精霊物語り
真野てん
精霊物語りⅠ/火と風の輪舞曲
[ 1 ] 亡国のサラマンダー
第1話 魔女の車窓から
魔法の時代が終わろうとしている。
鉄のレールが都市とをつなぎ、蒸気が世界を支配した。
嘘で固めた城壁も、千年栄えて一夜で滅ぶ。
動き出した歯車はもう止まらない。
くるくると――くるくると――。
深い夜闇を切り裂いて、いま一台の列車が走ってゆく。
蒸気機関を載せた先頭車両からは、モクモクと青白い煙を吐き出して。
熱を帯びた鋼鉄の車輪は、冷却水が浴びせられると派手な音を立て水蒸気を立ち昇らせる。
渓谷を渡る鉄橋を越え汽笛が鳴ると、あたりに潜んでいた鳥たちが一斉に飛び上がった。
どこまでも暗い。次の到着駅はまだ遠い。
大蛇のように、あるいは艶めかしくくねる女性の腰のように。
長い客車が続いている。
もはや起きている乗客などひとりも居ないだろう、そんな時間だ。
ひとつの客室にポッとランプの明かりが灯っている。
煌々と、というよりも赤々と。
それを見つけた青年車掌は、ほかの乗客に迷惑が掛からない程度の音で、客室のドアをノックした。そしておもむろに一言。
「閣下」
すりガラスの向こう側で影が揺れる。
しばらくして鍵を開ける音がすると、中から「お入り」という声がした。
「失礼しま――閣下、そのお顔は……」
驚く青年車掌の目に飛び込んできたもの。それは亜麻色の髪をした若い女性だった。
年の頃なら十五、六。
目鼻立ちの整った、いわゆる美少女と呼ばれても不思議ではない器量である。
手には一冊の分厚い本。
かたわらには少女の肩口ほどの長さはある一本の杖が立て掛けられていた。
「顔?」
青年車掌の言葉を訝しんだ彼女は、ふと車窓のガラスに映るおのれの姿を覗き込んだ。
すると「ああ」と一言つぶやいて、続けざま「体質だよ。気におしでないよ」と、まるで老女のような口ぶりで青年車掌に声を掛けた。
「は、はあぁ」
分かったような、分からないような。
困惑する青年車掌を見てひとしきりケラケラと笑った少女は、一度本を閉じると「で」と鈴の音の美しさで彼の鼓膜を撫でる。
「なんのようだい? レディを訪問するにしちゃ、ちょいとマナーがなってないね」
「し、失礼しましたっ。あの……まだお休みになられないのであれば、ランプの油は足りているだろうかと心配になりまして」
ふたり併せて四つの瞳が、壁に掛かる照明用のオイルランプを同時に見た。
果実を思い起こさせる柔らかな曲線を描くガラスのシェードと、真鍮製のオイルタンクが特徴的だ。油量計はまだ半分以上を指している。夜が明けるまでには十分の量だ。
淡いオレンジの炎に、トカゲの意匠を施したガラスシェードのレリーフが浮かび上がった。
ふたりは目を見合わせて、ニコリと微笑む。
「まだ大丈夫のようだね」
「そうですか。よかったです。お騒がせしました。ところで閣下」
「閣下はおよしよ。あたしゃもう、この国の魔道士でも何でもないんだよ」
「それでもこの国の恩人に対する、自分の尊敬の念は変わりません」
「あらそうかい。だったらせめて名前で呼んで欲しいもんだ。メイルゥちゃんとかね」
「そんな! 恐れ多い!」
そんな青年車掌の反応を見て、メイルゥと名乗った少女はまたケラケラ笑った。
「それで何の話だっけ?」
「その本、エドガー・ナッシュの新作じゃないですか? ぼくまだ手に入れてないんですよ」
メイルゥの手にしたそれ――彼がエドガー・ナッシュの新作と呼ぶ分厚い本を指さして、青年車掌は屈託なく笑った。
活版印刷の登場によって、かつては手書きでの写本が当たり前だった製本技術は、飛躍的に安価なものになった。その結果として学者やそれなりの身分にしか享受されなかった読書という行為そのものが一般に普及し、いまでは庶民の間でも手軽な娯楽として物語を読むことが出来るようになったのである。
エドガー・ナッシュは、華やかだった剣と魔法の時代を舞台に、勇者たちが異形のバケモノを退治するいわゆる英雄譚で有名な作家のひとりである。
小説とも呼ばれる出版物を手掛ける物書きの代表格で、巷では大人から子供まで、彼の描く物語の世界に魅了されているのであった。
「何だい。あんた、いい歳してまだこんなの読んでんのかい? 子供だましだよ」
するとさすがに気を悪くしたのか、青年車掌は眉間に力を入れムッとした表情を作る。
「でも閣下だって読んでるじゃないですかっ」
「あたしゃいいんだよ。当事者なんだから。内容に不備がないか校閲してやってんのさ。あんただって鉄道が舞台の読み物があったら、どんだけ子供向けでも気になるだろ?」
「そりゃまあ、そうですけど」
「そういうことさ。――それから閣下はよしなってば」
また汽笛が鳴った。
夜の静寂をバケモノの慟哭のような音が通り抜けていく。
「いまどの辺だい?」
不意にメイルゥがそう尋ねると、青年車掌は懐中時計を取り出して窓の外に視線を向けた。
「そうですね――そろそろ鉱山のあたりです。ほら、明かりが見えますよ」
闇夜に浮かび上がった無数の光。
それは松明の炎である。
遠目にもゆらゆらと風に吹かれて、まるでさまよえる死者の魂でも誘っているようだ。
