲しいと願うのなら。でも、どうしても出られないの。」


 そう、わがままなのは俺の方なのだ。クロはこの部屋から出られない。だから、出るのなら、自由に暮らすのなら俺が外に出るのが筋なのだ。でも――


「クロは俺がいない方がいいのか?」


 すると今度はクロが本気で怒った。


「バカな事言わないで!明がいなくなって嬉しいはずないよ。せっかく――」


 少しの間クロは言葉を発するのを戸惑っていた。カーテンが外の空気に揺らされたとき、クロははっきりとそう言った。


「せっかく初めて友達ができたんだから。」


 その言葉を聞いて、俺は心から喜んだ。俺はクロにとって特別なのだ。それだけで嬉しくなる。


 俺はクロの顔を見た。目が合った瞬間、クロはワンピースを揺らして俺に背を向けた。


「ふぅ。」


 俺は溜息をつく。どうしてクロをからかってやろうかと考えた。でも、そんなことをしてしまうと、さっきのクロの告白がくだらないものになってしまう。


「あーあ、大声出したら眼が冴えちまった。そうなると暇で仕方ないなあ。誰か遊んでくれる人はいないかな?そんな友達がいたらなあ。」


 少しも目なんて冴えてはいない。むしろ、気を抜いたら瞼を閉じてしまいそうだった。でも、無理矢理自分を奮い立たせたら、おかしなテンションになってしまっていた。


 くるり、とクロは俺に向き直る。その目は少し赤かった。


「泣くほどじゃねえだろ。」


 クロが泣きたかった気持ちが俺には分かった。友達だといった後、そうじゃないと否定されるのが怖くて仕方がなかったのだろう。俺と同じだ。


「まろが遊んでやろう。金色のバカ。」


 輝くほどの笑顔でクロは言った。お前の方がピカピカじゃねえかよ、と俺は心の中でつっこんだ。


「まあ、とにかく今日は俺は寝不足で調子が悪い。だから暴れるのはなしにしよう。」


「うん。」


 クロは聞き分けが良かった。普段もこのくらい聞き分けが良かったらいいのに、と俺は軽くため息をついた。


「オンラインゲームとかどうだ?俺がやってるやつだけど。」


「でも、それは明の大事なものなんじゃないの?邪魔すると怒るし。」


「まあ、命の次に大事だけど、興味はないのか?」


「ある。バリバリだぜ!」


 いつの時代だよ、と俺は頬を緩める。俺は椅子から立ち上がり、クロに椅子に座るように言った。クロは乗り物の運転席に乗せてもらった子どものようにはしゃいでいる。


「これが金色のバカの見ている風景か。くるしゅうないぞ。」


「調子に乗るな。」


 俺はマウスを動かし、パソコンを起動させる。


「どうするんだ、どうするんだ!?」


「ちょっと待ってろよ。」


 俺はゲームを起動させる。何度も聞いたオープニングが流れる。でも、今日の俺は特等席に座っていない。姫をエスコートする側だ。


「おお!どどどだぁ。ばばばだぁ。」


「ゲームはやったことないんだな。」


 姫なのだからそうなのだろう。パライソス星にはゲームなんてなかったのだろうか。


「ない。初めてだ。どうするんだ?」


「まず、キャラを作ろう。それからだな。」


 俺はキャラをストックいっぱいまで作っていたので、それを一つ消す。どれも大事なキャラだった。今日の俺は狂っているらしい。


「顔とか体型を選べるぞ。」


「おお!」


 俺はクロにマウスの使い方を教える。


「このカーソルてぇのを合わせて、左でポチポチだ。」


「なるほど!ポチポチげーってやつだな。」


「違うけど、まあいいや。」


 クロが作ったキャラは黒髪に活発そうな黒髪の女の子だった。体型はクロと似つかない、大人の体型。俺はてっきり自分とそっくりの姿をクロは作るとばかり思っていたがそうではなかった。なんというか、天姉と大地と合体させたような姿で、何とも言えない気持ちになる。


