最終章:『絶望』

 深く、光差すことなき果ての世界。

「……貴女は己を愛することが出来ますか?」

 その名は『絶望』、加納恭爾の心に芽生えたそれは成長と共に拡大し、罪を犯すたびに膨れ上がり、愛を知って底無しの闇と成った。

「……かつては愛していたわ。今は、永劫愛せない」

 その中に在ってただ二人だけが意思を保つ。一人はあまりにも巨大過ぎる器を持つが故。もう一人は、『絶望』の主であるが故。

 どちらも『絶望』が生かしている。

「これが私です」

「醜い」

「私もそう思いますよ。初めは普通に生きようと思っていました。皆と同じように、美しいものを愛で、正義を貴び、善を信じた」

「ハッ、笑える冗談ね。こんなシックスセンスを持つ男が、普通など――」

 ありえない。彼女に言われずとも、彼自身が一番理解している。

「ええ。そうですね。ふふ、これでも十代半ばまでは普通に生きていたのですよ。何とか、苦しかったですがね。規律を重んじ、法を順守し、そんな毎日です。その時点では、とても模範的な青少年だったと思います。決定的だったのは、嗚呼、思い出した。いじめがあったのです、学校で。いじめられっ子の彼は気弱でしたが、勤勉な普通の学生でした。いじめの主犯も私に比べればまるで普通な、明るく元気なクラスのリーダー的存在。構図も、何もかもがありきたり。学生生活で幾度も見てきた、日常風景。いじめは群れを強固とするために行われるものです。彼らの大半は悪意ではなく機能としてそう在る。加害者も、被害者も」

「興味ないわ」

「ただの独り言ですよ。でも、何故か、その時は無性に苛立った。おそらく、ずっとその感情はあって、積もり積もったモノが其処で破裂しただけなのでしょうが。気づけば私は手を血で染めていた。そしてそれが、私が初めて規律を犯した瞬間でした。実に爽快でしたが、次第に怖くなりました」

 イヴリースは語る加納を興味なさそうに、されど目の端には入れる。

「社会秩序の敵と成ったのですから、当然でしょう。殺人、あまりにも稚拙な初体験は、信じ難い結末を迎えます。私は主犯含め計三名ほど殺したのですが、なんといじめられっ子が自首したのです。自分がやった、と」

「理解不能」

「私も理解できませんでした。結局真意は聞けずじまい。アリバイを持たず、動機は充分。自供もしている。証言に食い違いは在れど、その事件を掘り下げたくなかった各団体関係者の思惑が合致、早々にケリをつけたようです。それは後に調べて分かったことですがね。非常に趣深い初体験でした」

 加納は苦笑いを浮かべる。

「そして、一度その苛立ちを解消する手段を得た私は、多くの人間をその手にかけました。若い頃は、それこそ脛に傷を持つ者ばかり、狙っていたような気がします。分かりやすく、私がクズだと思える者ばかりを、ですね」

 殺されるに足る理由を持つ者。別に、義憤に駆られたわけではない。ただ彼らの存在に、法で裁かれぬままのうのう生きる姿に、苛立ちを感じただけ。

 それを彼らで解消していただけのこと。

「ダークヒーローのつもり?」

「まさか。ただ、目につく不愉快なモノから消していっただけ。しかも、いじめられっ子の件で味を占め、上手く擦り付ける術も覚えていましたし。同じように受け入れる方も稀にいますが、大概は身に覚え無き罪を否定し泣き叫んでいました」

「当たり前ね」

「そもそも私は人間が嫌いなのです。彼らの大半はいじめっ子、いじめられっ子のように、正常な人間。実に醜いじゃないですか。群れを統御するためにルールを敷いておきながら、片や群れを強固とするためにルールを破る。それを人の群れは是とする。矛盾です。矛盾ばかりが目につく生き物です。醜悪極まりない」

「…………」

 イヴリースは肯定も否定もしなかった。彼女たちを創った者たちが掲げた理念も、加納恭爾が語る矛盾、不完全さを正すためと言われている。

 人が醜く、不完全であることに、彼女は否定しない。出来ない。

 だからこそ、自分たちが生まれることになったから。

「まあ、私はご覧の通りあまのじゃくな人間なので、そういう醜さを愛していましたが。彼らが浮かべる醜さを、溢れ出るそれを見て、愉悦を感じるわけで、最も唾棄すべき人間はやはり、狂った存在である私なのは承知しています」

