7

 鷹が夜明けの空高くを滑空する。わずかな風を両の翼で感じ取り、弧を描きながら地上へ近づく様は、思わず目を奪われるほどに美しかった。


 その様子をしばし眺めた後、雪克は手に持った大刀での素振りを再開した。傷が癒えるまでの数ヶ月間、欠かさず続けてきたそれを通して、雪克は己の調子が確実に戻ってきていることを実感する。きっと今なら、誰の足手まといにもならずに、戦場へ戻ることができる――彼の心の中で、幾度もその考えが過った。


 雪克はさくらの家へと目を向けた。陽光が差し込み、空一面が縹色はなだいろに染まる中、未だ深い眠りの底にいる彼女は、今どんな夢を見ているのだろう。そんなことを考えていると、どこからか話し声が聞こえてきた。雪克は、話し声が聞こえてきた方角へと足を向ける。なるべく足音を立てないようにしながら、彼は近くにある大きな樅の木の影に身を隠す。そこから周囲へ目線を探っていると、ふもとの里の者とおぼしき老齢の男二人がゆっくりと歩いていた。雪克は、二人のやり取りに聞き耳を立てる。


「へえ、また幕府と薩長の戦が始まるのかね」


「おうよ。聞いた話だが、今度は宮古湾の辺りでどでかい海戦になるんだとよ。幕府の連中も海での戦に備えて、明後日に八戸はちのへの方へ寄る噂もある」


「しかしなあ、そんなでかい戦をされたら。おらたち流れ弾に当たって死んじまったりしねえだろうな」


「なあに、戦はあくまで海でやるんだ。陸にいる限りは、まあおいらたちも無事だろうよ」


 そんなやり取りをしながら、男たちは雪克の近くを通り過ぎていった。


 雪克は、自らの胸にそっと手を当てた。西洋の軍服越しにも分かるぐらいに、脈が早く高鳴っているのが分かる。この鼓動の意味を瞬時に悟った雪克は、口内に溜まった唾を一息に嚥下えんげした。







「あんた、どうしたんだよ。何だかきょう一日、ずうっと浮かない顔してたけど。何だい、そこいらの毒茸でも取って食っちまったのかい」


 その日の晩、自らの布団を敷きながらさくらは雪克に尋ねた。んなわけあるか、と雪克は呆れた様子で返しながらも、心の内ではひどく動揺していた。自らの決意がさくらに知られてはいけないのだ。今宵ここを発つことが彼女に知られたら、きっとひどく悲しむに違いない。


 そんな思いを胸に仕舞い込みながら雪克は、隣にいるさくらへと声をかける。


「なあ、さくら」


「何だい、あんた」


 さくらが長い白髪を結わえながら応じる。白い髪留めで長い髪を一つに纏めた少女の姿を目にするのは一度や二度ではないのだが、その度に露出した白いうなじが雪克の心をひどく惑わせる。沸々と沸き上がる邪念を振り払うように、雪克はゆっくりと自身の思いを口にする。


「いや、その。ありがとうな、おれの怪我のこと。お前が介抱してくれたおかげで、大分良くなった」


「何さ、今さら改まっちゃって。あんたらしくもない。やっぱり悪いものでも食ったのかい」


「だから違うと言ったろう」


 雪克の言葉に、さくらは眉を寄せながら訝しげな面持ちで彼を見つめた。少しの間無言で見つめ合ったところで、さくらが一つため息を吐いた。


「まあいいさ。今日はもう寝て、明日になれば少しは落ち着くだろう。おやすみ、あんた。寝る際には囲炉裏の明かりはちゃんと消しといてよ」


 さくらはそう言うと、手に持った布団で線の細い華奢な身体をすっぽりと覆い隠した。そのまま、静かにゆっくりと浅い息を立てる。雪克は、眠りに就こうとする少女の身体を見下ろしながら、足を正座の体勢に直す。


「さくら」


「こんどは何さ、まったく」


 さくらは、後ろにいる雪克を振り返ることなく、気だるげに応じる。雪克は一度、軽く咳ばらいをしてから、しどろもどろとした口調で告げる。


「お前さえ、良ければの話なんだが。その、良かったらおれと、祝言しゅうげんを挙げて、その。おれと一緒に『めおと』にならないか」


 雪克が言い終わるや否や、さくらが布団から勢いよく起き上がった。彼女の顔は耳の先まで紅潮しており、細い指先が左に右に落ち着きなく動き回る。そのまま、顔だけを雪克へと向け、早口で一気に捲し立てる。


「あ、あああああんた、いきなり何を言い出すんだよっ。人が寝る前に言う台詞じゃないだろうが、それは! 馬鹿を言うんじゃないよ、侍のくせに。寝れなくなっちまうじゃないか」


