もみじを散らす夏の日に。
ねこたば
第1話
『君のことなんか、大っ嫌い』
あの日、彼女はそう言って僕の前から去っていった。
初夏の夜の突然の別れから数ヶ月経った秋の風の中でも、僕はその時のことを鮮明に思い出す。
彼女のあの微笑みを、あの涙を、あの言葉を、あの想いを。
彼女が去っても止まることのない時計の針が、あの幸せな時間から僕を引き離そうとするのを感じながら。
「もみじ……」
僕は俯いていた顔を上げ、橋の欄干を握りしめる。
何度も二人で見たこの湖を今はただ一人眺める僕の側で、
***************
ジリジリと不快なアラーム音が僕を眠りの沼から引きずり起こす。
目を開けずに手探りで音源を探しあて、スイッチを押して音を止める。
眠い。
布団に沈み込みそうになる身体をなんとか起こして重い瞼を擦る。
時計を見れば時刻は朝七時半。
「学校……」
学校に行く準備をしないと。
頭で指令を出しても身体は余計に重くなる。
ほぼ丸々二年、僕は学校に行っていなかった。
行けなかったと言うべきだろうか。
僕は中学一年の初夏にこの世界ではない世界、つまり異世界へと飛ばされた。
原因は今でもわからない。
気がついたら魔法と冒険の世界にいたのだ。
右も左も分からない世界で僕は色々な人と出会い助けを得て、クセのある仲間たちと一から生活を築き上げた。
世界を救う勇者や英雄にはなれなかったが、時にどこかの蜘蛛ヒーローよろしく町の人々の親しい隣人として、時に町を襲う強敵に立ち向かう守護者として頑張った。
そうやってあの世界で生き、あの世界で死ぬつもりだった。
だけど半年前、僕はこの世界に帰ってくることが出来た。
向こうで過ごしたのはたった一年半。
だが、その時間は僕の人生で一番充実した、一番僕を変えた一年半だった。
そのはずだった。
「いつまで寝てるのー!」
夢のような回想。
そこから母の声が僕を呼び覚ます。
「起きてるよ」と声をかけ布団から体を引き起こす。
カーテンを開けっぱなしにした窓からは春なのに鋭い陽射しが差し込み、僕から眠気を一掃する。
けれど学校へ行くことへの憂鬱な気分はますます強くなるばかり。
そんな陰鬱な気分をなんとか胸の奥に押し込んで学校の用意をし、自分の部屋を出る。
階段を降りダイニングに行くと、既に母が朝食を用意してくれていた。
机に並ぶのは白米、目玉焼きに味噌汁。
席に座りそれらに箸をつけながら、ぼんやりと考える。
何かが物足りない。
間違いなくあの世界よりも食事は栄養価が高く美味しい、良質なものだ。
でも、それ以上に僕が大切に思っていたものがこの世界にはない。
思わず閉じた瞼の裏に浮かぶのは、うるさく行儀の悪い仲間たちと囲んだ、賑やかで居心地の良い食事の席。
「……ご馳走さま」
「……はい」
「じゃあ……行ってきます」
「気を付けてね」
結局、今日も半分しか朝食を食べることができなかった。
寂しそうな母の返事に罪悪感を感じながら家を出て、静かでどこか騒々しい朝の町を歩く。
それは穏やかで美しい街並み。
あの世界とは違って綺麗に舗装されゴミはなくモンスターに襲われる心配もない。
この上なく素晴らしい、この上なく退屈な、この上なく僕に合わない世界だ。
学校が近づくにつれ同じ制服の人が増える。
周りを見れば一人で歩く生徒が大半だ。
その中では一人の僕も浮いたりはしない。
登校時間は学校の中で殆ど唯一、僕の気が休まる時間といっても良い。
僕は中一の初めの三ヶ月と、中三になってからの一ヶ月しか学校に行っていない。
だから、僕には友達がいない。
それが悲しいとか虚しいとか、そんなことを今はもう思わない。
この半年で、僕と僕以外の人たちとの間にある溝がどれほど深く広いか十分に理解していたから。
だからもう理解されようとも関わろうとも思っていない。
そんな期待はとっくの昔に捨てていた。
「よっ、勇者様」
教室に入り席に着くと一人の男子が声をかけてきた。
「今日も旅してきたか?」
「ハーレムは順調か?」
「……」
「おい、異世界に行ってる間に日本語忘れたのか?」
周りの奴らまで絡んできた。
それを無視して僕は文庫本を開く。
こういうのに反応してはいけない。