「それは愛じゃない」

「何故、そう言い切られるのですか?」

「お前は正常に人間が嫌いで、人間の醜さを嫌悪し、それが痛めつけられる様を見て愉悦する、極めて正常なクズだよ」

「なるほど、確かに一理あるかもしれませんね」

「そも、博愛などありえない」

「おや、それも何故か伺っても良いですか?」

「私たち新人類でさえ、獲得していないものだから。愛する機能を捨てられなかった。新人類である私たちにも、特別はあった」

「……嗚呼、なるほど」

 愛する人がいる。一見すると素晴らしいことである。だが、博愛と言う観点から見ればその時点で崩壊しているのだ。例外がいる時点で、それは無い。

 個への愛が存在する時点で全への愛と言うものはありえない。

「理屈をこね回すなよ、旧人類。お前はただ、真っ当に人間が嫌いなだけ。人間が嫌いで、醜い一面が許せなくて、ぶち壊したくなっただけ」

 加納恭爾もまた、只人なのだと彼女は言う。

「先ほどと言っていることが矛盾していますよ」

「くっく、このくだらない一人語りも存外面白いじゃない。貴方と言う人間が透けてきたわね。この私を喰らい、魔王として君臨した男の正体が、ただの潔癖症だなんて、最高に傑作じゃない。ほんと、面白いわよ、加納恭爾」

「……潔癖症」

「人間の歴史を紐解けば、人間と言うものを知れば知るほど、許せなくなった。わかるわよ、まさに私たちはそのために生まれた存在だもの。美しいものなんてほんの一部、ほとんどが醜い面ばかり。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰、人間を構成する負の側面。どれだけ綺麗ごとを宣おうとも、これらから逃れられないのもまた人のサガ。貴方はそれが許せなかった」

 人間のサガが、この『絶望』を育んだのだ。加納恭爾と言う器を通して。

「随分饒舌ですね」

「貴方に愛する人はいるかしら? いるとすれば、ふふ、随分身綺麗な人なのね。例外中の例外、貴方の潔癖を満たす、美しき人」

 加納は深淵を仰ぐ。

「ええ、ええ、まさに、その通りですね。人間は誰しも、あったはずなのです。どれだけ身綺麗にしていても、叩けば埃が出る。それが人。そのはずだったのに、血濡れた後に彼が現れるものだから、どうしようもない」

 何も感じなかった。人など一皮むけば誰しも同じ。

 それが覆った。

「完璧な人間?」

「まさか。欠点だらけです。社会のルールも良く破る。犯罪の捜査のために犯罪まがいのことをやる男でしたから。ただ、彼は一度として自分の中のルール、志だけは曲げなかった。彼の正義だけは貫き通した。私が、幾度挫こうとも」

 自分を見つけた男。こんな男もいるのか、と驚いた。組織の中に在ってどんな高き志も腐り果てていく様を見てきた男にとって、組織に所属しながらも四方八方に角を立てそれでもなお貫き通す頑固さは衝撃であった。

 その時、加納恭爾は知ったのだ。

 世界には例外が存在する、と。人の中にも美しい者は一定数存在し得るのだと。ゆえに加納自身、アストライアーという組織を構成する例外たちには一定のリスペクトがあった。彼らの青臭い正義にはどこか、彼と同じ匂いがしたから。

 だから、彼ら相手ならば殺されても良いかな、とも思っていた。

 ただし、彼と同じように加納恭爾と言う壁は超えてもらおう、と障害は残しつつ勝ち負けの余地があるゲームを楽しんでいた。

「例外はいます。されど、ごく少数です。彼らに価値は、美しさはあっても、大多数の人間が醜いことに変わりはないでしょう。彼らはあくまで人間の中に在ってはイレギュラーでしかないのです。私と同じ、生まれながらの」

 加納は貌を歪める。

「魔族への転生、英雄召喚、全て、私の考えを裏付けるものでした。正負にかかわらず、王や英雄にはそうなるべくして成る者ばかり。あえて玉座を忌避した者もいましたが、それはマイノリティゆえに無意識のブレーキが働いていただけ。実際に彼らの多くは、魔人クラス上位でした」

 されどその証明は崩れ去る。

「葛城善、彼は何の変哲もない、凡庸な男でした。貴女の器を得て、元々自信のあった記憶力が桁外れに跳ね上がり、それでもなお記憶の端に引っ掛かる程度の男。それが獣を超え、人を超え、魔を超え、神を超え、私を超えた」

 自分が彼の生みの親なのだ。自分が一番理解している。

 確かに彼は一芸を秘めていた。だが、発揮されない、見つかっていない才能など、多くの人に眠っているもの。むしろそれを見出し、適切に磨く環境を持つ者が珍しいのだ。磨かずとも輝く例外は除いて。

「彼を見ると、とても苛立つのです。それはきっと、私にもあったかもしれない可能性を見せられてしまったから。正義の味方とまでは言いませんが、それこそダークヒーローくらいにはなれたかもしれない。それなら、手を繋ぐことも、共に歩む道もあったかもしれない。その可能性が、赦せなかった」