「で、どうするんだ?なんか色々動いているぞ。」


「基本的にこのキーで移動。これで攻撃だ。まずはチュートリアルだな。」


 俺はクロに近づき、キーボードを触って動かして見せる。風呂に入っていないので匂いが気になった。


「おお!なるほどなー!」


 クロは俺の匂いなんか気にしてない様子でゲームを遊び始めた。


「ちょい待て。近づき過ぎだ。」


「うん?こうか?」


「ああ、そんなにも攻撃を受けて。」


「ええい、小癪な。まろが姫と知ってのことか。」


「いや、モンスターにそんなことを言ってもだな・・・そこ、左から狙われてる。」


「え?うぅ。」


 チュートリアルなので負けることはないが、クロの腕はひどかった。ゲームが初めてだから仕方ないと思う。


「なかなか難しいものだな。しかし、面白い。」


「それは何より。」


 俺はよろけて、急いで後ろに足を出して倒れそうになるのを防ぐ。寝不足が大分たたっているようだった。


「大丈夫か?金色のバカ。そう言えば寝不足で体調が悪いんじゃ・・・」


「気にするな。ほら、また攻撃が来るぞ。」


「なんであんな遠くから?きゃっ。」


「大丈夫。よく見れば避けられるから。」


 女の子に心配されるのが癪で、俺は無理に意地を張った。それに今は寝ているなんてもったいないほどに楽しかった。なんというか、年下の子に頼られるのが嬉しくて、きっとガキ大将はこんな気分なのだと思った。




 トイレをしに下の階に降りた。少し動いたところで、俺は昨日の夕食を口にしていなかったことに気が付いた。このフラフラの原因はそれか、と思い、納得する。俺の体中を膜が覆うようにだるさが襲いかかっていた。これは死ぬんじゃないか、と薄々恐ろしさを感じていたところだった。


「顔色悪いわね。」


 トイレから出てきたところで母親にばったりと出くわす。


「そんなにひどいのか。」


「ええ。便秘が一年くらい続いた顔。」


「それは何らかの病気だろ。」


 ある意味俺は心の病気かもしれなかった。誰にも見えない少女が見えているのだから。


「ともかく、母さん。ご飯をいつもの倍くらいにしてくれ。」


「急にどうしたの?最近食が細くなったと思ったのに。」


 箸も二本ほどつけて欲しいと言おうかと考えたが、それは不審過ぎた。本気で心配されて病院に連れて行かれかねない。ならばどうするか。コンビニで買い物をして大量に手に入れるという手もある。だが、俺は外に出られない。出たくないだけだが、出られないということにしておく。ならば、いかにするべきか。


「なあ、母さん。割りばしとか大量にないかな。時々箸を落として食べられない時があるんだ。だからさ、割りばしが欲しくて。」


 言い訳がましく、早口になった。母親は不審そうな顔をしているものの、分かった、とリビングから割りばしを持ってくる。


「下に降りて言えばいいのに。」


「俺は部屋の外に出たくないんだよ。」


 嫌な話になりそうなので、俺は逃げるように退散しようとした。


「そろそろ学校に行かないと卒業できないのは分かってるでしょ?一体どうしたっていうの?明。あんた、普通に学校に行けてたじゃない。なのに、急に学校に行かなくなって。みんな迷惑してるのよ。」


 そうだろう。そして、やはり誰も俺のことを分かりはしないんだ。


 別に何か特別な事情があって、俺はひきこもったわけではなかった。ただ、ある日、突然として、周りの人間が俺のことを悪く言っている気がした。俺は今まで自分が誰かに気にされていると感じたことがなかった。そして、もしかしたら俺は色んな所で監視され、悪口を言われているのではないかと思うと、俺には誰かより優れているものはなくて、むしろ、劣ってばかりいることに気が付いた。石に躓けば、誰かがこんなところにわざと置いたと思ったし、歩いている時にチラ見されると、俺の情けなさを見抜かれている気がした。