反応すれば面白がるだけなのだから、言わせておけば彼らは勝手に飽きてくれる。
今回もしばらくすると僕の周りから彼らは去っていった。
「……はぁ」
その背中をちらりと一瞥し、小さく息を吐く。
僕が帰りたかったのは、こんな世界だったのか。
何度繰り返したかも覚えていないその問いを僕は再び自問する。
異世界に行ったことは学校で一切話していない。
話したのは医者と親、そして警察にだけだ。
もちろん一年半も失踪扱いになっていた少年の言うことなど誰も信用せず、強いショックによる幻覚か精神疾患の影響だと切り捨てられたけれど。
それ以来、一度もこの話を人にした事はない。
では、なぜ学校の人たちに知られているか。
僕は異世界に行く前からコミュニケーション能力の乏しい人間だったが、それでも話す相手はいた。
親にもいわゆる『ママ友』ってのがいたらしい。
僕が帰還してから『異世界』の話をしたことで親は衝撃を受けたのだろう、ママ友や僕の昔の知り合いたちに相談したらしい。
それもご丁寧に『異世界』の話まで事細かに。
で、それがどこからかクラスに広まり笑いの種になったというわけだ。
弱者を嬲るのは人間の醜さでも何でもない、ただの動物の本能だ。
とはいえ、まさか行方不明になっていた同級生をそんなネタで嬲る人間がいるとはこの世も末だろう。
そういった事情で僕は今クラスで孤立している。
二年近く学校制度から離れていたため、学校の勉強もわからないしクラスメイトもその殆どの顔も名前も分からない。
その上で笑い者なのだから救いがない。
何もわからず何も頼るものがない中で、僕はいつしか何も考えないようになっていた。
ただ思うのは、あの世界に帰りたいということ。
決して向こうでも良い事ばかりではなかったけど、信頼できる仲間がいて必死になれるものがあって僕の居場所があった。
けれど、この世界はそんな僕を腐らせるような場所でしかない。
「……はい、では今日はここまで」
ハッと顔を上げると四時間目の授業が終わっていた。
朝だったはずなのに気づけば昼とか笑えない、と思いながら背伸びをする。
この世界に帰ってきてから時間の流れの速さに驚かされることが多い。
なにも物理法則が変わったわけではない。
ただ、気がつけば時間が経っているだけ。
浦島太郎の気分になりながら授業の用意を片付けて席を立つ。
向かうのは本来立ち入りが禁止されている屋上への階段。
電灯の付いていない薄暗い階段を静かに登り、屋上へのドアの鍵をピッキングで外す。
「魔法、使えたら楽なのに」
あの世界への未練を言葉の端に滲ませつつドアを開く。
そう、こっちの世界では魔法は発現しない。
何度も試してそれは確認していた。
「あんだけ頑張ったのになぁ」
魔法の習得は僕が向こうで最も力を入れた、多分僕のこれまでの人生で一番頑張ったことだった。
身につけた実力は自信になり異世界で成長できた僕の僕自身に対する証明でもあった。
けれど、その一年半の努力は今では全く無意味なもの、異世界での一年半が無駄だったことを証明するものに成り果てていた。
「帰りてぇなぁ……」
誰にともなく呟いて屋上のど真ん中に寝転ぶ。
抜けるような青空がどこまでも広がり頬を心地よい風が撫でる。
「青くて広い」
「天高く人恋する初夏の風、ですね」
一人きりのはずの屋上で、僕以外の声が聞こえた。
慌てて跳ね起きると、そこには微笑む一人の少女。
こちらに歩いてくる同じクラスの女の子に僕はただただ困惑する。
「えっ、いや、なに……今のはなに?」
「……他に聞くことありませんか?」
「何よりもまず今の言葉が気になって」
「もう良いので今のは忘れてください」
「無理です」
厨二チックな言葉の真意を聞こうとすると、真っ赤になり怒ったような表情をする少女。
無性に問い詰めたくなるが仕返しが怖いのでその気持ちをグッと抑え込む。
「まあ、ポエムを詠みたくなる時もあるよな」
「むっちゃムカつく」
「つーか、ここ僕の屋上なんだけど。今日もまた不法侵入ですか?」
「別に屋上は君のものでもないよ、『勇者』さん」
「冷やかしか? もう充分に他の皆様から頂いてるので結構ですよ」
『勇者』。
それは今の僕にとってはただ不快な言葉だ。