 加納恭爾は知っている。人のサガを。

 そして彼はこの世界で歴史を得てしまった。かつての人類が辿った道を。

 おそらくは、自分の知る人類も辿るであろう道を。

「だから嫌がらせってか? 最悪な野郎だな」

「ふふ、蒼き星を舞台にお人形遊びをする貴女方には言われたくありませんね。わざわざ不完全な舞台に不完全な人を用意して、望み薄な希望を託す。夢物語以下の愚行でしょう。憎んでも憎み足りぬ、悪ですよ、貴女方は」

「……否定はしないわ」

 加納とイヴリースが結びついたのはもしかすると似た者同士だったから、かもしれない。愛はあった。だが、諦めた。片方は血濡れた手を見つめ、片方は己が弱さゆえ。そして何よりも、シン・アポロンが導き出した人の可能性への嫌悪。

 それが彼らを結び付けた。

 世界に対するカウンターとして。

「……私は、この世界が嫌いよ。A・Oという知恵の実にむしゃぶりつき、愚かにも滅んでいった旧人類も、嫌い。その現身である今の人も、明日のお前たちも、大嫌い。そんな連中に期待するなんて馬鹿げている」

「夢ならば、ここで覚ましてあげるべき、ですか」

「そう。だから、私と貴方が選ばれた」

 これが運命だというのならば――

「超えるべき壁として。くく、なるほど、確かに、不愉快です」

 あまりにも不愉快極まる。

「でも、超えられるかしら?」

「ええ。私が認めた者たちも、誰一人私すら超えられずに敗れ去りました。ようやく様々な協力を経て私を超えたようですが、ここからが本当の壁。希望の星か何か知りませんが、最強の個程度、凌駕せねば先はない」

 加納恭爾は絶望の淵で嗤う。

「最強の戦士、アポロンを超えた究極の一。私ひとりでは届かなかったそこに今日至った。さあ、最強を堪能しなさい、存分に」

 イヴリースもまた、嗤う。

「「絶望の獣、終末の番人、シン・デスペア」」

 貴様が可能性だというのならば――

「「凡ての敵である」」

 この『絶望』、超えて見せよ。


     ○


 シュバルツバルトが、レウニールが、愕然とそれを見つめる。

 もはや生まれ出でるはずのない新たなるシン。スフィアに瞬くはシン・デスペアの名。『絶望』の名を冠する新人類。最新にして最終。

「……フィフスフィアが、シックスセンスが、主を喰らうなんて、聞いたことがない。こんなことが、あり得るのか?」

 未知なる存在。

「ぐが、この試練、容易くはないぞ」

 最後にして最強のシン。もはやレウニールが魔族に堕しておらずとも、シュバルツバルトがレプリカでなくとも、関係がない。

 最悪の魔王、加納恭爾が封じていた最強の獣。天才音楽家が滅びを感じ、蓋をした災厄の獣。もはや、新人類ですら御せぬ真なる試練。

 ある男を通して生まれ落ちた人類悪、顕現す。


     ○


 ゼンは咄嗟に跳んだ。誰もいない方向へと。北はまずい。

 南へ――

 その途上であった。『絶望』が無造作に掌を向けてきたのだ。そして、手からオドが溢れ出す。何の捻りもない、ただの魔力波。

『相棒!』

「わかっている!」

 ウェントゥス、暴風の槍で地面を抉り、無理やり自らの到達点をずらした。その結果、間一髪で攻撃は回避する。自身は、ノーダメージ。

 だが、ロディニアは、無事では済まなかった。

 大地が、消し飛ぶ。

 狙われたゼンが誘導しなければ、おそらく人類の生存圏の半分近くは消し飛ばされていただろう。信じられない破壊規模。信じ難い威力。

 ゼンは背後を見て、歯を食いしばる。

 森が消え、丘が消え、山が消え、谷が消え、真っ新と成った地平の先に海が見えたのだ。徐々に、まだ遥か遠いが海が近づいてくる。

 『絶望』の一撃で、地図が大幅改変される。

 誰もが絶句していた。

『…………』

「『アルクス!』」

 獣はこれまた無造作に接近し、咄嗟にゼンが展開した盾を砕き、そのまま殴り飛ばす。悪意もない。工夫もない。ただの拳が――

「あ、がァ!?」

 ゼンを、地平の彼方へと、吹き飛ばす。

『……!』

 それを追わんとする獣の踏み込みで、大地が十字に割れる。

 もはや、人がどうこうできる戦いではない。魔が、神が、どうにか出来る領域を超えていた。ルシファーが、シャイターンが、ベリアルが、アスモデウスが、顔を歪める。これはもう、制限があっても無くても同じ。

『ここまでチラチラ見せていた、桁外れの戦力でさえただの兆しだった。これがあの獣の真価。魔界であっても、誰も勝てん。滅ぶぞ、この世界は』

 あのシャイターンが、最強の魔王が言い切る。

 あれはもう、誰にも止められない『絶望』なのだと。

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