EX:小事を以て大事を成す
窓も扉も締め切った部屋の片隅で、一人の男がうずくまっていた。一夜、たった一夜で世界が変わってしまったのだ。この小さな町は皆の楽園だった。そりゃあ多少の悲劇はある。どんな場所でも転がっているようなものは。
それで世界がバランスを保っていたのだから、感謝されこそすれ悪く言われる道理などない。ましてや暴力に訴えかけてくるなど、現代人にあるまじき許しがたい行為である。罰せられるべきは自分たちではない。あの――
「おはようございまーす」
扉を尻尾で破壊して、笑顔で入室してくる悪魔である。
「な、何なんだ、貴様は!」
この悪魔は昨夜未明、突如現場に現れて関係者を虐殺したらしい。その連絡を回してきた者とは既に連絡も途絶え、彼が連絡を回したであろう者たちも朝一のニュースで死亡したと名前が載っていた。すでに裏から手を回し、ニュースは止めさせている。本当に地方局の教育は杜撰で困る。あの名前を繋げてしまえば――
「通りすがりの悪者です」
尻尾が男を絡め取る。真綿で締めるように、徐々に――
「や、やめてくれ! 私が何をしたと言うんだ⁉ ずっとこの町のために頑張ってきたんだぞ。誰よりもこの町を愛しているのに、何故だ!」
「おや、不思議なことを言うものです。いたいけなる少年少女の売春斡旋、強要、これがどうして町のためになるのか、それが私にはわからない」
「……秩序のためだ。ろくな産業も無いこのちっぽけな町はなぁ、そういう協力関係があって初めて成り立つんだ! どこもやっていることだ。何も悪くない。私たちだけが襲われる謂れなど、ない!」
「なるほど、道理です。なので、どこも平等に裁いていきます」
「は?」
この悪魔はおかしなことを言っている。自分たちのような市区町村が、この世界にどれだけあると思っているのだ。星の数とまでは言わないが、こんなもの世の中当たり前なのだ。それで多少甘い汁を吸うのも、責務を負った者の役得。
何も悪くない。何も悪いと思っていない。
「自覚無き悪こそ、最も唾棄すべき存在なのですよ」
「あべ」
ごきん、尻尾で肉を、脊柱を捻り潰し、町の議員であった男を肉塊に変える。あえて金髪灼眼の悪魔はわかりやすいような死体を残した。
誰にでもわかるように、これが自然な死ではなく意図したものである、そう示すために。まあ、それでもしばらくは表に出ないだろう。
それほどに人間は自分が大事で、傷つくことを厭うのだ。
人のことは容易く傷つけると言うのに。
「さて、この町はこんなところでしょう。次はどこに行きましょうかね。小さなことからコツコツと……小事を以て大事を成しましょうか」
そのまま悪魔は悠々と消える。そもそも本来、この町で悪魔を追うべき暴力措置は、すでに悪魔の手によって半壊し、機能不全に陥っていた。
町全体が停止しているのだ。加害者も、積極的傍観者も、この町の裏側で蜜月を育んできた全てが、ただ一人の悪魔によって完膚なきまでに破壊された。
されど、このニュースが大事になることは、無い。
○
「あの、アルファさん」
「ん、なんだい?」
臨時でアストライアーを率いるアルファの下に、情報担当の一人が声をかけた。
「この前、不審な要請があって、少し調べていたのですが、気になる点が」
アルファの手に書類が渡される。それをパラパラと眺め、徐々にアルファは顔を曇らせていった。これが事実であるならば、最近ニケ一味以外の動きが静か過ぎる点にも合点がいくのだ。
「アストライアーに要請が入ったものの、情報が不明瞭なのとその提供者が確認できず、催促もなかったため悪戯と判断。ただ、翌日何人もの死亡者が出て、ローカルだがニュースにもなった。そこから――」
「はい、続報なしです」
「なるほどね。君はこの件、どう思った?」
「……こういったケースで被害者、加害者共に不自然なまで名前が出てこないのは、何らかの後ろ暗い理由があるケースがほとんどです。だからこそ、被害者の名前すら公にできない。何故彼らが一様に、となった時、露見してしまうから」
「そうだね。町ぐるみ、場合によっては市や区も、か。ようやくアールトさんのやろうとしていることが理解できたよ。本当にあの人は、やることに無駄がない」
「アルファさんはこの件、フィラントロピーがやったと?」