不機嫌に吐き捨てる僕の顔に、少女はその整った顔をずいと近づけた。
「冷やかしじゃないよ」
パーソナルスペースを女の子に侵略され思わず動揺する。
そんな僕の反応を見てなぜか嬉しそうな少女。
「冷やかす訳ないじゃん。私は君と同類なんだから」
「またその話か」
「うん。まあ、少し君とは違うけどね」
彼女は顔を離すと、僕の隣に腰を下ろした。
『私も半年ほど、違う世界にいました』
三日前、初めて会った時に彼女はそんなことを口にした。
だが、僕と違い彼女はその記憶を誰にも話していない。
異世界に行っている間に家族を全員亡くし話す相手もいなかったから、と彼女は言った。
同情はしたが僕にできることはない。
それに僕は厄介な事情を持つ彼女に関わりたく無かった。
そんな初邂逅から三日、僕は彼女と話すようになっていた。
関わりたくない気持ちは変わらないが、嫌がっても話しかけてくる彼女に僕は折れてしまった。
「で、用件は?」
「今日も一緒に帰りましょう」
「嫌です」
「いつも通り下駄箱のところで!」
「だから嫌っつってるだろ」
「また後で! じゃ〜ねぇ〜!」
「……」
会話が一切成立しないまま、彼女は言いたいことだけを言って去っていく。
取り残された僕は呆れながらしばらく屋上で本を読み、五限の予鈴を聞くと同時に教室に戻る。
そのまま自分の席に座ると、先に戻っていた水之下と目が合った。
「誰が一緒に帰るか……」
ニヤニヤする彼女にイラつきながらそう呟いた。
それから二時間後、放課後の下駄箱。
僕は水之下と一緒にいた。
「約束通りに来てくれて嬉しいなぁ」
「逃げるつもりだったのに……」
「逃がしませんよ……って、これなんだか悪役っぽいね」
「『ぽい』じゃなくて、僕にとっては充分悪役だよ」
逃走を試みたもののあっさり捕まった鬱憤を込めてツッコむと、少女は嬉しそうな表情をした。
「それにしても暑いねぇ」
「せやな、暑いなぁ、せやさかい早よ帰ろ」
「エセ関西弁で誤魔化して逃げようとしてもダメだよ」
「マジ帰りたい」
「うわ、ど直球……。流石にここまで嫌がられるのは悲しいね」
「同族嫌悪ってやつだろ」
「誰がうまいこと言えと……」
そんな事を言っていると、突然水之下が悲鳴を上げた。
反射的に彼女を庇って周囲を見回す。
「どうした?」
「ね、猫が」
いつのまにか、すぐ近くに猫がいた。
それ以外には特に周りに何も見えないので、肩の力を抜く。
「大丈夫か?」
「……うん……ごめん」
真っ青な顔のまま、少女は震える。
たかが猫で。
訳がわからず黙っていると、彼女がいきなりしがみついてきた。
「なっ!?」
「おねがい……湖に、連れて行って……」
「湖?」
僕の住む街には大きな湖がある。
彼女はそこへ連れて行けという。
「そこに行くより早く帰った方がいい」と言ったものの、彼女に押し切られてしまった。
僕が弱いとかではない。
ただ、震える手で僕の服を掴みながらそう言われたら何も言えなくなっただけだ。
学校から湖岸までは十分ほど。
到着すると彼女は波打ち際の護岸石の一つに腰を落ち着ける。
ただ波が寄せては返すだけの音が心地良い。
「……私、この湖が好きなんだ」
「そうなのか?」
「うん。鏡みたいでしょ? 世界を綺麗に湖面に映してる。それが好きで、昔から暇さえあればこの景色を見てたんだ」
水之下は目を伏せる。
「私、夢みたいに思ってるの。半年の間異世界にいたってことが、今でも。帰ってから半年経っても実感がなくて、今でもときどき自分がどの世界にいるのか分からなくなる。あの世界みたいに、日常の全てが牙を剥いてくるんじゃないかっていつも不安で、出来るなら外には出たくないって思うくらいに怖い」
それは出会ってからの三日間で初めて聞いた声だった。
今まではただのお転婆娘で鬱陶しいくらいに元気だった少女が、こんなにもしおらしくなるなど想像もしていなくて僕はただ黙り込む。
「それでそんな時は湖に来て確認するの。私が今いる世界は魔法なんかない世界なんだって。道端の動物に襲われる事なんかない世界なんだって。この景色は、私にとってこの世界の象徴みたいなものだから、それを見ると安心できるの」
彼女は僕を振り向く。
