時を止めたお姫様
長原 絵美子
第1話
ある朝、僕に一通の手紙が届いた。真っ白な封筒に、丁寧な字でララ・モートンと差出人名が書かれている。
「誰だっけ?」
僕は寝癖のついた髪をかきながら首をかしげた。
封を切って、どれほど時間が止まっただろう。
落ち着け、落ち着け……なんだってこんなものが僕のところへ?
それはモートン侯爵令嬢、ララ・モートンからのバースデー・パーティへの招待状だった。
さあ、大変だ。
何を着ていけばいい?
プレゼントはどうしよう?
挨拶なんてうまく言えるだろうか?
僕は狭い部屋をひっくり返して、どうにかまともに見えそうなスーツとシャツとネクタイを探し出した。ああ、靴も磨かなきゃ。
プレゼント……十六歳になるお嬢様へ何を贈ればいいんだろう。普通の女の子にだって難しいのに、侯爵令嬢だぞ。アクセサリーもお菓子も、きっと飽きているに違いない。
僕は迷いに迷って、自分の作品である絵本に描きおろしの色紙を添えて、淡いピンクの紙で包んでリボンを掛けた。
仕方ない、ただの絵本作家なんだから。これくらいしか用意できないよ。
挨拶は……前のひとの真似をすればいいかな(一番じゃないことを祈る)
とりあえず支度を終えて、僕はモートン侯爵のお屋敷に向かった。
街から少し離れた丘の上のお屋敷には、すでに高級車がずらりと集まっている。僕はそれだけで気後れしたけれど、招待していただいたのに無視するわけにもいかないから、勇気を出して呼び鈴を鳴らした。
ゆっくりと門が開き、しわ一つない黒いスーツを着た男に案内される。きっと、僕のスーツより何倍も高いんだろうな。
玄関にたどり着くまでに、一駅分くらい歩いたような気がした。見上げるほどの立派なお屋敷、重厚な扉をくぐると天井にはきらめくシャンデリア、窓のガラスは色とりどりで、僕は思わず目眩を起こす。
先に到着していた来賓たちは、みすぼらしい僕を見て眉をひそめた。
仕方ないよね。
人気俳優、一流のスポーツ選手、若くして成功した起業家、先日何かの研究に成功したと話題になった学者、政治家の息子……新聞やテレビで見たことのある有名人が勢揃いだ。
なぜ、僕が招待されたのだろう。
もしかしてお嬢様が、小さい頃に僕の絵本を見てくれたとか? いやいや、僕の絵本が世に出たのはここ数年のことだ。それも、本屋の片隅にこっそり積み上げられているような。
明らかに、僕だけが場違いだった。せめて愛想よくしなければと思うけれど、どうしても顔が引きつってしまう。
「やあ、君もララ嬢に招待されたのかい? えっと、失礼だけど、どういった……?」
人気俳優がさわやかな笑顔で話しかけてきた。
「あ、はい。どうしてかわからないんですけれど」
僕が名刺を差し出すと、彼は驚いた顔で受け取りしげしげと眺めた。どうだ、かわいいだろう。僕の描いたイラストと丸い文字。
「へえ、絵本作家か。まだ読んだことはないけど、すごいね」
「ありがとうございます。僕はドラマ見てますよ。毎週楽しみにしています。まさかこうしてお会いできるなんて」
気を良くした俳優は、ハンカチにサインをしてくれた。他の有名人にもお願いしてみようかな。
「ねえ、知ってる? 今日はララ嬢のバースデーを祝うだけじゃなく、どうやら婚約者の発表があるらしいよ」
「そうなんですね。おめでたい」
そんなビッグニュースを誰より早く、間近で見ることができるなんてラッキーだ。
そんなことを話していると、若い執事が僕たちの前に現れた。
「皆さま、本日はお忙しい中お集りいただきありがとうございます」
きれいな顔をした執事は優雅にお辞儀する。見惚れている場合じゃない、いよいよだ。
僕はごくりと息を呑んで、ララお嬢様の登場を待った。
「……」
「……」
会場がどよめく。