 そして、俺は外に出られなくなった。


 今までひきこもらずに普通に生活していたのが奇跡なのだと俺は感じた。どうして今まで何も考えずに生きていけたのか不思議だった。誰も俺のことなんか分かっていない。俺のことを分かっているのは俺だけだ。だから、俺は外の世界と向き合うことから逃げた。


 俺は母親を無視して階段を上る。俺がひきこもった理由も分からない母親など、母親失格である。


「どうだ?うんこは。」


「だんだんと大地に似てきたな。」


「いかがでしたか?バラ刈りは。」


「キャラ被りは防いでいるな。でも、言っているないようはクソだな。」


「クソだけに?」


 あまり笑えなくて、俺はベッドに腰かける。クロはまだ楽しそうにゲームをしていた。


「寝るのか、金色のバカ。寝るのなら、ゲームをやめようか?」


「いや、お前の気の済むまでやっていい。」


 クロは俺のことを心配しているようだった。ふと、俺はクロに聞きたくなって、クロに聞いた。


「なあ、クロ。俺がひきこもるようになった理由が分かるか?」


「分かる訳ないだろ。金色のバカ。」


 クロなら分かってくれると思っていたが、そうではないらしい。だったら、きっと、この世界の誰も俺がひきこもるようになった理由が分からないのだろう。もしかしたら、俺も何も分かっていないかもしれない。


「でも、明が出られなくなった理由もよく分かるよ。明は外が怖いんだろう?外に出ればみんな自分を傷付ける。自分を自分で傷付けながら生きて行かなくちゃいけない。それが怖いんじゃないかな。」


 まるで自分そのものに語りかけるようにクロは遠くの方を眺める目をして言った。


「もしかして、お前は外が怖くてここから出られないんじゃないか?」


 クロの話を聞いて、俺はクロと俺が同じような存在に見えてしまって仕方がなかった。


「そうなのだろうな。私は外が怖い。ちっぽけな私はきっと外に出ただけで消えてしまう。」


 クロは俺と同じ。だからこそ、こうやって仲良くなったのだと思う。仲が良いのかは実際どうなのか分からないけど、家族よりは腹を割って話せる。だから、出て行けなんて言うのはとってもひどいことなのだと身に染みて思った。