「間違いなくね。あの人らしいやり口だ。第一段階が賢人会議という大物、彼らを除き、核攻撃をすることで世界を混乱に陥れる、だ。賢人からの指示もなく、自分たちで危機に備えねばならぬ現状、多少下から突き上げたところで対応している余裕などない。本来、小悪党どもを守ってくれる後ろ盾が今、働いていないんだ」
「あ」
「第二段階は対極、小物を処理していく。世界中にごまんといる小悪党を念入りに。しかも彼らは大概行政やメディア、警察組織と紐づけされている。昔からの伝統さ、金、女、クスリ、一度踏み込んだが最後、一蓮托生となる」
「途方もない時間がかかりますよ。そんなのを一々潰していたら……だってこんな程度の案件、世界中に山ほどあるんですよ?」
「ああ。だからやっている側も高を括っているんだ。皆やっていること、一々こんなもの挙げていたらキリがない。バレた奴は運が悪いか、根回しが下手くそか、自分たちは大丈夫。小悪党の厄介さはそこにある。ある意味、一番厄介で醜悪な連中さ。でもね、だからこそあの人はやる。そこを徹底的に潰していく」
「まさか、そのためにニケは暴れて……」
「おそらくはそれもあるだろうね。ただ、彼だけに頼っているとは思えない。彼と言う手札が尽きたら、おそらく別の手札を切ってくるだろう。こちらを張りつけにしておくための時間稼ぎを、ね」
「なるほど……そうなってくると、次の段階が気になりますね。私たちが彼の手札、それらの底をつかせるか、彼らが小悪党を根絶やしにするか、ですか」
「いや、彼が期待しているのはそこじゃない」
「え?」
「第三段階への移行は、自白だよ」
「……あ、そういう、ことですか」
アルファの言葉で、彼女もようやくフィラントロピーの、アールトの考えを理解することが出来た。あえて世界から身を隠し、小さな悪を潰していく。彼はおそらく関係者すべてを根絶やしにはしていない。僅かばかりに残している。
その彼らが罪を認め、真実を明らかにすると、点と点が繋がってフィラントロピーが、アールトが浮かび上がってくる仕組みになっていたのだ。
アールトがそういう流れを築いた。魔王という記号と彼が結びついた時、人は本当の意味で一歩進むことになる。全ての悪が、大小関係なくあらわとなり、人が人の真実と否応なく向き合うことで、最後に巨悪たるアールトを討ち果たす。
「……ハンス君がどう判断するかは、彼がこの椅子に戻って来てからだ。アールトさんの意図に乗るか、あえて外れるか、代理の僕はとりあえず置きに行く」
「放置、ですね」
「幻滅した?」
「いえ、察してしまうと、フィラントロピーの肩を持ってしまいそうになる気持ちは痛いほどわかるんです。正義、正論、それが薄汚いものに踏み潰されてきた現実は、きっと誰もが一度は目にした光景でしょうから」
「……そうだね」
大きな悪で小さな悪を根絶やしにする。途方もない作業であろう。だからこそ彼はシュバルツバルトを欲した。今持っている情報、その精度を確かめたかったのと、今取りこぼしている情報がないかを確認するために。
世界のためを思えば、彼に渡すのが一番楽な選択肢であったのだろう。どぶさらいをした後に、綺麗になった場所を次の世界に開放するのだから。
「今はニケだ。どうせね、しばらくはこれ、絶対表沙汰にならないから」
「……ですね」
絶対と言い切れてしまうところが、成熟した世界が如何に薄汚れているか、その証左であった。清いだけの池に生き物は住めない。そんな理想論を振りかざすべきではない。現実とはもっと汚れているべきなのだ。それは確かにそうだろう。綺麗なだけの社会などありえない。だが、彼らは一度学ぶべきなのだ。
節目の大掃除、奪い続ける側から一転、奪われる側になる恐怖を。
○
九鬼に転がされ、仰向けに倒れ込むオーケンフィールド。特訓開始からそれなりの時間が経過したのだが、未だ魔力が覚醒する気配すらない。一度魔力を扱う経験を積んでいる以上、一定の濃度を越えると元英雄たちの多くは魔力に覚醒し始めていた。実際、世界中で元アストライアーメンバーからの報告が入っている。
それなのに何故、第三の男ともあろう者が、ここまで苦戦しているのか。
「休憩にしましょうか」
「……すまない」
ここまで我が身が巧く動かせないのは彼にとって初めてのことであった。こちらの世界でも、あちらの世界でも、想像した通りに動いた身体が、今はずっと重りを背負っているかのように重く、ずっと何かがズレていた。
「いえ、私のアプローチが間違っているのかもしれません」