どれほど待っても、誰も出てこない。
執事は一つ咳払いしてから、奥の部屋の扉を叩いた。返事がない。
「失礼します」
部屋の中をぐるりと見回し、執事は血相を変えて戻ってきた。
「た、大変です! ララ様が、いません!」
一同は騒然とする。
「窓の鍵はかかったままで、外に出るにはこの廊下から皆さまの前を通らねばなりません」
「何か、隠し通路があったのでは?」
「いえ、逆に侵入されてはいけませんから」
騒ぎを聞きつけたモートン夫妻が、召使いに支えられるようにして会場に現れた。顔は青ざめ、ひどく動揺している。
執事は事情を説明し、警察へ連絡しようとした。
「待て、もし誘拐だとしたら、下手に動いてはララに危険が……」
「ですが、あなた、誘拐なら警察にお任せした方がいいのでは?」
執事を引き止めたものの、どうするべきかと侯爵夫妻は頭を抱えた。
来賓たちも、召使いたちも、何もできないままただ時間だけが過ぎていく。
静まり返った広間に、苛立ちを隠せないため息が何度もこぼれた。有名人たちは過密なスケジュールをどうにか調整して集まっているのだ。
「ねえ、パーティーが中止なら帰りたいんだけど」
人気俳優がこっそり執事に相談した。
「申し訳ございません。無事に見つかるまでは、皆様も容疑者ということになりますので」
人気俳優は目を吊り上げて激怒した。スポーツ選手と起業家も一緒になって執事に詰め寄る。
「僕たちを疑うというのか!」
「冗談じゃない、そちらが呼んだからわざわざ来たんだぞ」
「まったく、時間を無駄にしてしまった」
気持ちはわかるけれど、お嬢様の心配よりも自分たちの都合の方が優先か。僕はうんざりしながら、女中が淹れてくれたお茶をすすった。
「せっかくお越しいただいたのに、申し訳ございません」
疲れた顔で執事が謝りにきた。僕は全然ひまだから問題ないんだけど。
「ねえ、最後にお嬢様を確認したのはいつ?」
「は? え、ええ、そうですね、朝のお茶をお持ちした時には会いましたが、そのあとはメイクや着付けを女中たちにお願いしたので……」
「ねえ、きみ、ずっとここで働いてるの?」
すると執事は困ったように言い淀んだ。何かおかしい。
「わ、私は、ひと月ほど前からこちらで……」
「ふうん。あ、引き留めてごめんね」
僕が離れると、ほっとしたような表情で他の客へ詫びにいった。
探偵の真似をするつもりなんてないけれど、どうもこの執事があやしいような気がする。
閉めきられた大きな窓から見える広い庭。穏やかな日差しを浴びて針葉樹と大理石の置物がきらきらと輝く。まるで森のように広い中庭なら、不審者だって容易に隠れることができそうだ。
ララお嬢様の部屋を確認したのは執事だけ。本当に窓に鍵がかかっていたのかわからないし、もしかしたら執事が鍵をかけて密室のように見せかけたのかもしれない。
誘拐犯と執事が共犯なのか、あるいはお嬢様と執事が共謀しているのか。
でも、誘拐犯の仲間なんて、こんなにチェックの厳しそうなお屋敷で雇うだろうか。そしてお嬢様が何か企んでいるのなら、モートン夫妻があれほど動揺するだろうか。
「いや、待てよ」
うとうととまどろみながら、僕は古い記憶をたどった。
もうずいぶん前のことだけれど、爵位を持つ伯父にどこかのお屋敷のパーティーに連れていってもらったっけ。僕はごちそうが食べられると楽しみにしていたのに、その時もお嬢様がいなくなったとかで大騒ぎになったんだ。
「あの時はたしか……」
ふと柱の大時計が遅れていることに気付いて、機械部分の扉を開けてみたら小さな女の子が隠れていた。ピンクのリボンでふわふわの髪を結わいて、たくさんフリルのついたドレスを着た彼女はお人形のようにかわいくて。
「どうしてこんなところに隠れてるの?」