 さくらはぜえぜえと息を荒げながら、再び布団へ横になった。上目遣いで雪克をちらちらと見てはすぐに目を逸らす。対する青年は、微動だにしないままさくらをじっと真っすぐに見つめていた。そんな彼に根負けするように、さくらは顔も布団で隠す。続いて、もぞもぞとした声で口にする。


「お侍さん。あんたは、あたしと夫婦めおとになって、後悔はしないのかい。人間でもない、あたしなんかと祝言を挙げたところで、きっと不幸になるに決まってるさ」


「そんなことない。おれがさくらと一緒にいたいんだ。不幸になるならないの問題じゃない、必ず幸せになるんだ。二人で」


 二人で。語気を強めながら、雪克が口にする。そんな彼の声を聞いたさくらは、ふと子供のように無邪気な微笑を浮かべた。


「そうかい。そこまで言うなら、お侍さん。あんたにここいらの習わしというものを教えてやるよ」


「ほう、どんなだ」


 雪克の問いかけに、さくらは布団からかすかに顔を見せる。隙間から見え隠れする赤い瞳が、彼の身体をくまなく凝視する。


「男が女に求婚するときは、もっとも美しい山桜の花を一輪、その女子に贈るのさ。お前を妻にしたいってね。その花びらの美しさや色づきとかで、その夫婦が長続きするかとか、お金持ちになれるかとかが決まるらしい」


「そういうものか」


「そういうものさ。今あたしが決めたんだ」


「何だよ、そりゃ」


 さくらが小さく笑い声を洩らす。それにつられてか、雪克も口元にうっすらと微笑を作った。


「分かった。それなら、その何よりも美しい山桜を見つけ出して、さくら。お前に贈呈すれば、きっと互い幸せに暮らせるのだろうな」


「本気にしちゃって、あんたも直向ひたむきだねえ。あと言っとくけど、誤解するんじゃないよ。あたしがあんたと祝言を挙げるかどうかは、あたしが決めるんだ」


「分かってるさ。きっと夫婦になる決心をさせる山桜を、必ず探し出してやる」


「楽しみにしてるよ、あんた」


 そこまで言ったところで、さくらがゆっくりとした息を立て始める。雪克は、ただ黙ってさくらを見つめていた。時間が経つにつれ、静寂と夜闇はより深くなっていく。


 雪克は、静かに瞼を閉じる。彼の瞼の裏では、さくらとの思い出や戦場での記憶、幼い時分の記憶が複雑に絡み合い、そのすべてが打ち上げ花火のようにひときわ鮮明に輝いては消えていった。


 すべての出来事の記憶が瞼から完全に消え去ったところで、雪克は意を決したように立ち上がると、囲炉裏の方へと身体を向けた。あらかじめ置かれていた薪をほとんど食らい尽くし、すっかり下火となっていた炎を前に、彼の両手がその周囲に山積した灰を掴む。黒色と灰色とが入り混じった脆弱なそれを、かすかに揺らめく炎へ覆い始めようとしたところで、彼の手が止まった。灰を両手で持った体勢のまま、雪克は側にいるさくらの姿を再び見やる。布団からすっかり顔を出した彼女の寝顔は、どこか幸せそうな笑みを浮かべたまま、穏やかな寝息を立てていた。雪克は彼女の顔をしばし眺めると、目元をゆっくりと細める。


 必ず見つけて戻ってくる。だから、それまで待っていてくれ。


 眠っている少女に聞こえないぐらいの小声でそう呟くと、雪克は手中の灰をそっと小さな火種へと被せた。刹那、部屋全体を黒い闇が包み込む。それとともに、雪克は手近にあった外套を素早く纏い、大刀を手に取った。







 鉄でできた何隻もの巨大な船が、黒い煙を空へ吐き出しながら海上に浮かぶ。赤や青、白など彩りにあふれた旗が掲げられたその船は、日の光に照らし出されるにつれ、すべてが白地に日の丸が据えられた旗に変わった。


 その中でもひときわ大きな船が一隻、別の船に向かって進み、細い船首を硬い船体へ勢いよく衝突させた。轟音が辺りに響き、互いの甲板に到達するほどの白い高波が、巨大な水しぶきを上げる。


 大きな船に乗っていた男たちは、激しい衝撃に臆する様子を見せずに、衝撃音をかき消さんばかりのときの声を上げた。その勢いのまま、彼らは接触した船首から相手の船へと乗り移ろうとする。しかし、そのほとんどが相手の船に乗っていた男たちの銃撃を受け、乗り移る前にその場で倒れ込んだ。


