8

 春が過ぎ、短い夏と秋を経て、再び冬が訪れた。山々にも白い雪が降り積もり、山頂から冷たい颪が吹き下ろす。枯れ葉が風に舞う様子を脇目に、さくらは両手いっぱいに抱えた薪を家へ持ち帰っていた。ふと空を見ると、灰色の厚い雲が空一面を覆っている。今夜はいっそう冷え込むに違いない。そう予感した彼女は、長い白髪を左右に揺らしながら日没前の家路を急いだ。


 古い木造の家屋が見えてきたところで、さくらは手に冷たい感触を覚える。手の甲を見ると、冷たい雪の結晶が溶け始め、水滴となって地面へと流れだしていた。遠くから風の吹く音がさくらの耳に入るとともに、大粒の雪もぽつぽつと降ってくる。さくらは小さく舌打ちをすると、早足ですたすたと歩き出した。歩調を落とさないまま右手で障子を引き、身体を家の中へ捻じ込んですぐにぴしゃりと音を立てて閉める。


 床にある囲炉裏を目指して再度足を進めようとしたところで、さくらはつと立ち止まり、二度小さなくしゃみをする。


「冷えるねえ、今日は」


 口をついて出た言葉を拭うかのように、雪で冷たくなった草鞋を脱ぎ捨てたさくらは、すぐさま囲炉裏の周りに持っていた薪を敷き詰める。そして薪に火を点けようとして、側に置いていた火打石へと手をかけた。


――どれ、貸してみろ。


――これぐらい、どうってことはない。それにしても、意外だな。雪女といえども、こうして暖を取ることもあるのか。


 懐かしくもいとおしい声の記憶に、さくらの手が一瞬ぴたと止まる。あの日以来いなくなった青年のことを、彼女は毎日の日常生活の中で思い出さない日はなかった。風のうわさで、かつて雪克が口にした日本全体の内戦は半年も前に収束したと聞いたが、それでも彼は一向に帰ってくる気配を見せないままだ。


 あの後再び戦場へ行って命を落としたのか、あるいは自分が厭になってこの地を離れたのか。雪克の安否を気遣うと同時に、さくらの中で渦巻く最悪の想像と不安とが、彼女の心をじわじわと締め付ける。目を背けたい思いに駆られたさくらは、やがて雪克のことを深く考えないようにするのが当たり前となり、今もその習慣が彼女を穏やかな心持ちに導く。


 帰って来ないものはしょうがない。残されたものは残されたもので、己が生の営みを続けていくだけだ。そう自分を律しながら、さくらは手早く火打石から火種を生み出し、火口をとおして囲炉裏へ火種を移す。ゆっくりと大きくなる橙色の炎を前に、さくらは白い両手を持っていき、ささやかながら暖を取った。


 すると、障子の戸をこん、こんと二度大きく叩く音がさくらの耳に入った。さくらが障子へと目線を向ける。白い障子紙越しには、成人した男と思しき体格をした黒い影と、日没が近づきつつあることを示す薄藍色の黄昏が映し出されていた。


「誰だい、こんな時間に」


 さくらは、障子越しにいる人物へ向かって声を張り上げる。こんな夕暮れ時に誰だい、と独りごちていると障子越しの人物は低い声で応じた。


「さくら、おれだ。雪克だ」


 障子越しの人物の回答に、さくらは一瞬時間が止まったかのような錯覚を覚えた。そして気がつけば、素足のまま土間を駆け抜け、障子に手をかけようとしていた。だが、それよりも前に雪克の声が遮る。


「待ってくれ、さくら。障子を開けないで、このまま聞いてくれないか」


 久しく耳にしなかった愛する男の声を聞いて、さくらは大粒の涙を流しながら金切り声を上げる。


「馬鹿! 馬鹿だよあんた、いったい何考えてんだよ。あたしがどれだけ心配したと思ってんだい、日本一最低の薄情者が。侍のくせに、女子を泣かせるんじゃないよ!」


 さくらの追及に、雪克は黒い影を小さく震わせた。彼は少し黙り込んだ後、ゆったりとした口調で続ける。


「ずっと一人にさせて本当にすまない、さくら。おれは、どうしても自分が武士であるという誇りを捨てきれなかった。かつて戦場で散っていった仲間たちのことを思うと、行かずにはいられなかったんだ。けど、もう全部終わった。ようやくここへ帰ってくることができて、本当によかった。これからはずっと、さくらと一緒にいられる」


 雪克の言葉を聞いたさくらは、涙を流しながら額を障子に当てて一言、さびしかった、と呟く。彼女の言葉を聞いた雪克は再び、すまない、と謝罪の言葉を繰り返す。


「ところであんた、忘れちゃいないよね。あんたが、あたしに求婚するときの、約束」


 嗚咽を洩らしながら弱々しい口調で尋ねるさくらに、雪克は自信ありげに頷いたように黒い影を揺らす。


「覚えているさ。山桜の花、だろ。それこそお前に似合う山桜を見つけて、ここまで持って帰ってきた。それで、もし良かったら。さくら、おれと夫婦になってくれるか」


 雪克の影が次第に濃くなってきた夜闇と重なり、同化する。障子越しにその様子を見ていたさくらは、強い感情に半ば後押しされる形で勢いよく障子を開いた。


「雪克!」


 さくらは、涙で濡れた目を拭いながら外へ頭を出し、きょろきょろと辺りを見回す。だがそこに人影はなく、ただ藍色の闇と降り積もった雪だけが広がっていた。眼前の光景にさくらは一つ嘆息する。


 ふと、さくらはちょうど黒い影が立っていた辺りの地面に目を向ける。そこには、五枚の白い花弁をつけた一輪の山桜の花がぽつんと落ちていた。さくらは、それを指先でそっと摘み、凝視する。水気を失った花弁は乾ききり、所どころが茶色く変色していた。その様子を観察しながら、さくらは再び大粒の涙を流す。


「雪克。本当の馬鹿だよ、あんたは。最後の最後まで。こんな薄汚い山桜の花を貰ったって、あたしはちっとも嬉しくなんかないやい」


 そう言いながら、さくらは手中の山桜を自らの胸の中へ持っていった。


 大切な人との再会を噛みしめるかのように。


 互いの体温を確かめながら抱擁するように。


 ふたり永久に幸せであることを願うように。


 さまざまな思いが、さくらの胸に去来する。それはきっと、あの人が側にいてくれたから感じられることなのだろう。そのことを悟ったさくらは、涙を堪え、精一杯の笑顔を手の内にある山桜へと向ける。果たされた約束を前に、彼女の心は、静かに降り積もる雪のように澄みきっていた。




 おかえりなさい。




雪と桜の約束/おしまい

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雪と桜の約束 天神大河 @tenjin_taiga

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