「しらないひと……たくさん……」
ああ、それで怖くなって隠れていたのか。くまのぬいぐるみに顔をうずめるようにして震えている。
「ここは危ないよ。長い針が十二を指したら、仕掛けが動いて機械に巻き込まれてしまうよ」
僕がそっと抱き上げると、彼女は小さな手で僕の首にしがみついてきた。
「おにいさんが、わたしのおうじさま?」
「さあ、どうかな。お父様が許してくださるかな」
そんなことがあるはずないのに。僕は気取ってお嬢様をエスコートしたっけ。懐かしいな。
それからしばらく、伯父を通じて手紙のやりとりをした。お嬢様の似顔絵や、お嬢様を主人公にした物語を添えて。僕が絵本作家になったきっかけだ。
僕が思い出にひたっていると、それを打ち破るような大きな音が響いた。誰かがテーブルを叩いたんだ。同時にがしゃんと銀の食器がはねた。
やはり素人だけで解決するのは無理だと、モートン侯爵が知り合いの刑事を呼びつけたらしい。刑事の聴取に怒った例の俳優がテーブルに手をついて睨みつけている。
「なんだよ、モートン家と親しくすればいい宣伝になるって社長が言うから来てみたのに、会ったこともないお嬢さんの誘拐犯に疑われるなんて、まるで逆効果じゃないか」
「俺もそうさ。チームのスポンサーにでもなってくれればありがたいと思っていたが、話す機会すらないなんて」
おいおい、そんなことを大声で言って大丈夫か。明日になって新聞やテレビから名前が消されてなければいいけれど。
起業家はこれみよがしにノートパソコンを広げて仕事をしているし、政治家の息子は携帯電話であちらこちらに連絡しているし、学者はまるで興味なさそうに本を読んでいる。
他の客たちも、彼らほどではないけれど退屈そうに、苛立たしげに、時間を持て余していた。
「なんで、誰もララお嬢様の心配をしないんでしょう?」
僕は思わず、近くにいた起業家に話しかけた。彼は驚いて顔を上げる。
「ん、ああ、そうだね、心配だね」
僕に言われて初めて気付いたようにつぶやいた。そして少し考えてから付け加える。
「きっと、ここにいるほとんどのひとがお嬢様の顔を知らないんだ。お嬢様はあまり公の場には出てこないからね。だから、いなくなったと言われてもピンとこないのかもしれない」
「そうなんですね」
「正直なところ、僕も彼女の誕生日を祝うというのは口実で、新しい取引先を開拓できないかと思って参加したんだ。だけど、たしかに心配だね」
起業家はパソコンを閉じて立ち上がり、刑事に協力的な姿勢を見せた。それだけで、すごく好印象に変わった。さすがだな。
起業家に続く者、俳優たちと一緒に愚痴をこぼす者、それぞれの事情と思惑を抱えて行動する。それはごく自然に見えて、なんとなく僕は客たちの中に犯人はいないんじゃないかと思った。
それにしても、誘拐だとしたらそろそろ身代金の要求なんかがありそうだ。いや、金ではなくお嬢様が目当てなら連絡はないか。でも、それだとお嬢様の身が危ない。
僕はただ無事を祈った。
「あの、こんな時ですが、食事を用意いたしましたので、あの……」
執事がおずおずと僕の顔を覗き込む。本当によく整った顔だな。
「ありがとう」
とてもそんな気分ではなかったけれど、せっかくだからサンドイッチを一切れかじった。とろけるようなローストビーフが贅沢に挟んである。ああ、僕はまたごちそうを食べ損ねたんだなと改めて思った。
手がかりの一つも見つからないまま、どれくらい時間が過ぎただろう。僕は柱の大時計を見た。
「あれ?」
僕はもう一度、注意深く記憶をたどる。
きらめくシャンデリア、色とりどりの窓ガラス、そして大時計……目の前の光景と記憶がぴたりと重なった。
「まさか」
自分の腕時計と見比べると、大時計がかなり遅れている。