「ごめん、クロ。」


「どうした、金色のバカ。というか、何に謝ってるの!?」


「いいや、何でもない。」


 こうやって俺は何もかも曖昧にして逃げている。クロの正体も目的も無理矢理聞き出さないのは現実が、真実が怖いからなのだ。


「本当に今日の金色のバカはおかしいな。わあ、なんかデカいの出てきた!」


 クロは恐怖と興奮の入り混じった表情でパソコンのモニタにかぶりついている。


「ああ・・・その装備じゃきついかもな。」


「どうすればいいんだ?」


「まあ、落ち着け。なるべく遠距離から攻撃を仕掛けるほかにないな。もしくは潔く死ぬか撤退するか。」


「死ぬのは嫌だ!」


 クロは泣きそうになりながら震えていた。よっぽど負けず嫌いと見える。


「じゃあ、頑張ってやれよ。」


 俺は時々指示を出しながら、クロと一緒にゲームをやっていた。一人でやるゲームも楽しいけど、一緒にやるのも別の楽しさがあることを俺は知った。




 午後、招かれざる客が訪れた。


「ただいま!」


 家中に響く妹の声がした。


「キャラ被りが帰ってきたぞ。」


 クロはゲームに疲れて、ベッドに転がりながらマンガを読んでいた。俺も疲れがたまってゲームどころではなかった。


 どこどこどこ、と階段を上がる音。その音は二つ重なり、くぐもった音は絶え間なく響いている。


「大地の友達だろうか。」


 そんな風に思っていると、突風を俺の顔に吹きつけながら扉が開け放たれた。友達の前では俺の部屋の扉など開ける必要はないと思っていたので放ったままだったのだ。


「お兄ちゃぁぁぁぁぁぁぁん!!ただいまぁぁぁぁぁ!」


 俺は飛び込んでくる妹を華麗に避ける。クロがよく飛びついてくるので慣れたものだった。


「突然なんだ。」


「明くん。」


 ふと、扉の前に女の子が立っていることに気が付いた。


「乃木・・・」


 それは俺の幼なじみの少女だった。なんだかとても気まずい。


「部屋を開けてくれるようになったって大地ちゃんから聞いたから。」


「・・・無理矢理開けたんだろうが・・・」


 恐らく聞こえてはいないだろう小ささで俺は呟いた。


「どうして避けるの?お兄ちゃん!」


「どう?様子は。学校に来れそう?」


「・・・」


 俺たちは妹をそっちのけで話している。でも、俺は碌に話せそうもなかった。


「どうしたの、お兄ちゃん。小さいころみたいに楽しそうに遊べばいいのに。」


「あの頃とは違うんだよ。」


 OL向けの恋愛ドラマみたいなセリフだった。


 別に俺と乃木との間に何かがあったりはしない。むしろ、今まで何もなさ過ぎた。中学、高校と上がっていくにつれ話すことも少なくなっていき、今幾年ぶりに話したのかさえ定かではない。


「ええっと、その、大地ちゃんから聞いたんだけど、脳内妹を飼ってるんだって?」


 俺はその言葉にむっとする。妹が言いふらしているのもそうだし、クロを脳内妹と呼ばれるのもそうだし、飼ってるなんて言われるとなんだか腹が立って仕方がない。


「お前、余計な事言いふらすなよ。誤解を生むだろ。」


 脳内妹なんていないとはっきり見栄を張ることさえできなかった。俺はクロを見ていない。でも、今、クロの存在を否定すればクロはとても悲しい顔をするだろう。もしかしたら俺がクロなんていないと否定した瞬間、クロが消え去ってしまいそうで恐ろしくってならなかった。


「学校に行き辛くなるだろ。」


「大丈夫。学校で言ってるのは後、土居先輩しかいないから。」


 土居も俺の幼なじみである。そして、俺が一番苦手としている類の人間である。だから、出来れば一生会いたくはない。


「信用ならないな。お前は道端の猫に話しかけたりするだろう。あれ、近所の人に聞かれてるからな。」


「うそ!?じゃあ、ママが便秘気味なのもばれてるんだ!?」


 ああ、道理で便秘がどうの言っていたわけである。


「その脳内妹ってどんな子?」


「脳内妹じゃない。クロだ。」


「ごめんなさい。」


 本当に申し訳なく乃木は言うので俺も少し乱暴な言い方だったと反省する。


「クロちゃん、だっけ。どんな感じの子なの?」


 乃木は優しい笑みで俺に聞く。俺はそんな笑みを向けられたのが初めてなのでたじろいで仕方がない。


「その、髪は何人ってほど銀色で、背丈は小学生くらいかもしれない。肌は白くて瞳は青い。それで、どこかの星のお姫様を自称している。」


「うんうん。」


 乃木は楽しそうに俺の話を聞いていた。俺にはそれが嬉しかったので、思わず口が滑る。


「性格はわがままで、不思議なことにこの部屋から出られない。俺以外がいると、物を手に取ることもできないんだ。でも、こんな部屋でも楽しそうに生きていて、暇だから俺に遊べってせがんでくるんだ。本当にガキみたいで。でも、俺はその方がなんだか安心して――」


