第2話 小説家にあおう

 標高の高さから季節に関係なく暖炉の火は欠かせない。

 石造りの壁に高い三角屋根。

 それが小説家エドガー・ナッシュの執筆小屋である。


「よく来てくれたね。さあコーヒーでも淹れよう」


 丸い眼鏡の奥にある青い瞳が、ひとの良さそうな笑みを浮かべた。

 会うたびにふくよかになっていく彼の腹回りを見て、いまにもはち切れんばかりのサスペンダーと白シャツにメイルゥは同情を禁じ得ない。


 駅に到着したのは午前中だった。

 そこから馬車に揺られ山を登り、最後は杖を突きつつ進んでいく荒行みたいな獣道が彼女を待ち受けていた。

 それでも何とかお天道さまが南へと傾く前にこの山小屋へと到着し、いまようやく何時間かぶりに椅子へと腰を掛けようとしていた。


 旅行鞄と杖を壁際に置き、鏡台へと足を運ぶ。

 自慢の亜麻色の髪を手ぐしでとくと、汗でよれた化粧を軽くおしろいで直してやった。

 鏡に映る彼女の年齢は三十代そこそこ。

 昨夜の夜更かしが効いているのか、涙袋が腫れて、目元に大きなくまができている。


「街もずいぶんと変わったろう。十年前にきみが追い返した兵隊たちの姿もチラホラ見る」


 暖炉にかけてあったヤカン片手にエドガーがぼやく。

 そして、みずからが挽いた豆へとお湯を落としていった。

 一瞬にして、部屋中は香ばしいコーヒーの匂いで包まれる。

 石造りの暖炉には赤々とした薪が燃え、トカゲの描かれたレリーフ版をゆらゆらと炎が照らしていた。


「さあこちらへ。執筆中はアルコールを断ってるから祝杯とはいかないが、魔道士メイルゥの200年の労をねぎらって」


 エドガーが両手に持ったコーヒーカップを頭上に掲げた。

 彼女は鏡台のまえから離れると、一枚板でつくられた大きなテーブルへとやってきた。


「ありがとよ」


 カップを受け取り、小屋に入ってからやっと最初の一言を口にした。

 琥珀色の液体のうえにゆらぐ白い湯気。

 香りが登山の疲れを癒やしていく。


「献本は届いたかな? あの作品にはちょっと自信があるんだ。意見を聞かせてほしいね」


 炭化しかけた薪を火種に、エドガーはパイプ煙草に火をつける。

 スパスパと小気味のいい音を立て、うまそうに紫煙をくゆらしはじめた。


「汽車に揺られながら読ませてもらったよ。何だいありゃ。デタラメもいいとこじゃないか」


「フィクションだよ。それがエンターテイメントさ。読者が喜ぶならぼくは何だって書くよ」


 さして怒る風でもなくエドガーが言うと、メイルゥはさらに畳み掛ける。


「大体なんだい、あの火の玉やら氷の刃とか言うのは。そもそも頭数足りてない魔法使いがあんなチマチマした攻撃してたんじゃ大規模戦闘なんか出来やしないだろう」


「いいんだよ。彼らは国家と戦争してるんじゃないんだ。あくまでバケモノ退治のためのヒロイックなストーリーなんだから」


「ったく。まあたしかに、あれこれ本当のこと書いても反感を買うだけだしね。世間にゃ悪いが魔法使いに幻想を抱いてもらっておいたほうがいいか」


「そういうことさ」


 軽くウィンクをしたエドガーが、パイプを掲げて悪い顔をした。


「それに――」


 しかしパイプをくわえ直したエドガーは、急に憂いを含んだ表情となり、そっと暖炉に視線を移した。その視線の先にはトカゲの意匠が描かれたレリーフ版がある。


「きみはまだ本当のことを教えてくれないんだろう? きみは我々、偽りの魔法使いと違って、本物の魔法使いだ」


「まだそんなことをお言いなのかい」


「その不老長寿の肉体が動かぬ証拠じゃないか。いつまでも体質の一言で誤魔化さないでくれ」


 キッと鋭い視線を投げかけるエドガー。しかしメイルゥは素知らぬ顔でコーヒーの苦味を楽しんでいる。我、関せずといった風だ。

 脱力したエドガーはまたいつものひょうきんな彼に戻って、二三、煙草をくゆらせる。


「精霊石。かつては宝石としての価値もない、我々、魔法使い以外には無用のクズ石だった」


 窓辺に移動したエドガーは、カーテンの乱れを整えながら外を見た。

 白樺の梢に鳥たちが歌い、野鹿が幹の間を縫って駆け回っている。

 空に太陽、大地に命。

 めぐる自然の息吹がすべてそこにある。


「しかし百年まえ、蒸気機関の燃料を薪から精霊石へと変えた男がいる。そこから我々、魔法使いの運命は変わった」


「またはじまったよ。すねるといつも昔話だ」


「茶化すなよ。チ、気、プラーナ、マナ、スピリツ。世界中には魔力の根源を指す言葉は色々あるが、ぼくは、きみら古い魔法使いにならってルツと小説のなかでも呼んでいる。精霊石はルツの発生源だった。採掘と燃料としての大量消費がはじまり、百年かけて大気中のルツの濃度バランスは狂った。そのせいでぼくたちはもう思い通りに魔法が使えない」