ぞくりと背筋に嫌な汗が伝った。
なぜ気付かなかったんだ。こんな立派なお屋敷、あのたった一度しか訪れたことがなかったのに。
大時計の扉の中に隠れていたお嬢様は、まだ小さかったから機械に巻き込まれなかったけれど。十六歳の女性があんな狭いところに……
そんなはずはないと否定しながら、大時計の前に立つ。間違いない、この時計だ。
僕は息を呑み、ゆっくりと扉を開けた。
「……いない」
当然だ。こんなところに入れるはずがない。ほっとしたのも束の間、奥の方にくまのぬいぐるみが座っているのが見えた。振り子の先端が触れて不規則な動きになり、そのせいで時計が遅れていたのだ。
いったい、いつからこのぬいぐるみはここに入っていたのだろう。広間には大勢の来賓と召使いたちがうろうろしている。誰かが扉を開けたりしたら、きっと目立ったはずだ。ならば、ひとが集まる前からすでに仕掛けられていたということか。
僕はぐっと腕を伸ばしてぬいぐるみを取り上げた。少し色褪せて、なんども繕われているけれど、たしかにあの女の子が抱きしめていたぬいぐるみに間違いない。
「なんだい、それは?」
起業家が僕の手元を覗き込む。
「たぶん……ララお嬢様のぬいぐるみです」
「え?」
「ずいぶん前のことなんですが、同じようなことがあって。その時は、ここにお嬢様が隠れていたんですけど。ねえ、執事さん?」
僕は振り返って執事の方にぬいぐるみを差し出した。執事は少し困ったような顔をして、それからうなずいてぬいぐるみを受け取った。
「どうして、こんないたずらを?」
「い、いたずらではありません」
では、まさか知らないひとがたくさんいるから怖くなって? それとも、婚約の発表が嫌だった?
僕は少しだけ怒りがこみ上げてくるのを、懸命に抑えた。みんなの貴重な時間を奪って、いったい何をしようとしていたんだ。
「これには訳がありましてね。とりあえず、おまえは着替えておいで」
モートン侯爵が僕と執事の間に入る。執事は一度ぺこりと頭を下げて奥へ下がっていった。
僕は失礼にならないように小さくため息をつき、気持ちを鎮める。やっぱり、僕は最初から執事があやしいと思っていたんだ。
あのきれいな顔、僕の絵本に出てくるお姫様とそっくりじゃないか。
きらきら輝くシャンデリア、来賓たちの視線は釘付けに、ドレスに着替えたララお嬢様が優雅にお辞儀する。それだけで空気が浄化されるような気がした。
ララお嬢様は静かにドレスのすそを揺らしながら、僕の方へ歩み寄る。待ってくれ、挨拶は前のひとの真似をしようと思っていたんだ、何も考えてないよ。
「あの、だましてごめんなさい。そして、見つけてくれて、覚えていてくれてありがとうございます」
僕の中のもやもやしていたものが消えていく。ああ、なんてきれいなんだろう。
彼女をモデルにした絵本をプレゼントするつもりだったけれど、僕の画力じゃとても表現できないよ。つい、包みを後ろ手に隠す。
「お手紙とすてきな似顔絵、とてもうれしかったです。また、こうしてお話するのを楽しみにしておりました」
「それはそうと、どうして執事に変装なさっていたのですか」
ララお嬢様は頬を赤らめ、もじもじとうつむく。
「お父様にお願いしたのです。もしもあなたが私のことを覚えていてくださったら、結婚を前提にお付き合いすることをお許しください、と」
侯爵夫妻は機嫌よくうなずき、来賓たちは乾杯と叫びながらシャンパンを飲み干し、召使たちは笑顔で拍手している。
そして僕は、まるで時間が止まったように呆然と立ち尽くした。
時を止めたお姫様 長原 絵美子 @hinomaruichigo
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