 俺は何を言っているのか、と恥ずかしくなって言葉を止めた。


「うんうん。まるで明くんみたいだね。きっと明くんの分身なんだよ。その子は。」


 乃木はやはり信じていないようだった。俺はそれがもどかしかった。クロが急に可哀想に思えてしまった。


「クロちゃんはどこにいるの?」


「ベッド。」


 乃木はベッドに向かって行く。


「クロちゃん?明くんのお友達になってくれてありがとうね。」


 少しクロのいる位置とずれているけど見えないのだからいいか。


 するとクロはベッドから降りて、床に寝そべる。


「アニキ。こいつ、クロですぜ。」


「何やってんだ。」


 俺はクロの顔を踏む。クロはお前だろうに。


「え?クロちゃん、そこにいるの?」


 クロは苦しそうに悶えているが、乃木達には俺がパントマイムしているように見えるだろう。


「なんて?」


「え?いや、クロだって。」


 乃木は急に顔を赤くして、スカートを押さえる。


「あ。」


 クロの言っていた言葉の意味が分かって、俺の顔も熱を持つ。


「お前は本当に何やってるんだ。」


 せっかく、クロにも友達ができると思ったのに。


「だって、この人怖い。」


 人畜無害な顔をしている乃木を怖がるなんて不思議な奴だと俺は思った。




 しばらくして乃木は帰っていった。俺の様子を見に来たのと、プリントを届けてきてくれたようだった。


 現実の影はすぐそこまで近づいている。この部屋はもうぎりぎりまで現実に侵食されている。


「ねえ、金色のバカ、大丈夫?」


「あ、ああ。」


 ぼーっとしている俺を心配そうにベッドからクロは見ていた。


「金色のバカは誰が好きなの?あの子?」


 ガキな発想だと俺はつくづくうんざりする。男と女がいたらいつか結ばれるのだろうというのはうんざりするような発想だ。現実は少なくともそうではないし、俺と乃木はそんなんじゃない。


「俺は誰かを好きになったことなんてあるんだろうかな。」


 肉体的な魅力に惹かれることはある。でも、それは好きになる、と少し違う気がした。もっと、自分を捨ててもいいと思うくらいに大切に思うことが好きなんじゃないだろうか。でも、そうなると俺には好きな相手など一人もいないという現実が浮き彫りになる。


「嫌いなものならよく分かるんだけどなあ。」


 それは俺以外の全てだった。俺は俺以外の全てが嫌いで、それが表す事柄は、俺は俺が好きであるということだった。


「はあ。」


 俺は震える手足をどうにかしようとする。寝不足はもう収拾がつかないところまで悪化していて、体が寒気を訴えている。目もかすんでいた。


 俺はなんとか本調子を取り戻そうと立ち上がり伸びをしようとした。それだけで何とかなるとは思ってないけど、何とかなってくれなければとてもヤバいのだ。


 だが、俺の体は俺が思っていた以上に限界が来ていて、俺は気が付くと自分の視界が大きく変わり始めていることに気が付いた。その意味を理解した時には、俺はベッドの上に倒れていた。


 間近にクロの顔が見えていた。お互いの顔は息がかかって仕方がないほどに近い。こうして間近で人の顔を見てみると、人の顔は意外とデコボコしていることに気が付いた。


 って、そうじゃない。俺は急いでクロから離れようとした。でも、体が思うように動かない。俺の視線はクロの鮮やかな桃色の唇を注視していた。そのまま吸い込まれてしまいそうだった。


「って、わる――」


 い、という前にクロの拳が飛んで来た。その衝撃で俺の体は床に転がる。


 そんな俺をクロは逃さない。俺の腹に馬乗りになって、何度も、何度も、俺の顔を殴った。口からは血の味がした。人に、それも女の子に殴られまくるのは初めてだった。それがとても痛いことを俺は知った。痛いのは殴られている側だけではないことも知った。


 ドスドスドス。


 クロは小さな拳で何度も俺の顔を殴る。すでに何度も殴られて鉄板を押しあてられたかのように熱いところに何度も何度も。


 でも、俺は一切抵抗しなかった。抵抗なんてできるはずもなかった。


 クロの顔には恐怖が張り付いていた。その恐怖を張り付けたまま、俺を殴る。ぽたぽたと大粒の涙を流しながら、狂ったように。


 俺はクロが何を思って俺を殴り続けているのかが分かっていた。


 怖くって怖くって仕方がない。逃げたくって、逃げたくって、もう、追ってきてほしくなくて。


 この時になって俺はクロが何かから必死で逃げていることに気が付いた。


 この部屋から出られない俺のように、クロもこの部屋から出られないのだ。




「いてぇ。いてぇよ。」


 下の階に降りた時のお前誰だよ感は物凄かった。母親は本気で警察に電話しようとしていたので俺は慌てて止めた。今は妹が消毒液をつけてくれているが、荒っぽいので、傷口に消毒液が染みて仕方がない。そう言えば、消毒液をつけるのも久々な気がした。