 そんな中、飛び交う銃砲を前に怯むことなく果敢に立ち向かう若い男がいた。彼は大刀を振りかざしながら、単身船首へ向かって真っすぐに駆けていく。腕や肩を掠める弾丸に構うことなく、大声で叫ぶ。そしてついに、男は目的の船首の先に立った。


 だが、そんな若い男の腹を一発の弾丸が貫いた。刹那、彼の身体は前のめりに倒れ、そのまま海へと落ちていった――。




 さくらははっと瞼を見開き、その場から起き上がった。自分の首筋から肩にかけてそっと指先を触れると、白い肌は冷たい汗でしとどに濡れている。


 何だかいやな夢を見ていた気がする。夢の内容はぼんやりとしか覚えていないが、自分が愛する青年によく似た若い男が出てきたことだけは鮮明に覚えていた。


 ふと、さくらは自分の心の奥にぽかんと穴ができたかのような感覚に陥る。何の予兆もなくできた穴を塞ぐべく、彼女はそれを埋めてくれる青年の姿を探した。だが、夜明けでほんのりと明るくなった家のどこを見回しても、彼の姿はどこにも見当たらない。敷いてあった布団を見ると、布団と毛布はきれいに畳まれ、その上に枕がぽつんと置かれている。昨日までいた青年の姿は、彼が持っていた外套や大刀とともに、忽然と消えていた。


「あんた、あんた! どこに行っちまったんだよ、あんたっ」


 さくらはその場で立ち上がり、自分以外誰もいない床の間を横切り、素足のまま土間の冷たい床を進む。そのまま炊事場を覗き込むが、やはり青年の姿はない。


 さくらはふと、胸が締め付けられるような思いに駆られる。それは、今まで自分が経験した感覚とどこか似ていた。一体いつ感じたものだったろう。彼女は少し思案し、すぐにその答えを悟った。両親を亡くした時と、同じものだ。


 いてもたってもいられず、さくらは外へ出るため障子の戸を勢いよく開けた。すると、外は猛吹雪となっていた。吹き付ける冷たい颪を前に、さくらは思わず瞼を閉じ、両腕を顔の前に持っていく。暖かくなりつつあった春先の季節に反し、大量に降る雪と風が、少女の身体を大きく震わせる。


 長い睫毛に付着した細かな雪の結晶にも構わず、さくらは閉じていた瞼をそっと開く。眼前には見渡す限り白一色の光景が広がっており、雲や山肌との境さえも区別がつかない程だった。探していた青年の姿は、やはりどこにも見当たらない。


 さくらは思わず、その場でしゃがみこんだ。まるで目の前の吹雪に、生きていくために必要なものを奪われてしまったかのように。震える唇を小さく開いては、すぐに閉じる。小さく息を吸おうとしても、すぐにできなくなって白い吐息だけが苦しげに吐き出される。このことを繰り返しているうちに、少女は胸の奥底から湧き上がってくる思いを抑えきれず、狭い喉を通して大きく声に出す。


「何だよ、これだから男ってやつは。侍ってやつは。女子にさんざんお前が好きだって言って、自分はすぐいなくなって。別れの挨拶ぐらい、ちゃんと面と向かってしろってんだ。侍のくせに、情けねえ」


 瞬きを何度も繰り返す。そのたびに、熱い涙が頬を伝って落ちていく。さくらの頬には、既に幾筋もの涙の跡ができていた。


「こんなにいい女を、一人置き去りにしちゃってさ。外をほっつき歩いて、誰かに、あたしのこと話してみろ。今にお前のことを追いかけて、全身を凍えさせてやったうえで、殺してやるよ。半分、雪女の血が流れてるあたしを、なめようったって、そうはさせないさ」


 目頭が熱くなる。両手で擦っても、すぐに目元に涙が溜まり、ぼろぼろと零れ落ちていく。


「帰ってきたら、祝言を挙げて、この山で二人で暮らして。子どもももうけて、家族みんなで暮らすんだ。侍のことしか頭にない頑固者のあんたは、きっと苦労するだろうさ。だからあたしが、死ぬまでずっと、支えてやるさ。側にいてやる」


 不規則な呼吸をしながら、さくらは短い嗚咽を洩らし始める。そのたびに胸が熱くなり、苦しくなっていく。


「だから、だから。ゆきかつ。生きて、あたしのところに。生きて帰って来ておくれ……」


 さくらは両手で、紅潮しきった自らの顔を覆い隠した。眼前の吹雪はいつの間にか落ち着きを見せ始め、代わりに白い雪だけが、いつまでも静かに降り続いていた。

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