追い込めば、彼が本気で取り組めば、魔力の覚醒くらいは容易いステップだと誰もが考えていた。何しろ彼はオーケンフィールド、第三の男である。
常に皆の先頭を走り、引っ張っていくリーダー的存在。
「いや、結局のところ、俺の精神面なのだと思うよ」
ニケとの決着、そこに熱がないわけではない。幾度も戦い、その度に決着がつかず、それの繰り返し。決着は付けたい。彼が望むのならば尚更。
それでもオーケンフィールドの脳裏によぎるのは、かつての敗北。皆の英雄を捨て、ただ一人のためだけに全てを賭して打ち込んだ拳。あの日、あの瞬間、彼は自分に次はないのだと、次など要らないから力をくれ、そう願った。
そして、限界以上の力を発揮し、メギドの大炎を打ち破ったのだ。あれ以来、どうしても自分が戦うイメージが湧かない。それに、ほんの少しだけ予感がするのだ。自分が戦う覚悟を持てば、その役割を得れば、彼がいなくなるような――
「休憩中か」
「……やあ、ゼン。格好悪いところ見られちゃったね」
「努力している者を格好悪いとは思わない」
「そうか、ありがとう」
任務を終えて一度帰ってきたのだろう、ゼンが訓練所に現れる。
「上手くいかないか?」
「情けない話だけどね。どうやって戦っていたのかも、思い出せないんだ」
「俺なんてそんなのしょっちゅうだ。昨日できたのに今日できんこともある。ただ、俺が言えるのは一つだけだ」
ゼンはオーケンフィールドに手を伸ばす。
「やらねば出来ん」
オーケンフィールドはその手を力強く握る。
「道理だね」
ゼンがオーケンフィールドを引っ張り、立ち上がらせる。そして二人は何も言わずに訓練所の真ん中に立って、向かい合い構えた。
「前に教えてもらったように、仕掛け、応じ、ゆっくりやろう」
「ああ、今度はゼンが教えてくれるんだろ?」
「任せろ」
まるで対話するような組手が始まる。丁寧に、一つずつの所作を噛み砕くように、二人は体を重ね合う。触れて、離れて、また触れ、離れ、相変わらずゼンの動きはどこか不器用で、自然とオーケンフィールドが導くように先回りする。
あちらの世界で幾度もやった行為である。自然と次にやるべき行動を身体が取る。もう一つの世界での出来事が、自然と溢れ出す。擦り切れるほど何度となく思い出した出会いの日、勝てない相手に食らいつき、弱いのに強い彼に見惚れた。
あれが本当の正義なのだと思った。目の前の人を助ける。愛する者を守る。原初にして真理、そこに強さは関係ない。強いから守らねば、と言う傲慢を知った。ノブレスオブリージュ、その驕りを噛み締めた。
あの日、第三の男は責務を放棄した。ただ一人のために戦うと決め、思考から皆を切り離した。その結果、皆が救われたに過ぎない。彼の後ろに皆がいたから、たまたま救えただけ。不純である。世界の英雄などとは思えない。
ただのエゴ。
「上手くなったね、ゼン」
「まだまだお前の方が上だ。追いつける気もしない」
「そうでもないさ」
だが、それの何が悪いと眼前の男ならきっと言う。自分だってアストレアを、子どもたちを守りたかっただけ。誰だって始まりはそんなもの。
言葉にせずとも染みてくる。気にし過ぎだ、と。
「お前に感謝する、オーケンフィールド」
「それはこっちのセリフだよ、ゼン」
嗚呼、ようやくストンと胸に落ちる。あの日、死んだのではない。あの瞬間、終わったのではない。あの選択をした時に、ハンス・オーケンフィールドの正義が生まれたのだ。だからこそ、あそこで自分は限界を超えられた。
自分にとっては彼を守るという選択こそが――
「あっ」
「おっ」
本当の始まりであった。
魔力が零れ出す。ジワリと溢れ出すそれを見て、ゼンは微笑んだ。
「……俺の正義は、お前と共に在る」
「……お前はお前だ、俺になど寄らずとも、お前なら立てるさ」
「そんな哀しいこと、言わないでくれよ」
静かに魔力を取り戻したオーケンフィールドはゼンから離れる。自分の中に溢れる想いを噛み締め、自分の中で滾る力を確認し――
「俺はニケに、勝てると思うかい?」
オーケンフィールドはゼンに問う。
「もちろん」
迷うことなくゼンは言い切った。あの時の、依存で信じ切っていた時とは違う信頼を見て、オーケンフィールドは静かに微笑んだ。
第三の男、静かに復活。
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