「一体何があったの?」


 心底醜いものを見るような目つきで母親は俺に尋ねた。


「事故だよ。」


「あの小さな部屋で事故なんて起きるはずがないじゃない。」


 だが、あれは紛れもない事故だった。事故であるとしか考えたくもない。


「転んだんだ。ゴロゴロゴロゴロと物凄く。」


 脳内妹が恐怖に駆られて俺をボコボコにしたなんて言えないし、そう思いたくもない。


「おい、大地。包帯はいいから。」


 でも、妹は俺の言葉に耳を貸さず、俺の顔を包帯でグルグル巻きにする。


「まあ、でも、良かったじゃないか。明が久々にみんなの前に姿を現して。」


 俺だってこんなところに出て来たくはなかった。でも、もう俺はあの部屋に帰っていけそうもない。


「俺はあの部屋に戻らない。」


 家族は喜ぶかと思ったが意外とそうではなかった。幽霊でも見たようなギョッとした顔をしていた。


「ま、まあ、良かったじゃないか。これで普段の家族に戻れる。」


 父親だけが張り切ってみんなの顔を見た。


「ふざけないで!」


 天姉が叫んだ。


「いまさらなんなの?今まで散々迷惑をかけてきたこいつに優しくして。訳が分からない。真っ当に生きてきた私がバカみたいじゃない。」


 俺の心をハンマーで殴るように天姉は俺を睨んでいた。俺は思わず目を逸らす。


「天。せっかく明が――」


「そういうのが気に食わないのよ!」


 天姉はリビングを出て行った。走って。そして、ドアが閉まる音だけが響く。玄関から言えの外に飛び出したようだった。リビングに沈黙だけが取り残された。


「お兄ちゃん。追わないの?」


「だって、外に出たくないし。」


「この甲斐性無しっ!」


 妹は思いっきり腕を振り上げ、俺をはたいた。妹を止めようとするものはいなかった。


 顔中にできたこぶが破裂するかと思うほどの思い一撃だった。妹は俺を思いっきりはたいたあと、天姉を追って、外に出たようだった。


「なんで、なんで俺だけがこんな目に遭うんだよ!」


 俺はこらえきれなくてそう叫んだ。意味が分からない。俺はいいことをしたんじゃねえのかよ。部屋に戻らないのがそんなに悪い事なのかよ。


 父親はのっそりと俺の目の前に立った。


 そして、岩のような拳で俺を殴った。


 俺は倒れて、その場からどうしても動けなかった。


 どうして、どうして、どうして!


「俺はな、娘を傷付ける奴は許さない。この家族の平和を乱すやつを許さない!」


 父親は本気で怒っていた。


 その時になって、俺はやっと気が付いた。俺はもう、家族の中に入れられていないことに。


 父親もリビングから出て行った。外には出なかった。


 俺はずっと黙ったままでいた母親に近づいた。一縷の望みだった。俺にはもう帰る場所はない。部屋も追い出された。家族にも拒絶された。でも、どこかに居場所がないと俺は生きて行けないんだ。


 でも、その一縷の望みさえも神は嘲笑うかのように切り捨てた。


 母親は俺に見向きもせず、食器を洗い始めたのだった。




「なんだ、泣いてるのか。」


 俺は上の階に上るまで何とか涙を我慢できた。悔しくて惨めな気持ちを押し殺しながら。誰に向ければいいのか分からない怒りを遊ばせながら。でも、部屋に入った瞬間、津波のように涙がこみ上げてきた。


 でも、部屋には、俺だけの根城だった理想郷には先客がいて、そいつもぼろぼろ涙を流していた。


「あんたもじゃない。」


 クロは涙をぬぐった。でも、拭ったところからぼろぼろ涙が出てくる。


 俺も涙をぬぐった。でも、涙は止まるところを知らない。


 そうやって、二人して涙を流しまくるのは奇妙だった。きっと友達ならどちらかが慰めに入るのだろう。でも、それは同じ出来事を体験した時だけで、俺とクロは別々のことで涙を流しているのだった。