「『勇者』くんそういうことあるでしょ?」
「僕は……」
僕にも抱えていることはある。
でもそれは誰にも理解されないことで、言っても仕方のないことで。
だから…………
「帰りたい」
「帰りたい?」
言葉が零れた。
そのことに僕自身が驚く。
「あ、いや、これは」と、取り繕いながら顔を上げると、水之下がまっすぐ見つめてくる。
その少し充血した目を見ていると、何故か彼女ならこの気持ちを分かってくれるような気がして僕は取り繕うのをやめた。
「……向こうにいる時は帰りたいと思ってた。でも、今は向こうの世界に戻りたいと思ってる」
「それはどうして?」
「一年半、僕は向こうにいた。その間にこの世界での僕の居場所は無くなってしまってた。どうやっても埋まらない溝があって、クラスでは弄られて。……今ではもう何も感じないけどね」
はぁ、ため息をついて苦笑いを浮かべる。
「まあ、それは水之下が抱えてる悩みに比べたら些事でしか……」
体に軽い衝撃があった。
水之下が抱きついてきたのだと気づくのに少し時間がかかる。
「そんなことない。大丈夫。私がいるから大丈夫だよ。もう、我慢しなくて良いんだよ」
「え?」
「人が、自分の居場所を失って平気でいれる訳が無い。学校であれだけ酷い仕打ちを受けて、傷つかない訳が無い。理解されないことが平気な訳が無い! もし、本当に何も感じないんだったら……」
僕を抱きしめたまま、彼女は大粒の涙を零しながら僕の顔を見上げる。
「君の心はもう、とっくに壊れ始めてる……」
なんで、こんなにこの子は泣いているんだろう。
僕のために泣いてくれているのならそれは……それは…………。
「……あれ?」
視界が歪み、僕の目に映る水之下の顔が崩れた。
おかしい、おかしい、おかしい…………。
「あ……あ、れ……」
「そう。もうそのまま泣いて良いんだよ。もう、大丈夫だから」
「ないて、なんか……うああぁぁぁあ!!」
僕は泣いた。
涙を流し、血を流して。
この世界に帰ってきてから、初めて僕は泣いた。
不安、悲しみ、憎しみ、怒り、喪失感、焦燥感、無力感、閉塞感……。
そういった全てを押し流しながら、僕は泣き続けた。
僕の帰りたかったこの世界は、優しさの欠片も無い、救いなんてありえない世界だと思ってた。
いや、そう思いたかった。
そうだったならどれだけ良かったか。
でも、目の前の少女のように救いがある。
全てを失った僕を理解し、手を差し出してくれる人がいる。
この世界を諦めることが僕には出来なくなってしまった。
同級生と一緒に笑い、時に喧嘩したりしながら同じ景色を、同じ未来を見る。
一度は投げ捨てたそんな幻想を、僕は再び拾い上げてしまった。
「大丈夫、ですか?」
「うん……ありがとう……」
どれほど時間が経った頃か、ようやく話せるようになった。
身体が熱を持ち、目頭が痛い。
でも、さっきまでよりもどこか世界が広く明るく感じる。
それだけではない。
軽くなった心の奥底から、枯れ果てたと思っていた何かがふつふつと湧き上がってきた。
「水之下」
「ん?」
「ありがとう」
「……うん」
目の端に光るものを滲ませながら、微笑む少女。
さっきまで嫌に思っていたその笑顔が、今は赤に染まる美しいもみじの葉のように感じた。
いつまでも見ていたいと思った。
だから、僕は同じような重りを心に抱える彼女に手を伸ばす。
「水之下」
「ん?」
「水之下も、あの世界をもう怖がらなくてもいい。迷わなくていい。君はここにいる。たとえこの世界であの世界のような何かが起きたとしても、僕が絶対に守るから」
そう言って手を差し出す。
それを見て一瞬驚き、嬉しそうに微笑む少女。
その表情を見て、僕は安心する。
これで、彼女も少しは楽になってくれたらと思う。
「じゃ、『勇者』くんに私の護衛をお願いしようかな」
そう言って彼女は僕の手を取った。
「!」
手と手が触れた瞬間、電流が体を駆け巡るような感覚と共に、全てが分かった。
何が彼女に泣かせ、そして何が本当に彼女を追い詰めているのかが分かった。
それは世界への恐怖ではない。
彼女は異世界漂流の間に家族を失っている。
元の世界にもう家族がいない、それはつまり戻るべき場所がもう彼女にはないということ。