「このあたりは国内でも有数の、精霊石の採掘場になります。そもそも我が国が他国に侵略されそうになったのも原因はこのあたりの採掘権でした」
苦々しく、といった表現がピタリとハマる。
柔和な青年車掌の顔に、深いかげりの色が現れた。
「精霊石の鉱山……なるほど、道理で濃いはずだ」
「はい? なにかおっしゃいましたか」
「なんでもないよ。このあたりが鉱山だったかい。でもまあそのおかげで、長年貧乏暮らしだった我が国でもようやく産業が始まったんだ。これを僥倖と言わずしてなんとする」
メイルゥはそう、うそぶくと胸元から下がるペンダントトップを片手で弄んだ。
涙滴の形をしたくすんだ緑色の鉱石。磨かれているわけでもなく、ただランプの光を鈍く反射しているのみだ。
「でも同盟を締結する条件として他国から出されたのは、魔道士メイルゥを王宮から退任させることでした。200年もの間、軍隊の弱い我が国をたったひとりで守ってきたあなたを……」
青年車掌の声に強烈な悔しさと、そしてメイルゥを案じる優しさとが混じる。
彼女は両頬を持ち上げ、彼の肘のあたりをポンと叩いた。
「あんたらにそう言ってもらえるなら辞めた甲斐があったもんよ。それにね、200年ぶりに暇出されてあたしゃワクワクしてんだ。これから何をやろうかってね。念願だった店でも出そうか」
つとめて、メイルゥが気丈に振る舞っているのが彼にも伝わる。
そんな彼女を見て、青年車掌はまたいつもの柔和な彼に戻ろうとしていた。
「ゴホッゴホッ――」
突如、咳き込んだ彼は、ポケットから取り出したハンカチで口を押さえた。
けっこうな苦しさなのか、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「ど、どうしたんだい、急に? むせ込むような話じゃなかったろう」
狼狽するメイルゥを片手で制すると、青年車掌は徐々に小康状態を取り戻していった。
ハンカチでしっかりと口元を拭い「はぁ~」とため息をひとつついた。
「失礼しました。もう大丈夫。このところこんな咳の出る風邪が流行っていて、自分もとうとううつされました。でも街についたら検査入院で休暇を取らせてもらえるらしいので」
「そ、そうなのかい? 養生しなよ。あんた結婚は?」
「残念ながらまだです」
「なんだい、いい年した男がいつまでも独り身で」
「母にもよく言われます」
照れくさそうに笑う青年車掌。その顔は、どこか少年にも似た純粋さがある。
「なんなら、わたしが婿にもらってやろうか?」
キシシと意地悪な声を出して笑うメイルゥに対し、しかし青年車掌は真剣な眼差しで。
「光栄です。でも閣下にはもっと相応しいひとが添い遂げるべきです。200年間の労を癒やしてさしあげられるような立派なひとが」
茶化すどころか、その神妙さにメイルゥは呆気に取られた。
そして胸の奥にくすぐったさを感じたのか、鼻で笑うようにして「ありがとよ」と。
「十分癒やされたさ。あんたが旦那だったらさぞ毎日が愉快だったろうにね」
「閣下――」
「分かってるよ、こんな婆さんに言われても嬉しくないってんだろ?」
少女は意地悪な微笑みをさらに弾けさせ、青年車掌をからかってみせた。
彼は「いや、そんなことは!」と身振り手振りを使って、一生懸命に否定するのだった。
夜の静寂。
ふたりだけの時間。
ほかの乗客に迷惑が掛からないよう、ちいさな笑い声が重なった。
「そう言えばこれ知ってますか、閣下」
青年車掌は懐から、竹細工で出来た長細い板状のものを取り出した。
よく見えるようにとランプの明かりにかざし、メイルゥの目線の高さへと持ち上げる。
「なんだいこりゃ」
「ものさしと言うものです。これで十五センチという長さが測れます」
「センチ? ああ……単位の統一とか言うヤツかい。むかしは大人の男が大股で一歩一メルデ。指の尺取りひとつで一コーレルって言ったもんさ」
「ぼくも子供の頃にそう教わりました」
「何から何まで変わっていくね。同盟ってよりすっかり属国じゃないか」
「でも単位統一のおかげで色んなものが便利になりました。ほら。この列車だって全部メートル法で作られているんですよ?」
そう言って青年車掌はものさしをドアの取手にあてがった。
すると長さはピタリと十五センチである。
メイルゥは眉根を寄せて、大きくため息をついた。自分の負けを認めたようである。
「はいはい。メートルとセンチね。凄い凄い」
「はははっ。その調子です。――ではそろそろ失礼しますね。このものさしは記念に差し上げますよ。読書のときの栞にでも使ってください。では良い旅を」
ひとり客室に残されたメイルゥは再び本へと視線を戻した。
「良い旅を、か――」
もらったものさしをページに挟み、やっぱり少し仮眠を取ることにした。
メイルゥが静かに瞳を閉じると、赤々と燃えていたランプの炎が、触れることもなくゆっくりと消えていった。
夜明けにはまだ遠い。
つぎの停車駅につくにはさらに遠い。
メイルゥの旅はまだ始まったばかりである。
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