「ごめん、明。私、あんなことするつもりなかった。」


 クロは扉を背にして座っている俺に抱きつく。俺はそんなクロに抵抗する気も起らなかった。


「いいよ。許す。」


 きっとクロが悪い事じゃないのは俺がよく分かっていた。悪いのはクロを脅かす現実の影だ。クロには俺がその現実の影に見えただけなんだ。


「明はどうして泣いてるの?」


「別に大したことじゃないさ。」


 俺の問題は俺が部屋に籠ったままでいれば解決する。クロの抱えている何かしらの問題に比べれば大したことないはずだ。要するに、俺はクロの前で無理に強がった。男は女の前では強がるっていうけど、涙をぽろぽろ流しながら強がっていては情けないだけだ。


「包帯グルグル。ミイラみたい。」


 クロは涙をまだ頬に張り付けたまま、笑顔を見せた。それは俺と違って強がった笑みなんかじゃない。無邪気な真実の笑顔だった。


 俺はその笑顔が愛おしくって、その笑顔こそがこの世の真実なのだと思った。


「そうさ。俺はミイラになっても生き続ける。図太く生きてやるさ。」


 俺もせめて真実の笑顔を見せてやりたかった。だから、泣いていてはいけない。すごく悲しいけど、その悲しさは俺の欲望の前ではちっぽけなありんこだった。


 俺は笑ったけど、包帯が巻いてあるし、顔も腫れているので、グロテスクでしかないだろう。もしかしたら骨が折れてる可能性もあるな、と思った。


 でも、涙は止まってくれた。


「明。いるか?」


 天姉の声がした。クロは驚いて俺の体から離れる。クロの柔らかな感触が名残惜しかった。


「いるよ。」


「泣いていたのか。」


 天姉の声が近くで聞こえる。俺が扉のそばで座っているから尚更なのだろう。


「そりゃあ、何度も殴られりゃあな。」


 もうさっきの話は笑い話になっていた。一体どこのドラマだってんだ。


「あの後のことを聞いたよ。本当に悪かった。」


 天姉が謝るなんて珍しいと思った。どういう風の吹き回しなのか分からない。


「なあ、お前、部屋に妖精を飼ってるんだって?」


「妖精ほど可愛げのあるもんじゃない。」


 クロを見ると頬を膨らませている。そして、俺に枕を投げてきた。


「その妖精さんと話をさせてくれないか。」


「そいつの声は天姉には聞こえない。」


「じゃあ、通訳してくれ。」


 天姉はどこか儚げな、薄い霧のような声をしていた。


「その妖精はなんて言うんだ?」


「まろはパライソス星の姫、クロじゃ。」


「まろはパライソス星の姫、クロじゃ、だって。」


 ははは、と天姉は笑い声をあげた。天姉が笑うなんて本当に珍しいことだった。


「クロか。情けないヒキコモリの世話をさせて申し訳ないな。」


「どちらかというと俺が世話をしているんだが。」


「お前を世話してるのは私たちだぞ?」


 冗談を言うように天姉は言った。


「なあ、クロ。聞いてくれよ。私の弟はヒキコモリでさ、バカなんだぜ。私が家を出て行ったあと、家族の顰蹙を買って、それで妹と父親に一発ずつ殴られたんだ。本当にバカだよな。」


 俺は色々と物申したかったが、今、天姉はクロと話したがっているので、俺は黙っておいた。


「まあ、明は金色のバカだからな。」


「なんだ?金色のバカって。」


 俺はクロの言葉だけを天姉に話した。


「明はゲームをしてるとき、物凄くキラキラ輝いている。こっちはバカとしか思えないのに、黄金を見てるみたいにちょっとうらやましくなった。だから、金色のバカ。」


「ははは。妖精面白いね。」


「まろはパライソス星の姫だぞ。」


「悪い悪い。」


 天姉はクロと、何年も友達であるように楽しそうに話している。俺は少し嫉妬した。どっちに嫉妬しているのかは分からない。


「私も似たようなことを考えてた。あいつはひきこもってるくせに、ひきこもってる時の方が断然幸せそうでさ。だから、家族は怒ってたんだと思う。自分たちの何が悪かったのかって。あいつがひきこもった時、みんなひどい顔してた。目が血走っててさ、ずっと寝てないのは分かった。私はどうせすぐに出てくるだろうと思ってたけど、もうすぐ一年になっちまう。私は家族を苦しめる弟を憎むようになった。」