家族のいない彼女にとってこの世界は孤独で異質で、最早彼女の帰りたい場所ではない。
彼女はこの世界を受け入れることができない。
彼女に今必要なのは、異世界の敵を打ち破る力でも幻想を振り払う力でもない。
この世界が彼女の戻るべき場所だと信じさせること。
そして彼女な孤独を満たす誰か。
「……僕が、支えになる」
「え?」
「水之下が戻るべき世界、戻りたい世界だって思えるような支えに俺がなる」
「戻りたい……世界……」
「この世界で君は一人きりじゃない。僕がいる。同類の僕が、君のそばにいる。だからもう大丈夫」
笑顔のまま固まる水之下。
そのまま少し停止した後、今度は今までで一番大きな声でわっはっはと笑い出した。
「告白みたい! おっかしぃ……あ、あれ?」
軽口を叩こうとした少女の目から、突然大粒の涙が溢れ始めた。
「なんっ、で……」
あたふたとする少女。
それでも涙は止まらず、遂には声を上げて泣き始めた。
しばらくそうして、やがて彼女は顔を上げる。
「もう、一人じゃない?」
「ああ」
「この世界は私がいて良い世界なの?」
「ああ」
「……きっとこの世界で私を理解できるのは君だけ。もたれかかってもいい?」
「当たり前だろ」
「重いよ?」
「身体は鍛えてある」
「ばか……」
泣きながら呆れた顔をした後、再び水之下は笑顔を見せた。
「じゃ、まず、『水之下』じゃなくて下の名前で呼んで欲しい」
「
「……うん。うん! ありがとう!」
迷う間も無く名前を呼ぶと彼女は今まで一番嬉しそうな笑顔を弾けさせた。
それを見ながら僕は思う。
彼女と一緒に過ごしたい、と。
この世界で初めて僕を受け止め、暗闇の底から引き上げてくれた彼女と。
いつのまにか彼女に感じていた嫌悪感はすっかり消え、彼女を守るという誓いが胸の中に立っていた。
それから一ヶ月が経ち、カレンダーが七月に変わった頃。
相変わらず僕はクラスの中で浮いた存在のまま。
けれど一つだけ変わったことがある。
それは紅楓との関係。
僕が彼女を拒絶することは無くなり、彼女もまた僕に一層べったりになった。
一緒に帰るのはもちろん、二人で隣町に行ったり勉強したり、そして時々湖に行ったり。
そうして彼女と一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、僕の中で紅楓の存在が大きくなっていった。
共依存のような形なのは分かっている。
でもそれを分かった上で、僕は彼女のことを特別に思っている。
「……何ボーっとしてんの」
「うわ!」
惚けていた僕のすぐ鼻先に顔がぬっと現れ、僕は思わず仰け反る。
「も、もみじ……」
「何びっくりしてるのよ。早く! 遅れちゃう!」
「ああ」
僕の手を取り、進み始める紅楓。
「人多いな」
「一年に一回、七夕の夜だけの特別イベントだからね。はぐれないように、ね?」
「はいはい」
そう言って手を繋いだ言い訳をするような紅楓が面白くて、思わず笑みが零れる。
そう、今夜は七夕の夜。
それは人々が空に駆ける星に願う夜。
引き裂かれた二人が会いそしてまた引き裂かれる夜。
そんな夜だから、少し気になった。
「なぁ」
「ん?」
「最近は、大丈夫、か?」
「うん。もう、何も怖くないよ」
そういうと足を止め、僕の目の前にひょいっと飛び出してきた。
「ほんっっとに! 『勇者』くんのおかげだよ!」
「その呼び方……」
「他の人は馬鹿にしてても、私にとって君は本当の『勇者』だから」
不意打ちだった。
熱くなった顔をふいっと背ける僕に、あっはっはと彼女は楽しそうな笑い声をあげる。
「私もこの世界に居場所がないように感じてた」
「初めて聞いた」
「初めて言ったもん。誰と話してても見えない壁があるみたいで。家族も、叔母さんなのになんだか遠慮しちゃって……。でも、君とは自然にいられたの。私に本当の居場所をくれた」
「紅楓……」
思わず顔を上げた瞬間、周囲の灯りが一気に落ちた。
真っ暗闇の中、繋いだ手の熱がはっきりと伝わってくる。
「本当に感謝してる。君は私にとって無くてはならない人だよ。これまでも、これからも」
突然、歓声が上がる。
同時に辺りが光に満たされた。