 エドガーはメイルゥの顔を見て言った。


「きみの肉体の若さが変動するのは、ルツの濃度のせいだろう。濃いところでは若く、薄いところでは年老いていく。このあたりはその中間といったところかな」


「そのようだね」


「なあ教えてくれよ。きみはどんな精霊と盟約を結んだんだ? 我々のように生まれつきルツに感応性のある偽りの魔法使いではなく、きみは精霊と盟約を結んだ本物の魔法使いなんだろ?」


 懇願するような彼の瞳は、しかしメイルゥの表情を変化させるに値しなかった。

 彼女は胸元のペンダントトップをもてあそびながら、ゆっくりと口を開く。


「おとぎ話だよ、エドガー。何度も言うがそんなのはないんだ。もしいるなら会ってみたいもんさ。本物の魔法使いなんてのにね」


「――人狼卿、というのを知っているかな」


 エドガーの瞳からすっと焦りが消える。

 残ったのはただの好奇心だった。


「貴族なんだが変わった男でね。王朝崩落後に起こった各国の小競り合いに嫌気がさして人間をやめて狼になったって話さ」


「なんだって?」


「以前、取材にいったんだが断られてね。噂じゃ、自分から魔法使いに呪いをかけてもらったらしい。でもそんなこと我々、普通の魔法使いじゃ出来ない。不可能さ。本物の魔法使いでもない限りね」


「――いやらしい顔を向けるんじゃないよ。あたしじゃないさ、少なくともね」


「じゃあほかに本物の魔法使いがいる可能性には耳を貸してくれるのかい?」


「眉唾もいいとこだけどね」


「やった!」


 エドガーは子供のようにはしゃいでいた。

 それを見たメイルゥは、なんともいえない表情になって。

 微笑ましいやら、呆れていいものやら。


「そういえばこっちにも聞きたいことがあるよ」


「ん? なんだい?」


「『神』さまってのはナニモンだい? あの本にちょいちょい出てくるけど」


 するとエドガーは「ああ」と相づちを打ちつつ、愛用の執筆机に腰をおろした。

 彼が背もたれをまえにして体重を預けると、丈夫なはずの木製の椅子がなんだか悲鳴をあげているようにもメイルゥには感じられた。


「ぼくの考えた新しい概念さ。精霊とも違う信仰対象だよ。万物を創造した存在にして、全知全能。父なる精霊とも言える」


「精霊? 何してくれんのさ」


「何もしないよ。『神』はただ人間を見守ってくれるだけさ」


「はあ? 勝手に子供こさえて、あとは知らんぷりかい。大した男だねぇ」


「あっはっは。きみに掛かっちゃ『神』さまも形無しだなぁ」


 エドガーはパイプを机のうえに置き、火を休ませた。

 次第にくすぶっていく火皿を眺めながら、ほどよく冷めたコーヒーを一気にあおる。


「それできみはこれからどうするのかな? 爵位と領地は残ったんだろ」


「領地は返したよ」


「なんだって? ぼくだってささやかだが、祖国に農園くらい持ってるぞ」


「そんなもんあったって自分で世話できなきゃ邪魔なだけだろう。歴代の陛下からもう十分過ぎるくらいのものは頂戴してるよ」


「ひとがいいというか、無計画というか」


「なんだい?」


「いえ、独り言です。でもひとつだけ忠告させてくれ」


「ん?」


「世の中、きみのように出来た人間ばかりじゃない。元魔法使いのなかには、身分を剥奪され、着の身着のまま王宮を追い出されたようなのもいるんだ。いまじゃ徒党を組んで、盗賊まがいのことをしている輩もいるらしい」


 ガコン、と。

 暖炉のなかで薪が崩れる音がした。

 燃え盛る炎にくべられ、炭となり、やがて灰になる。

 栄枯盛衰はひとの世の常。

 メイルゥは空になったコーヒーカップの底を覗き込んだ。

 飲み残したしずくが乾いて、幾何学的な文様を生み出している。それはどこか狼の顔にも似ている気がする。

 だが、そこに何か呪術的な意味合いを見出せるほど、彼女はロマンチストではなかった。


「世の中、本当に何もかもが変わっていくね……」


「我々の友情以外はね」


「エドガー」


「新作を書き上げるまではここにいるから、街についたら逐一連絡をくれないか。速達でいい。何かあったらすぐ知らせてくれ。協力は惜しまないつもりだ」


「ありがとよ。あんたも身体には気をつけな。妙な風邪が流行っているらしいから――」


 本に挟んだままの十五センチものさしのことを思い出しながら、メイルゥはそう口にした。


 今晩はエドガーの山小屋に泊まり、明日の昼には下山する予定だ。

 まだまだメイルゥの旅は始まったばかり。

 彼女はまだ見ぬ世界へと胸を躍らせた。

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