 天姉は会話を止める。クロの言葉を待っているようだった。でも、クロは何も言わないので俺は黙っていた。


「ふと、この世界が勉強できるやつが偉い世界じゃなくて、ゲームができるやつが偉い世界だったら、ひきこもっていたのは私の方だ、と思うことがある。」


「天姉なら、ゲームを物凄く頑張っただろ。」


「お前はしゃべるなよ。」


 どうも天姉は俺がしゃべっているのとクロがしゃべっているのとを明確に区別できるらしい。頭がいいってのは凄い事なのだと思った。


 きっと、この世界が天姉の言う通り、ゲームができる奴が偉い世界だったら、俺はひきこもって勉強ばかりしていた気がする。結局世界が変わったって、自分が変わらないと何も変わらないのだ。


「お姉ちゃんは勉強が嫌いなの?」


「ああ。大っ嫌いさ。」


 疲れたような声で天姉は言った。


「でも、私から勉強をとってしまったら、何も残らない。だから、勉強を捨てることもできない。私は最近まで弟もゲームをとってしまうと何も残らないやつで、私と一緒でみじめなやつで、せめて弟みたいにはなりたくないって弟の影から逃げるように勉強してた。でも、今、弟の部屋には妖精が住んでる。つまり、弟はゲームだけの人間じゃなくなってしまったんだ。私は一人取り残されてしまった気分だよ。」


 それはきっと、誰もが抱えている悩みだった。ただ、天姉はずっと頑張って世界と戦ってきて、俺は世界から逃げただけのこと。なのに、頑張ってない俺のところにクロは来てしまった。


「お姉ちゃんには金色のバカがいるし、金色のバカにはお姉ちゃんがいる。それに家族だっている。みんな、二人のことを大事に思ってるよ。だから――」


「でも、何も解決しない。私たちはこんな苦しみを背負ったまま生きて行かなくちゃいけないんだ。」


 心にたまったものを全て吐き出したような言葉だった。俺はこのやるせない現実に苦しんでいるのが俺一人ではないことを知った。


「でも、生きていればきっといいことがあるって。」


「そんなありきたりな言葉を言われてもな。」


「死んじゃったら何も、何も残らないよ。」


「いっそ死んでしまった方が――」


「そんなこと、言うな!」


 俺とクロは同時に叫んでいた。俺は天姉の口からそんな言葉を聞きたくはなかった。天姉は俺の憧れだった。何でもできるスーパーマンで、俺はずっと天姉みたいになりたいと思っていた。それが天姉にとってプレッシャーであっても。


「今のはどっちの言葉なんだ?」


「どっちもだよ。」


 俺は素直に天姉に言った。


「そうか。妖精にもヒキコモリにも怒られたのか。こりゃ、姉失格だな。」


 天姉は少し嬉しそうだった。


「天姉も頑張れよ。じゃないと頑張ってない俺はどうなるんだ。」


「いや、お前も頑張れよ。」


 天姉の声は憑物が取れたみたいに晴れやかだった。


「弟がみんなを説得出来たら私は弟を認めてやるよ。それと、明。お前の脳内妹との会話、楽しかったぜ。」


 その言葉で、天姉がクロの存在なんて信じていないことが分かった。でも、クロは悲しそうな顔をしていなかった。むしろ、なんだか興奮しているような顔だった。


 きっと天姉は俺に今の言葉たちを話したかったのだろう。でも、俺に面と向かっては話せなかっただろう。俺だってそうだ。だから、クロを仲介役としただけのことだった。


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