「うわぁ……」
僕達は幻想的に輝く竹の
その光に照らされ僕の前に立つ少女は今までで一番美しく、可愛らしく、そして儚げで。
その姿に思わず言葉を失っていると、紅楓が真っ赤に頬を染める。
「私はね、あなたのことが……」
「「うわぁぁあ!!」」
「「にげろぉぉ!!」」
突然悲鳴が辺りにこだました。
何かを言いかけた紅楓を反射的に抱きしめ、辺りを見回す。
「うっ!!」
背中に衝撃と激痛。
「ぐぁあ!!」
刺されたと気づくのに少し時間がかかった。
地面に崩れ落ちそうになるのを耐える。
「え? な、なに? どうなったの?」
「早く、ここから……離れろ……」
「え……?」
何が起きたか分かっていない彼女に呼びかける。
「良いから、はや……ぐぅあぁああ!!」
何かが引き抜かれ、激痛が走る。
今度は耐えることができず、紅楓を離して地面に倒れ臥す。
「はや……く!」
「でも!」
「いけぇ!!!」
僕の絶叫に彼女は走り出した。
はやくはやくはやく…………
「きゃぁあ!!」
「うそ……うそ……だ、ろ……」
パニックの中、こだました女の子の悲鳴。
間違えるはずのないその声を、僕は嘘だとかき消す。
嘘だ嘘だ、こんなの……
「『勇者』くん……」
「あ……」
霞む視界に見慣れた大好きな女の子の顔。
「あぁ……」
「あ、あはは……」
「血が……」
「私、もう、だめ、かも」
紅葉を散らしたように彼女の周りに血が広がる。
信じられず伸ばした手を紅楓が掴んだ。
「君の、ことなんか、大っ嫌い……」
「え?」
「君がいないと、ダメな私にした、君が大嫌い」
そう言って口から血を零し、彼女は泣き笑いのような表情を見せる。
「大好きだよ……」
「紅楓」
「離れたく、ないよぉ」
最後の力を振り絞り、声を絞り出す。
「僕も、紅楓のことが……好きだ」
驚いた顔をした。
苦しそうだった顔が幸せに彩られていく。
「うふふ……よかっ…………」
「もみ、じ?」
涙が溢れてきた。
顔をしっかり見たいのに涙で視界が閉ざされる。
僕は彼女に守ると約束した。
だから神様、どうかお願いです。
もしこの世界に僕達がいて良いなら、彼女だけでも助けて下さい。
お願いします。
おねがいします……
おね……が……い…………
「願ったのに……」
あれから三ヶ月経った十月、僕は退院した。
山は美しい紅に染まり始めている。
「気持ちいい」
湖風に吹かれながら目を閉じる。
彼女と一緒にしたい事は沢山あった。
湖に行くのもその一つ。
でも今はその上に架かる橋の真ん中に、一人で立っている。
「紅楓」
大切な名前を呼ぶ。
涙が溢れた。
あの時、神様に祈った。
もしこの世界に僕達がいて良いなら、彼女を生かしてくれ、と。
その神の答えは、拒絶だった。
彼女は死んだ。
なら、もう用はない。
彼女のいない世界に、用はない。
彼女が去っても時計は回る。
時は進み、次第に皆は彼女を忘れ、何事もなかったように世界は回る。
その回転は少女の想いと僕の想いを遠心分離させていく。
そんな世界が許せなかった。
そんな世界から彼女を守れなかった僕が許せなかった。
犯人が使ったのはナイフ一本。
あの世界だと確実に助けられたのが余計にやるせない。
橋の欄干の上に立つ。
風が心地よい。
橋の下には鏡のような湖面。
ここに映る景色が好きだと彼女は言った。
湖をこの世界の象徴だとも言った。
だから、この虚像の世界から消えるのに相応しい舞台だと感じた。
「あ……」
目の前を一葉の
思わず欄干を蹴り、空を飛ぶ。
重力に抱かれ地球に招かれるままに、僕は彼女を捕まえる。
「もみじ」
直後、僕の身体は鏡を叩き割る。
沈みゆく意識、その中でふと気がつく。
彼女はこの虚像の世界が好きだったのかもしれない、と。
確かめる術はない。
だからそれを胸の奥にしまい込み、ただ一つだけ確かな想いを抱きしめる。
肺が水で満たされる。
不思議と苦しさは感じない。
沈んでいく僕が最期に見たのは、水面に向かって昇る真っ赤な紅葉の葉だった。
もみじを散らす夏の日に。 ねこたば @wadaiko_pencil
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